なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

創世記1章から11章による説教(5)

5月2日(日)復活節第5主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう

(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から解き放つ神」。 

    (詩編68:20-21)

③ 讃美歌    358(子羊をばほめたたえよ!)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-358.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編98編1-9節(讃美歌交読詩編107頁)

       (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  創世記2章15―25節(旧約3頁)

    (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  58(み言葉をください)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-058.htm

説教     「楽園追放」    北村慈郎牧師

祈祷

 

  • 私は小さいころよく蛇をみました。青大将かヤマカガシですが、ヤマカガシはまれでほとんどは青大将でした。余談になりますが、私の小さな頃にはヤマカガシには毒性はないと考えられていましたが、インターネットでヤマカガシを調べてみましたら、1974年にヤマカガシには毒性があるとされているようです。
  • その頃私の住んでいた家は、裏は山で、道路からは階段を10数段上ったところに一軒だけありました。裏山の崖には戦時中父親が掘った防空壕があり、そこから山からの湧水があり、裏山の崖の下は池のようになっていました。道路からの階段のレンガの壁には一部亀裂が入っていました。小さいころに、冬から春に季節が移行する頃から夏にかけて、その亀裂から青大将が出たり入ったりするのをよく見ることがあり、蛇は恐いと思うようになりました。私の干支は蛇なのですが、蛇は好きになれません。
  • 蛇を好んで飼って、手で持ったり、自分の首に巻いたりしている人がいますが、私にはとてもその人の気持ちが理解できません。

 

  • 創世記3章は、最初の人間アダム男と女が罪を犯す堕罪物語ですが、この物語では蛇が大きな役割を演じています。1節に≪主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった≫と言われています。この賢い(アールーム)という語は、「ずる賢い、狡猾である」と否定的にも、「賢明である、思慮深い」と肯定的にも用いられ、この両面性が「賢さ」の特徴であります。事実創世記3章の「賢い」蛇の女に向けられた語りかけは実に巧妙であります。月本昭男さんはこのように語っています。<読者は(そして蛇も)、神が最初の人間に「園のあらゆる樹から取って食べてよい」(2:16)と語った言葉を承知している。蛇の問いかけは、「善と悪を知る樹」に言及せずに、神のこの言葉を逆転させる。園のどの樹からも取って食べてはならない、と神に命じられたあなたがたはお気の毒なことだ、とささやくのだ。あなたがたには自由が全く与えられていないのだってね、と>。

 

  • ≪女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない。死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」≫(2,3節)。

 

  • 実は神が人に命じたのは、≪「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると死んでしまう」≫(2:16、17)でした。しかし、蛇に答えた女の言葉は、神が人に命じた言葉が微妙に変えられています。一つは「善悪の知識の木」が「園の中央に生えている木」になっています。また神が人に命じた言葉にはない「触れてはいけない」が加わっています。この「触れてはいけない」が加わっているのは、女は神の戒めを増幅して受け止めていたということでしょうか。この神の戒めは、人間が善と悪を知るようになってはいけない、それによって「死」を自らに招いてはならないということが中心になっています。ところが女の言葉では、「善悪の知識の木」が「園の中央に生えている木」に変わっていて、人間が神の戒めを守るかどうかということに焦点がずらされているように思われます。

 

  • そこに蛇はつけこんで、女に言います。蛇は、≪善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると死んでしまう」≫(2:17))という神の言葉を逆転して、≪決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」≫(4,5節)と。

 

  • 女(妻)も男(夫)も、この蛇の誘惑に対抗できませんでした。二人は蛇の誘惑に負けて、神が死ぬから食べてはいけないと戒めた「善悪の知識の木」の果実を食べてしまったのです。≪女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた≫(6節)。3章22節には、≪主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。・・・」≫と言われています。人が善悪の知識の木からその果実を食べることによって神のようになったと言うのです。

 

  • 何が善で何が悪であるかは、そう簡単には決めることができません。それにも拘わらず、私たち人間は善か悪か、美しいか醜いか、幸か不幸か、快か不快かという二分法によって、物事を差異化し、分類し、位置づけています。それによって、自らをとりまく世界に秩序を与えて、自分の理解できる意味の世界を成り立たせているのです。それが私たちが生きている伝統的な意味世界と言えるでしょう。無秩序な世界では人間は生きていけないからです。<ところが、人間の側の尺度としての「善・悪」二分法が対象それ自体の属性的価値として実体化されるとき、そこに、優劣による世界の差別化、序列化がもたらされます。こうして、「善と悪を知る(=支配する)」人間は、差別化、序列化された世界に「神のように」君臨することになるのです(3:22)。そして、自らをも優劣によって差別化し、より高い序列位置に自らを置こうとする(しばしばこれは「自己実現」などと呼ばれるが)。物語は、「善と悪を知る」内実をこのようにとらえ、一方では、それによって世界を差別化、序列化せざるを得ない人間の宿命を語りつつ、他方で、それが神の戒めを破った結果であって、人間本来のありかたの逸脱もしくは疎外形態に他ならないと指摘しているのではないか」。月本昭男さんはそのように語っています。

 

  • 人間は事の重大性に気づかず、しかし自分の意志で神のことばに背いてしまいます。心をこめての神への応答に生きるものとして神が与えた自由を、人は蛇の甘言によって逆用してしまったのです。この自由の逆用は、言い逃れようのない人間の責任です。人間はこの罪の責任を負わなければなりません。秋田稔さんは、「これはもはや単なる神話物語ではない。問題の提起である。大胆な言い方をするならば、神の誠実に対して、全くいいのがれの出来ないきびしい人間の不誠実が、ここでは人間の実存をそそぎ出しての神への懺悔あるいは告白として語られているのである。ここにある現実は、矛盾の現実ではなく、罪の現実である」と言っています。

 

  • この物語では、このような人の神への背きが、人間関係の根本的な破壊につながることを示しています。女は、蛇の巧みな誘惑にそそのかされて実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べました。すると、二人の目は開け、自分たちが裸であることを知って、いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとしたというのです(6,7節)。2章25節には、≪人と妻とは二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった≫と言われていましたのに、神の命令に対する違反の結果、二人は裸であることを恥ずかしいと思うようになり、お互いに隠し合って、率直に向き合う関係を保つことができなくなったのです。

 

  • 彼らは自らの裸を恥じるだけでなく、園の中を歩く神の足音を聞いて、神の顔を避けて、園の木の間に隠れました。≪主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか」。」彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」≫(9,10節)。そこで、さらに神が≪「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか」≫(11節)と問いただすと、アダムは≪「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」≫(12節)と言って、自分の違反の罪の責任を女に転嫁します。女に向かって神が、≪「何ということをしたのか」≫(13節)と言うと、女は答えて、≪「蛇がだましたので、食べてしまいました」≫と蛇に責任転嫁をします。

 

  • <他人に責任を転嫁して自分は安閑としている冷酷さが、かれらの心を占めたのである。神から独立して自らの自由を謳歌する筈の人間、その人間は神の前に昂然として胸をはるどころか、恐れおののき、問いつめられて責任逃れをし、結局はその責任を神の方向にもってゆく。恐れつつも神への秘かな反抗が、かれらの心をいよいよむしばみ、ついにその最愛の妻、「わが肉の肉、わが骨の骨」を神の前に突き放してしまう。かくして、かれは自らまねいた孤独に陥ってしまうのである」(秋田稔)。

 

  • しかし、アダムは、神からの問いかけに責任転嫁をした≪女を、エバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである≫(20節)と言われています。また21節では≪主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた≫とも言われています。

 

  • ここには自らの責任転嫁によって女との関係を失い、孤独に陥ったアダムが、その孤独からの解放をもう一度女に求めているように思われます。また、神の戒めを破ったアダムと女を、そのまま神は放置するのではなく、二人に皮の衣を作って着せられたことによって、背いた二人に対する神からの働きかけ、保護が続けられていることが示されています。神は背いた人を裁くと共に保護するというのです。<神は裁いて追放し、あとは知らない、というのではないのです。人間に対して、神はどこまでも人格関係に立とうとしているのです。人間は神の顔を避けて神から逃走しようとし、神と向き合う人格関係から身を引いてしまいます。それに対して、神はエデンからの追放という裁きを行いますが、「皮の衣を作って着せ」て、保護をしたうえで追放するのです。関係を切らないわけです。それが(この物語の)著者(ヤㇵウィスト)の理解です>。

 

  • この堕罪物語に語られています、神に背いて、神のようになろうとする、自分を中心に置く人間の高慢による罪の現実は、現代世界を見渡すときに、今も克服されていない私たちの現実の姿ではないでしょうか。そしてまた、その人間の高慢の結果、私たちがお互いを「助け手」として協力して生きていくことも破壊されているのですが、それもまた私たちの現実ではないでしょうか。

 

  • 高柳富夫さんは、この堕罪物語の著者<ヤㇵウィストが考えているのは、関係における率直さではないか>と言っています。そして<人間は神からの呼びかけに対して、「私はここにいます。あなたが食べてはいけないと言われた戒めを破って食べてしまいました。おゆるしください」と答えることを期待されていたのです。それが人格的な応答関係というものです。神は「間違いを絶対に犯すな。間違えば決してゆるしはしない」などと言ってはいないのです。間違ったら率直に謝るという関係に生きることを期待している、というのが著者の理解です。/人間は間違うのです。しかし、間違いに気づいたら、「私は間違いを犯しました。おゆるしください」と告白をする。これが神との、また人間同士が互いの人格的応答関係に生きるということです。そこに、神からのゆるしがあり、お互いにゆるし合うことがあるのです>と言っています。

 

  • その通りではないでしょうか。自分を絶対化し、正当化する私たちの高慢が、神との関係の崩壊と共に、他者である隣人との関係の崩壊としての死をもたらすのです。堕罪物語において著者ヤㇵウィストはそのことの深刻さを語ることによって、神との、また人間同士が互いの人格的応答関係に生きることの大切さを語っているのです。そのメッセージに現代を生きる私たちも真剣に耳を傾けるべきではないでしょうか。

 

祈ります。

  • 神さま、今日も礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。新型コロナウイリス感染再拡大のために、また教会で皆が集まってする礼拝はできませんが、このようにメール配信によって共に礼拝にあずかることができ、感謝します。
  • 今日は創世記3章の堕罪物語から、神との、また人間同士の関係の崩壊という罪の現実について考えさせられました。現代の私たちが生きています社会においても、私たちは、関係の豊かさの中で、自分が裸であることを恥じないで、互いが助け合い協力して生きているとは言えません。むしろその反対に、分断と序列化の中で孤立を強いられて、孤独に苦しんでいる人も多くいます。また、己を絶対化し、自己正当化する誘惑に陥っている人も多くいます。
  • 神さま、あなたと、また他者である隣人と、人格的応答関係を私たちが忍耐強く生きてい行くことができますように、私たち一人一人をお導き下さい。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     530(主よ、こころみ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-530.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。

 

創世記1章から11章による説教(4)

4月25日(日)復活節第4主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう

(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から解き放つ神」。 

    (詩編68:20-21)

③ 讃美歌    224(われらの神 くすしき主よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-224.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   136編1-6節(讃美歌交読詩編149頁)

       (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  創世記2章15―25節(旧約3頁)

    (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  55(人となりたる神のことば)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-055.htm

説教     「助け手が必要な人間」(人間の創造③)  北村慈郎牧師

祈祷

 

  • 今日は、創世記2章のヤㇵウィストによる8節以下のエデンの園の物語から、このエデンの園の物語において、神による人間創造がどのように描かれているかを確かめたいと思います。そしてそこで何が私たちに語られているのかを聞きたいと思います。

 

  • 8節、9節に、土(アダマ)の塵で形づくられ、その鼻に神の命の息を吹き入れられて生きた者となった人(アダム)を、≪主なる神は、東の方のエデンに園を設け、・・・そこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知恵の木を生えいでさせられた≫と言われています。
  • <エデンとは、おそらく「歓喜」とか「喜び」という意味ではないかと言われています。エデンの園と言えば、「喜びの園」「歓喜の園」と言う意味ではないかということです>。9節では、主なる神は、エデンの園を設けて、そこに人(アダム)を置いたとだけしか言われていませんが、15節ではこのように記されています。≪主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた≫と。
  • ここには、この著者が考える、“人間は何のためにつくられたのか”という人間創造の目的が示されています。人間がつくられた目的は、「地を耕し、守ることだ」と言うのです。同時に、人間とは何かが意識されています。「地を」と言ったので「耕す」と訳されるのですが、この「耕す」という言葉は、もともとは「仕える」という意味の言葉です。「地に仕えこれを守ること、それが人間に与えられた務めであり、人間が創造された目的である」と言うのです。地というのは大地であると同時に、自然全体と言ってもよいでしょう。つまり、「人間が自分以外の被造物に仕えこれを守ること、それが人間に神から与えられている務めだ」と言うのです(高柳富夫)。
  • 私が今住んでいるところの近くには、田畑が広がっている田園地帯があります。また、大山をはじめ丹沢山系が見えますし、富士山も丹沢山系の向こうに見えます。自然が豊かです。今草が生えた田んぼを農家の人が耕運機で耕し、田植えの準備をしている風景が見られます。一年の間田んぼに注がれる農家の人の労力は、ただ単に耕すという以上に、「地に仕えこれを守る」姿に感じられます。
  • ビルに囲まれ、アスファルトの道路しか見えないところで生活していますと、大地・自然に仕え、これを守るのが、人間がつくられた目的であるということは、なかなかわからないかも知れません。しかし、今私が住んでいるところでは、農家の方の生きざまを見ていて、そのことを素直に理解することができます。

 

  • エデンの園に置かれた人(アダム)に対して、神は一つの禁止命令を与えます。≪主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪を知る木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」≫(16、17節)と。
  • 高柳富夫さんは、命令と強制との違いに注目しています(『いま、聖書を読む~ジェンダーによる偏見と原理主義の克服をめざして~』)。強制は人(アダム)の側に選択の余地がありません。しかし、命令には、命令を聞く自由と破る自由が人(アダム)の側にあります。神は人(アダム)が自ら選んで、自発的に「善悪を知る木から、決して取って食べない」ことを期待して、この命令を語っているのです。
  • 神は、人間が神からの問いかけ、働きかけに対して、自由に自発的に応答して向き合って生きることを待っている、ということです。無理矢理、いやでもそうさせるというのではありません。そういう神との関係がここで言われているのです。
  • 善悪を知るようになるとは、そのような神との関係を超えて、逸脱して、人間が神のようになることです。すなわち自己を神とし、絶対化することです。自らが小さな神となること、ここでは、このことだけは厳にいましめられているのです。
  • 自分を神とする自己神化をきびしく戒め、神を神とすること、それが人間の自由を真に自由たらしめること、それが真の人間として生きることになるのだと言うのです。己を神とする人間の自己神化、絶対化が、非人間化を生み出すのだと。
  • ≪善悪を知る木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう≫の最大のポイントは、木が何を意味するかということよりも、むしろ神のことばを人間がどううけとめるか、従うのか、背くのかという一点にあるように思われます。神の命令を前にして、自由意志による決断をせまられている人間。意志の自由と決断の問題が、ここに大きくうかびあがってくるのです。神の禁令を守るということは、神を第一義的に意志し、神の言葉をうけとめて自らを規制し、制限することです。禁令を破ることは、神との関りにおいて、むしろ自らを第一義的に意志し、自らのおもいを通すことであります。この「あれか、これか」の前に立つ人間が、そのいずれを意志し、決断するにしても、それは自らの意志においてであり、その決断に責任を負わなければなりません。
  • 3章に繋がる堕罪にいたる物語の展開は、人間の自由が責任と結びついていることを示しています。しかも、神との関係における態度決定について、人はその決定を任されているのです。これが、人間を他のすべての被造物と決定的に区別するところです。神を第一義的に意志すること、そして神の信任にこたえる責任を自覚すること、これが自由を成りたたせるのです。
  • この両刃を欠くとき、人間の自由は、むしろ破滅につながってしまいます。かかる破滅への自由を、ヤハウイストは、罪人となった人間とのかかわりで3章の堕罪のところで語っています。人間は、神の召しを通して人間としての生をうけとるのであり、その意味で応答的存在なのです。

 

  • もう一つ、ヤㇵウィストの人間創造物語の中で重要な点は、18節以下に記されています。≪主なる神は言われた。「人が独りでいるのはよくない。彼に合う助ける者を造ろう」≫(18節)。<神は、決し神との関係にのみとじこもる孤独な応答的存在として、人をつくったのではありません。神は≪人が独りであるのはよくない≫と言われたというのです。だから≪彼に会う助ける者を造ろう≫と。
  • 新共同訳聖書で≪彼に合う助ける者≫と訳されている言葉は、ヘブル語の「エーゼル ケネグドー」です。≪彼に合う≫というと、「彼にふさわしい」とか「彼のために」という意味になります。しかし、ヘブル語の「ケネグドー」は「彼の前にあるものとして」とか「彼と向き合う者としての」という意味です。ですから、月本昭男さんは岩波の創世記でこのところを「彼と向き合うような助け手」と訳しています。「エーゼル」も確かに「助け手」という意味もありますが、「仲間」「連れ」「相棒」という意味にも訳せるそうです。

 

  • 19節以下では、≪主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところに持って来て、人がそれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった≫(19,20節)と言われています。獣や鳥の生き物は人間の助け手にはなれませんでした。そこで神は、神は人の孤独をみて、この人の肋骨から女をつくられたというのです(21-23節)。アダムのあばら骨から造られた女は、人(アダム)である男の「彼と向き合うような助け手」「仲間」「連れ」「相棒」として対等な関係にあると言えます。
  • ボンフェッファーはこのように言っています。<なぜ神の保護のもとに生きる人間がなおも助け手を必要とするのか。人間の助け手、援助者は、聖書の多くの箇所によれば、ただひとりの神だけである。したがって、ここでこのように「女」について語られているのは、何か特別なことが考えられているからにほかならない>と言って、その<何か特別なこと>について、このように記しています。<われわれは創造の出来事の全体との関連から、「男」の上に置かれている人間としての限界を共に担うことによって、「女」は「男」の助け手となったのだと理解することができる。他の人間そのものが、神が私に置いた限界である。すなわち、他の人間とは、神が私にもたらした「私を限界づける者」である。しかし、私はこの者を愛することができ、その愛のゆえにこの限界を踏み越えないでいることができる。被造物(神に限界づけた者)でありつつ自由であること(他者に対して自由であること)は、他の人間の創造によって初めてその人間を愛するということによって可能になる>と。
  • 神に限界づけられた被造物としての人間が、その限界をわきまえつつ自由に生きることができるために、神は私たち人間に共に生きるパートナーを与えて下さった。そのパートナーと愛し合うことによって、神に限界づけられた被造物としての人間として自由に私たち人間は生きることができるのだと言うのです。
  • ボンフェッファーは、さらにこのように続けます。<このことからひとつの事柄が確かになる。すなわち、他者に対する愛が破綻をきたすと、人間は自分が限界づけられていることを(他者を自分の思うままにすることができないということを)憎むようになるということである。その場合、人間はそれでも他者を所有しようとむなしく望むか、絶望のあまり相手をどこまでも滅ぼそうとするかのどちらかである。なぜなら、他者に対する愛を失った彼は、今や自分の権利のみを訴えるようになるからである。それまでは謙虚に受けたものを、今は誇りと反逆の理由となるからである。これがわれわれの世界である。われわれの助け手である他者は、われわれの限界を共に担ってくれる時には恩寵となるのだが、その恩寵が今や呪いとなる。助け手がわれわれの神に対する憎しみをいっそう激烈なものとする。彼のためにわれわれはもはや神の前に生きることができなくなり、彼がわれわれを滅びに定めることになる≫と。
  • 何という深い、また現実に即した人間理解ではないでしょうか。神と隣人である他者との関係を生きることが、祝福である人間の姿と、それが呪いになる高慢な人間の姿を、見事に描いているのです。

 

  • 最後に24節、25節の≪こういうわけで、男は父母を離れて女を結ばれ、二人は一体となる。人と妻とは二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった≫に触れて終わりたいと思います。
  • 古代の強固な家父長制、父権制社会のなかでこの物語の著者ヤㇵウィストが、親子の関係よりも、一対一の夫婦としての関わりの方を優先していることは、注目に値します。≪父母を離れて≫とありますが、この≪離れて≫というヘブライ語は、直訳すると「見放す」とか「見捨てる」になります。イエスが十字架上で叫んだと言われる「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになるのですか」は詩編22編の引用と言われますが、この「お見捨てになるのですか」と、ここでの「離れて」とは、全く同じ言葉なのです。ですから、ただ父母を離れるのではなく、父母を見捨てて二人は一体となるのです。それほどに、この男女の結びつきは父母との自然の結びつきを超える関係であり、互いに向き合う関係であることを、著者は示そうとしているのです(高柳富夫)。
  • ≪人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった≫。ここもボンフェッファーの言葉に耳を傾けたいと思います。<人間が「恥ずかしい」と思うようになるのは、人間が自分の分裂を知る時である。世界全体の分裂について、あるいはまた自分自身の内部の分裂について知るときである。「恥ずかしい」と思うようになるのは、相手をもはや神の賜物としてありのままに受け入れようとしない時である。あるいは相手のありのままの姿に満足できずに相手に無理なことを要求する時であり、また、相手に対して、<私と結びつくことで不満を感じているのではないか、それゆえ私に無理なことを要求してくるのではないか>と思う時である。恥とは、私と相手の悪のゆえに、すなわちわれわれの間に入ってきた分裂のゆえに、私自身を相手の前で隠すということである。一方が他方を、神が与えた助け手として受け入れるところでは、人間は恥じることがない。その助け手の前で自分が「相手から出た者」であり、「相手へと向かう者」であり、しかも自分が「相手に属する者」であるという理解に立つなら、人間は恥じることがない。お互いに相手に対して従順であるところでは、人間は人間の前で裸であり、おおいなしであり、肉体としてまた精神として赤裸々である。そしてそのことを決して恥ずかしいとは思わないのである。矛盾した世界において初めて恥が生じる>。

 

  • 今回もボンヘッファーの言葉の引用が多くなりました。私たちは「助け手が必要な人間」なのです。自らの人間としての限界を受け入れつつ、その中で「助け手」、「仲間」「連れ」「相棒」としての他者と共に愛し合う豊かな自由を生きていきたいと願います。

 

祈ります。

  • 神さま、今日も礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。新型コロナウイリス感染再拡大のために、また教会で皆が集まってする礼拝はできませんが、このようにメール配信によって共に礼拝にあずかることができ、感謝します。
  • 神さま、他者に対する愛が破綻をきたすと、私たちは自分の権利のみを主張し、共に生きるべき他者を支配しようとしたり、傷つけようとするものです。残念ながら今のこの社会の現実はそのような悪しき人間の姿が露呈しているように思われます。
  • 神さま、あなたとの関係においてはじめて一人の人間として、人間本来の互いに愛し合う豊かさを生きることができることに、私たち一人一人を気づかせてください。
  • 神さま、変異株による新型コロナウイルス感染拡大でまたその地域に緊急事態宣言が今日から発出しました。緊急事態宣言を繰り返さざるを得ない国や自治体の新型コロナウイルス感染拡大に対する対応に疑問を感ぜざるを得ませんが、今大変な状況にある医療の現場を担う方々、コロナに感染して苦しんでいる方々、その対処のために病を抱えていながら適切な医療を受けられないでいる方々を支えてください。
  • ミャンマーをはじめ強権的な政治の犠牲になっている方々を、その犠牲から解放してください。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     102(全き愛 与える主よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-102.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。

 

船越通信(484)

 4月25日(日)からまた船越教会の会堂での礼拝はしばらくお休みにします。従って、船越通信もしばらくお休みします。

 

船越通信、№484    2021年4月18日   北村慈郎

  • 10日の土曜日は午後船越教会に来て、総会資料を作成し、「船越の丘から」14号の印刷、それから教会裏の崖地のことで、「急傾斜地崩壊危険区域指定と防災工事」の県と横須賀市に提出した要望書のコピーを協力して下さった近隣の方々に送るために、その印刷もしました。このところ新型コロナウイルス感染があって、印刷機を使うのは、会堂で礼拝がある時に週報を印刷くらいでしたので、久しぶりに印刷機でまとまった印刷をしました。印刷が終わって、総会資料を綴じ、「船越の丘から」を折ってから、横浜駅で買ってきた崎陽軒のシュウマイ弁当を夕食としていただきました。夜は最後の説教の準備をして、翌日の日曜日の朝早めに起きるために、0時前には寝ました。
  • 11日(日)の礼拝には耳の不自由なOさんが出席しました。今回はパソコン筆記を準備できず、T・Tさんに横についてもらい文字筆記で対応してもらいました。Oさんは礼拝に来るときには、必ず私への質問を用意して来られます。今回も礼拝後、新型コロナウイルス感染のために教会の礼拝もみんなが集まってする礼拝ではなく、リモートで一人一人が各自守る礼拝を行っているところも多いが、それは礼拝としてどうなのか? また、見ない教会と見える教会の関係はいかがなものか? などの質問を受け、私なりに文字筆記で応えました。
  • 礼拝後役員書記のN・Kさんが、県と横須賀市に提出した教会裏崖地の「急傾斜地崩壊危険区域指定と防災工事」要望書コピーと、手紙を添えて、要望書に署名捺印してくださった近隣の方々に封書にして届けてくださいました。実はこの要望書が受け入れられたとしても、工事が始まるのは、行政の方によれば約20年後ということでしたので、近隣の方々には代が変わっても、この件についてそれぞれの家の方に継承してもらいたいと思い、要望書のコピーと何れこの要望が承認された時には、その承認書もお送りすることに、役員会で相談して決めていたからです。N・Kさんには、要望書のコピーと共に、この日の礼拝に欠席した会員の方へ郵送する総会資料を封筒に入れる作業もしていただき、私がそれを鶴巻に持ち帰って、翌日郵便局で出すようにしました。
  • その後、皆が帰った後残っていました二人の方と私とで、しばらく話し合いの時を持ち、午後1時半ごろ散会しました。私は午後2時過ぎに船越教会を出ましたが、京急田浦駅近くに来て、携帯を忘れたことに気づいて、教会に戻りました。2階の牧師館の私の机の上に携帯が置いてあり、それを持って、また京急田浦に向かいました。段々こういうことが頻繁になるのでしょう。鶴巻には午後5時ごろ着きました。
  • この週は比較的忙しく過ごしました。支援会の通信第25号の原稿のまとめの作業があり、13日(火)には編集して下さる人にその原稿を送りました。教区の二つの委員会の年度報告もまとめなければなりませんでしたので、それも原案を書き上げました。オリエンテーション委員会の方はメールで各委員に送り、意見を聞いて完成することにしました。寿地区活動委員会は、今年度は新型コロナウイルス感染のために、例年の活動は出来ず、イレギュラーな形になり、その現状を私自身は十分把握していませんので、地区センターのそれぞれの働きに対する評価もいつものようには書けません。一応私が原案を書いて、委員会は16日(金)にありますので、その前に各委員にメールで送り、委員会までよく読んでもらい、修正のある人は委員会で修正意見を言ってもらうようにしました。16日(金)午後6時半からなか伝道所で行われた委員会では、大分修正意見があり、委員会中に修正文案を書いてもらう人も二人いて、それらを持ち帰って、鶴巻に帰ってから、原案を直し、教区に提出する会計報告と共に、各委員へメールで送りました。終わったのは0時を大分過ぎていました。
  • 15日(木)には午後4時半から高座渋谷教会で、基地・自衛隊問題小委員会が久しぶりに開かれました。委員全員が集まり、年度報告の確認や次年度のことを話し合いました。基地小も集会の計画はありますが、まだしばらく新型コロナウイルス感染の状況を見ることにしました。14日(水)に自宅の冷蔵庫が壊れ、近くの量販店で買った新しい冷蔵庫を15日(木)に来るというので、最初時間が何時になるかわかりませんでしたので、基地小の委員長にはメールでもしかしたら委員会を欠席せざるをえないと連絡しておきました。しかし幸い新しい冷蔵庫は15日(木)午前中に来ましたので、基地小の委員会に出席することができました。
  • 斎藤幸平『人新生の「資本論」』⑨

▼斎藤は「経済成長」はグローバル・サウスの人々には必要であることを認めている。「ただし、はじめにひとつ確認しておこう。電力や安全な水を利用できない、教育が受けられない、食べ物さえ十分にない、そういった人々は世界に何十億人もいる。そうした人々にとって、経済成長はもちろん必要だということである」。しかし先進国を含めて世界の国々がこのまま経済成長を続ければ、環境破壊による地球の滅亡は避けられない。「私たちが、環境危機の時代に目指すべきは、自分たちだけが生き延びようとすることではない。それでは、時間稼ぎはできても、地球はひとつしかないのだから、最終的には逃げ場がなくなってしまう。/今のところは、所得の面で世界のトップ10~20%に入っている私たち多くの日本人の生活は安泰に見える。だが、この先、このままの生活を続ければ、グローバルな環境危機がさらに悪化する。その暁には、トップ1%の超富裕層にしか今のような生活は保障されないだろう」。「だから、グローバルな公正さというのは、抽象的で、偽善的な人道主義ではない。他者を切り捨てる前に、他者の立場に立ち、明日は我が身だということを想像してほしい。最終的に自分自身が生き延びるためにも、より公正で、持続可能な社会を志向する必要があるのだ。それが、最終的には人類全体の生存も高めることになる。/それゆえ、生存の鍵となるのは、「平等」である」。平等・公正さは資本主義においては不可能であることを斎藤は認めている。(続く) 

船越通信(483)

船越通信、№483 2021年4月11日 北村慈郎

  • 4日(日)はイースターの礼拝でした。昨年のイースターは4月12日(日)で、その少し前の4月7日に第1回緊急事態宣言が出て、会堂での礼拝を休止するようにした初めての日曜日でした。ですから昨年のイースターは会堂での礼拝はありませんでした。今年は第2回目の緊急事態宣言が3月21日(日)に解除されましたので、3月28日(日)から会堂での礼拝を再開しました。そのため4月4日(日)のイースターの礼拝を船越教会の会堂で行うことができました。イースター礼拝のご案内もごく限られた方々にだけは差し上げましたが、その案内には「無理されませんように。ご案内まで」と書いておきましたので、イースターの礼拝に出席されたのは、普段の礼拝に出席している方々だけでした。それでも14名の出席者がありました。
  • イースターの礼拝では、いつも行っている聖餐式は行いませんでした。また、いつものイースター礼拝では、礼拝後会食をしていますが、今年は昨年のクリスマス礼拝同様お弁当をパックにして、ペットボトルとともに出席者にお配りしました。持ち帰る方、集会室や会堂で分散して食べていかれる方、どちらでも自由にしていただきました。教会で食べていかれた方が多かったようです。その後皆さんが散会した後、役員会を行いました。
  • 役員会では、4月18日(日)礼拝後に予定しています2021年度教会定期総会の準備を中心にしました。2020年度の会計報告、2021年度の基本方針及び事業計画を審議し、承認しました。ただ2020年度の教会活動総括については、いつも役員会書記が用意するのですが、私が役員会書記のNさんに前もってその旨連絡するのを失念し、後日メールでNさんがまとめてくれました2020年度教会活動総括を送っていただき承認しました。2020年度の会計報告については、N・Jさん、N・Kさんに監査をお願いし、会計のHさんと共にこの週のうちに会計監査を行っていただくようにし、11日(日)に総会資料を教会員の方々に配布するのに間に合うにしました。2020年度も、コロナウイルス感染拡大により例年のようなわけにはいきませんでしたが、会計も少し余剰金がでるようですし、皆さんに支えられて教会活動を続けることができたことは感謝です。
  • 役員会は午後1時半ごろに終わりましたが、私は洗濯などをしてから、午後3時ごろ船越教会を出て、鶴巻に向かいました。午後5時過ぎに鶴巻の自宅につきました。
  • この週は、6日(火)午後6時から蒔田教会礼拝堂で教区の常置委員会があり、私も出席しました。この日の議事も、必要最低限の議事を扱うだけでした。3月末で常置委員の大船教会牧師松下道成さんが転任されたので、6月末の教区総会までの残任期間を次点の横浜指路教会牧師藤掛順一さん常置委員になりました。その他書面決済で行った第145回教区総会に関する件、按手礼式に特化して行い、定足数不足で開催できなかった第146回臨時教区総会に関する件が、報告承認として議事になりました。按手礼式に特化した臨時教会総会が定足数不足で不成立になったこと、それにも拘わらすその場で臨時常置委員会を開催して、常置委員会決議による按手礼式執行を強行した教区執行の姿勢について、一人の常置委員会陪席者から批判的な発言がありました。教師検定については歴史的に受験拒否の問題があり、その問題が解決されずに今も継続している中で、この教師検定問題を問う作業を放棄して、按手礼式執行のみを強行するのはいかがなものかという批判です。この批判は教団の歴史を考えると大切で本質的なものだと思いますが、私はかつて受験拒否を10年間し、正教師検定試験を受験し、按手礼を受けて正教師になりましたので、彼の批判の正当性は認めつつも、同じような立場をとることができず、正教師試験を受けて、按手礼を受けようとする教師の方々の按手礼執行を、常置委員会や教区総会の質疑応答において意見は申し上げますが、容認せざるを得ません。
  • 7日(水)は20:30から支援会の世話人・事務局会をズームで行いました。昨年10月31日に早稲田奉仕園のスコットホールで開催した支援会第8回総会の講演を含めた報告を中心にした通信第25号を5月10日に発送することなどを話し合いました。
  • 斎藤幸平『人新生の「資本論」』⑧

▼(米国において温暖化防止と経済格差の是正をもたらす形で行う経済刺激策を意味する)グリーン・ニューディールは、再生可能エネルギーや電気自動車を普及させるための大型財政出動公共投資を行う。そうやって安定した高賃金の雇用を作り出し、有効需要を増やし、景気を刺激することを目指す。好景気が、さらなる投資を生み、持続可能な緑の経済への移行を加速させると期待するのだ。▼だが、それでも問題は残る。それが果たして、地球の限界と相容れるかどうか、という疑問が湧いてくるからだ。「緑」と冠をつけたところで、成長を貪欲に限りなく追求していけば、やがて地球の限界を超えてしまうのではないか。そもそも技術がいくら進歩したところで、効率化には物質的限界があるのだ。効率化が進んでも、半分の原料で自動車を作れるようなわけがない。▼また、産業革命以来の資本主義の歴史を振り返ればわかるように、二十世紀の経済成長は、化石燃料を大量に使用することによって可能となった。経済成長と化石燃料は、分かちがたく密接に連関しているのだ。それゆえ、従来どおりの経済成長を維持しながら、二酸化炭素排出量を削減していくことに、物理的な困難が伴うのは自明の事実なのである。▼逆説的に聞こえるかもしれないが、グリーン・ニューディールが本当に目指すべきは、破局につながる経済成長ではなく、経済の脱成長化なのである。

・ 斎藤幸平は、最近よく見かけるSDGs(持続可能な開発目標)についても、「政府や

  企業がSDGsの行動指針をいくらなぞったところで、気候変動は止められないのだ。

  SDGsはアリバイ作りのようなものであり、目下の危機から目を背けさせる効果しか

  ない」と言い、経済の脱成長への方向転換を促しています。(続く)

18日(日)の説教の補足

皆様へ

 

18日の説教の中で土の塵から造られた人間は大地(自然)と一体であるということをお話しました。

東京新聞4月20日朝刊を読んでいましたら、下記の文章に出会いました。18日の説教の補足になりますので

紹介します。

                              北村 慈郎

『今週のことば 松本章男』

【環境の復元とは、人類を支える生態系を維持する責任を人間自身が果たす、自然とのレシプロシティー互恵性)の確立に尽きる。  R・W・キマラー】

 北アメリカ先住民の子孫である女性植物学者の著作、訳書名『植物と叡智の守り人』より。/白色系人種のそもそもは、禁断の木の実を食べたためエデンの園から荒野へ追われた。北アメリカ先住民は日本原人と同じ黄色系。植物の種をもって天空から降臨したマザーが創る緑の国を営々と広げたという創世記を伝える。/自分たち先住民は、自然を畏怖し尊重し、人間は自然の一部であるという自覚に生きている。植物と動物は共通の言語をもって話し合いをする。自分たちはその神秘をも知ると、この著者は語る。/先進国の人間は「種」の孤独に陥ってしまっている。今こそ、他の生きもの、とりわけ植物と繋がりを取りもどすべきなのだ。/自然界に存在する知恵に敬意をはらおう。人間は太古から人間以外の生物によって生命を支えられてきた。これからは、それらの生物の生命を人間社会が支えてゆくべきではないだろうか。(随筆家)

創世記1章から11章による説教(3)

 

4月18日(日)復活節第3主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう

(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃美歌    206(七日の旅路)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-206.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編116編1-14節(讃美歌交読詩編128頁)

       (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  創世記2章7節(旧約3頁)

    (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  382(力に満ちたる)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-382.htm

 

説教     「アダムとイブ~人間の創造②~」  北村慈郎牧師

祈祷

 

  • 3月28日の日曜日の礼拝説教で、創世記1章の方の創造物語から、神による人間の創造についてお話ししました。そこでは主に二つの点、神の「被造物」としての人間と、「神のかたち」(神の似姿)としての人間について考えました。そこで、「聖書でいっている被造ということの意味は、人間が先ず自分を尺度としてすべてを律することをやめて、神中心に生き、自分は一切を神に負うものにすぎないことを率直に認めることであろう。このことがわかることは、人間にとっては、その生活と思想の根本的方向転換を意味する」(秋田稔)こと。地上における人間の支配権が神のかたちという語であらわされていることは、人間の地上支配が、実は神の支配の代理あるいは代行であることを意味しているとみてよいであろう。人間の尊厳は、神の尊厳にもとづき、それを表わすものである。人間は、神のよびかけにこたえて神の尊厳、神の栄光を表わすべく責任づけられ、使命を与えられたのである」こと、を学びました。

 

  • 今日は創世記2章の方の創造物語から、ヤㇵウィスト(2章の創造物語では神名が、1章の方の神名エロヒームと違って、ヤハウエになっていることから、2章の方の創造物語の作者をヤㇵウィストと言う)の神による人間の創造について学びたいと思います。

 

  • ヤㇵウィストの物語によりますと、人間は神によって「土(アダマ)の塵」からつくられ(2:7)ました。そして、3章19節で≪お前は顔に汗を流してパンを得る。/土に返るときまで。/お前がそこから取られた土に。/塵にすぎないお前は塵に返る≫と言われていまように、やがて土(塵)に帰るべく定められているのです。この定めより人間は自由ではありません。

 

  • 神が自分にかたどって創造した人間(創世記1:27)である私たちは、土から取られた人間なのです。人間は、陶芸家がひとかたまりの土で人間の形をつくるように、ひとかたまりの土でできているのです。土との結びつきは、私たち人間の生まれながら持っている性質の一部なのです。

 

  • 「大地は人間の母」であり、その胎から人間は生まれました。ですから、人間の肉体は地に由来しています。この土という肉体において私たちが存在しているということは、人間の生まれながら持っている性質であって、人間の牢獄、覆い、外形ではありません。人間の肉体は、人間自身なのです。

 

  • ありのままに存在する人間の尊厳は、まさに人間が母なる大地と結びついており、「肉体」として存在しているところにあります。人間は、地上に実際に存在する者として、存在します。上から来ていながら残酷な運命によって地上の世界に閉じ込められ、奴隷とされているのではありません。

 

  • 私たち人間は、その中に眠っていた、死んでいた地から、創造者である神の言葉によって呼び出されたのです。肉体における私たちは、それ自体地の一部であるにすぎませんが、それは神によって人間存在へと呼び出された「地」なのであります。

(以上はほぼボンフェッファーによる)。

  • 交通事故によって人が急死してしまったり、さまざまな災害によって人の命を奪われたりしたときなどに、「人間って、はかないものですね」と思うかも知れませんが、それは、人間が土からできた肉体で存在しているからです。もろいのです。しかし、そこにも人間の尊厳があるのです。

 

 

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  • このミケランジェロの天井画について、ボンフェッファーはこのように語っています。「創造されたばかりのまどろむアダムは、彼が横たわる地面にしっかりと、密接に結びついているので、なお夢の状態にありながらも、まことに不思議な、驚くべき存在
  • となっている。まだ一塊の土くれにすぎないのだが、まさに創造され、祝福されたばかりの地に完全に依存しており、その中でこそ、この最初の人間の栄光のすべてが明らかにされているのである。この地上でのまどろみの中で、その深い創造の眠りの中で、人間は神の指との肉体的な接触を通して、生命を体験する。神の指が――すなわち人間を創造したのと同じ神の指が、今や遠くからやさしく人間に触れ、生命へと目覚めさせるのである。神の手はもはや人間を抱きかかえようとはしない。むしろ神の手は人間を自由にする。そしてその手の持っていた創造の力は、創造者である神の人間に対する愛となり、人間を追い求めるのである」と。

 

  • 聖書によれば、私たち人間はそういう存在なのですね。

 

  • ご存じのように、今沖縄では、辺野古新基地建設を進める政府の意を受けた防衛省が、埋め立て土砂の採取地に本島南部の糸満市八重瀬町などを追加したことで、反対運動が起こっています。その南部は先の大戦で犠牲になった戦没者の遺骨が今も残るとされる場所です。そのために、今後の埋め立てで遺骨まじりの土砂が使われる可能性があるということで、今も遺骨収集を続けているクループを中心に反対運動が起きているのです。

 

  • 今お話ししましたように、聖書によれば、人間は土の塵から造られました。ですから土である大地と人間は一つです。近代以降人間は、自然としての大地を対象化して開発を続けていますが、その開発という行為は、人間が自分と一体である大地を痛めつけていることでもあります。そういう意味では、自然の開発による経済成長は、私たちが自分の身を傷つけながらしているものだと言えるでしょう。

 

  • この「私が中心、主人なのだから、私が何をしようと勝手だ」という、自己中心主義の恐ろしさは、身近なところでも大切な他者である隣人を傷つけますし、広く考えれば、集団としての人間として、第一次世界大戦第二次世界大戦を引き起こし、さまざまな戦争を引き起こしたわけです。そのことを、私たちは、身に染みて感じているにも拘らず、繰り返し戦争を引き起こしているのです。

 

  • ≪わたしはなんという惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか≫(ローマ7:24)とパウロは叫んでいますが、このパウロの叫びは、私たち人間すべての叫びではないでしょうか。

 

  • 次に、土から造られた人間の≪その鼻に(主なる神は)命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった≫(創世記2:7後半)と記されています。

 

  • 神は、私たち人間の体に、「命の息」である神の霊を吹き込んだと言うのです。この神の霊は、私たちに「いざ、生きめやも」と注がれる命のことです。この神の霊こそが私たち人間を生きたものとするのです。

 

  • 創世記の創造物語では、動物にしても、鳥や魚にしても、人間以外の生き物の場合には、神は神の言葉で創造しました。≪神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上に、天の大空の面(おもて)を飛べ」(創世記1:20)。≪神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれ産み出せ」(同1:24)。と言われているように、です。

 

  • ところが、私たち人間の場合には、神は自分の「いのち」を、すなわち自分の霊を与えたと言うのです。私たち人間は、この神の霊なしには人間として生きることができないのだと言うのです。

 

  • ですから聖書においては、私たちが人間として生きるということは、肉体として神の霊を受けて生きるということ意味します。このことは、ただ人間についてだけ言えることです。他の生き物は神の霊を受けていません。

 

  • ボンフェッファーは、「肉体からの逃避は、神の霊からの逃避と同じように、人間存在からの逃避である」と言っています。「すなわち人間の肉体は神の霊を受けてこそこの地上で生きたものとなるのであるが、同様に、神の霊は肉体に吹き入れられてこそ初めて人間という存在になるのである」と言うのです。

 

  • そして、「これらのことはすべて、ただ人間についてだけ言い得ることである。なぜなら、聖書で人間についてだけ肉体と霊との両方が語られているからである。人間の肉体は、それがこの地に属するものであるという点では、他のあらゆる生き物と変わらない。ただ、神の霊が吹き入れられた存在であるという点においてだけ、人間以外のあらゆる「肉体」から区別されるのである」。

 

  • 「人間の肉体はまことに神の霊によって生きる。これが人間の本性である。神は肉体において――、特別な存在の仕方をする人間の肉体において――、神の栄光を現わす」と、ボンフェッファーは言っているのです。

 

  • 一塊の土からつくられ、神の命の息である聖霊を受けて、生きる者となった人間は、本来互いに相手を大切にし、愛し合うことによって、神の栄光である神の愛を、神に代わって現わすものとして、神によって創造されたと言うのです。

 

  • しかし、そういう土の器ではありますが、神の霊である命が注がれた肉体において、人間は今も現実に生きているでしょうか。残念ながらそのような神が創造したままの肉体は、アダムの堕罪によって破壊されてしまったのではないでしょうか。

 

  • 3章以降の創世記11章までの人間の原初の物語は、蛇の誘惑によるアダムとイブの堕罪、カインとアベルの兄弟殺し、ノアの洪水、バベルの塔の物語において、神の被造物としての人間が破壊されてしまったことを物語っているのです。

 

  • ボンフェッファーは、このように続けて語っています。「それゆえ、被造物において神が創造したままの肉体が破壊されてしまった後に、神はイエス・キリストにおいて再び肉体の中に入って行った。そしてこのイエス・キリストという肉体がまた引き裂かれた時に、神は今度は聖礼典において『からだ』と『血』というかたちの中に入って行く。聖餐式のからだと血とは、堕落した人間アダムのために新しい約束をもたらし、新しい現実を創造する。アダムは肉体として創造されたのであるが、彼は肉体として、イエス・キリストと聖礼典とによって救われることになるのである」と。

 

  • 聖餐式を、ボンフェッファーは神による新しい人間の創造としてとらえているのです。

 

  • そして、「このように創造された人間こそが、神のかたちを取った人間である。人間は肉体を取るにもかかわらず神のかたちであるとうことではなく、肉体を取るからこそ神のかたちである。なぜなら、肉体を取ることによって人間は地と関係を持ち、また肉体を持つ他の生き物とも関係を持つことになるからである。すなわち肉体を取ることによって、人間は「他」のために存在することとなり、「他」に依存して存在することとなるからである。肉体を取ることによって、人間は自分の兄弟と地とを発見する。土と霊よりなる人間は、このような被造物として、彼の被造者である神に「似」ている」と言うのです。

 

  • 創世記2章7節の≪主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を入れられた。人はこうして生きる者となった≫という聖書の言葉から、ボンフェッファーがこのように鋭く、豊かに語っていることを、皆さんと一緒に共有したいと思い、今日の説教は、ほとんどボンフェッファーからの引用になってしまいましたが、お許しいただきたいと思います。

 

祈ります。

  • 神さま、今日もこの会堂で共に礼拝することができ、感謝いたします。
  • 今日は、創世記2章7節の神による人間創造のテキストから読み取ったボンフェッファーの言葉を紹介させてもらいました。私たち人間が、神の霊を受けて一塊の土で作られた肉体において存在することの意味を教えられました。そのことを再確認し、肉体にある命のはかなさを嘆くことなく、また、高ぶることなく、この与えられた肉体をもって、神によって創造されて人間としてふさわしく生きていくことができますように。何よりもその人間としての道を、イエスが私たちに先立ち歩まれていることを覚え、そのイエスの後に従って生きることができますように、私たち一人一人をお導きください。
  • 日米首脳会談が行われましたが、日本が軍備増強と軍備による安全保障の道にさらに強く進もうとしています。どうか為政者たちに、日本の犯した戦争の過ちと、その反省によってつくられた憲法第9条の「戦争放棄」の条項の意義を深く知らしめてください。軍事力による戦争ではなく、外交による話し合いの中から平和の道をつくり出していく知恵と力を与えてください。
  • 今も軍隊と戦争によって苦しんでいる人々を支え、その重荷から解き放ってください。私たちを平和をつくり出す一人一人にしてください。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

⑩ 讃 美 歌     487(イェス、イェス)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-487.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。

マタイによる福音書による説教(118)

4月11日(日)復活節第2主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットで平井さんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう

(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃美歌    205(今日は光が)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-205.htm
④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編16編5-11節(讃美歌交読詩編16頁)

       (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  マタイによる福音書28章11-20節(新約60頁)

    (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  327(すべての民よ、よろこべ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-327.htm

説教     「派遣」  北村慈郎牧師

祈祷

 

  • 教会は、イエスの復活の後、使徒言行録によれば聖霊が弟子達の上に降って誕生したと言われています。教会とは、イエスを信じる者たちの集まりです。そのよう信徒の集まりは、最初、生前イエスに従った弟子達たちがメンバーだったと思われます。弟子達の中には女弟子もいたでしょう。しかし、彼ら・彼女らは皆ユダヤ人だったと思われます。

 

  • 最初の頃の教会は、ユダヤ教の一分派だったと考えられます。ナザレのイエスによってはじまったのでナザレ派と呼ばれていたようです。けれども段々と、ユダヤ教からキリスト教として教会は独立していきます。その頃には、信徒の群れである教会には、ユダヤ人だけではなく、ギリシャ・ローマ世界のユダヤ人以外の民族に属する人々も加わっていきました。

 

  • そして時が経つに従って、むしろそういうユダヤ人以外の人々が教会の中心メンバーになっていきました。ヨハネによる福音書の教会は、ユダヤ教の会堂から追放されていたと言われます。イエスの復活の後誕生した最初期の教会は、ユダヤ人の信徒の群れでしたが、徐々にユダヤ人以外の人たちも加わって行き、ヨハネによる福音書が書かれた一世紀末以後は、ほとんどユダヤ人以外の人たちが信徒の教会になっていったようです。

 

  • マタイによる福音書は、ユダヤ人が主な信徒だった教会によって書かれた福音書ですが、今日のマタイによる福音書の結びのところでは、ユダヤ人以外の異邦世界の人々に教会が移っていったことが示されています。

 

  • 先程司会者に読んでいただいマタイによる福音書の28章11節から15節のところには、ユダヤの祭司長たちや長老達が、ローマの兵士を買収して、イエスの弟子達が墓からイエスの遺体を盗んだと言わせたと記されています。そして「この話は今日に至るまで、ユダヤ人の間に広まっている」〔15節〕と言われています。

 

  • この福音書の筆者自身もユダヤ人であったと思われますが、ここで「ユダヤ人」と呼ばれている相手は、キリスト信仰を拒否する敵対者という響きを持っています。そこには、同族としての親密なつながりは感じられません。キリスト教の信徒の群れに対立する者としてのユダヤ人像が、ここには露(あらあわ)になっています。

 

  • この福音書が成立した当時、信徒の群れはすでにユダヤ教から離脱し、ユダヤ教とは別個の集団として、歩み始めていました。つまりそれは、キリスト信仰の故に、ユダヤキリスト者は、同族から追われ、祖国を喪失したということでもありました。そしてこのような「ユダヤ人」という語法は、マタイ福音書ではここだけにしか出て来ませんが、ヨハネ福音書では『ユダヤ人』は一貫してイエスに対立する人々を意味する言葉となっています。つまりこの言葉は、マタイの教会からヨハネ福音書の世界への移行の段階を示しているのであります。

 

  • ところで、このように同族から追い出されたキリスト信徒の群れは、おのずから異邦世界に赴かざるをえなかったのですが、それは単なる逃避行ではなく、福音をたずさえ、福音にうながされての前進であったことを、16節から20節の、いわゆる『宣教命令』の記事が語っているのであります。

 

  • 元教団議長で私に教師退任勧告を出した山北宣久さんのモットーは「それ行け伝道」です。このモットーにおける伝道の意味は、受洗者を多く出して教会が信徒を獲得することです。実際に山北さんは聖ヶ丘教会の牧師時代に多くの受洗者を出して、聖ヶ丘教会は信徒数の多い教会になりました。しかし、この「それ行け伝道」は、ヨーロッパのキリスト教が世界宣教の中で、アフリカ、アジア、南米において土着の文化や宗教を否定し、改宗を通して受洗者を生み出した働きと変わりません。教会の勢力は大きくなりますが、それによってイエス・キリストの福音がその地に根付いたとは言い難いものでした。ヨーロッパのキリスト教の世界宣教が先兵となって、ヨーロッパ列強の植民地支配に繋がったからです。植民地支配は他者に仕える行為とは言えません。むしろ他者を支配し、差別抑圧し、経済的な支配をもくろむ行為です。そのような行為は福音的とは言えないからです。

 

  • 1960年代頃から教団は宣教基礎理論や教会の体質改善論によって、信徒を獲得する伝道から「世に仕える教会」を標榜するようになり、その結実の一つとして、1967年に戦争責任告白が生まれました。1941年の教団の成立から教団は国家に寄り添い戦争協力に走るわけですが、そのような教会の在り方が問われ、国家のイデオロギーではなく、きちっと国家に対峙できる教会の姿勢が求められました。その頃から教団では「伝道」に代わって「宣教」という言葉が使われるようになりました。船越教会も50年史を読みますと、赤城先生の時代から社会に開かれ、世に仕える教会をめざして宣教活動を続けて、現在に至っていると言えるでしょう。

 

  • しかし山北さんは1967年の戦争責任告白以後の40年の教団の歴史を「荒野の40年」と言って、否定的にとらえました。この間教団は社会との関わりの問題が中心になって、伝道がおろそかになったため、教団は教勢が伸び悩んでいるのだというわけです。ですから「それ行け伝道」というのです。

 

  • この山北さんのような考え方をする人たちによって、このマタイによる福音書の「宣教命令」がよく引かれます。18節後半以後のイエスの言葉です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(18b-20節)。

 

  • ルツは、このマタイによる福音書の「宣教命令」が、教会の宣教において問題になっていた「教会の支配とキリスト教的な帝国主義的権力」に全然関与しなかったというわけではないとしながらも、「私見によれば、そのテクストは、繰り返し出現する宣教の濫用を妨げるのにふさわしい潜在(的)な意味をも含んでいる」と言っています。

 

  • つまり、このマタイの箇所は、ヨーロッパのキリスト教の世界宣教と関係し、アフリカ、アジア、南米に教会の支配と植民地支配を生み出したキリスト教的な帝国主義的権力に無関係とは言えない。けれども、このマタイの箇所は、繰り返し現れるそのような教会の宣教の濫用をふせぐ意味を潜在的に持っていると言うのです。そして二つの点を上げています。

 

  • ひとつは、「世界の主たるイエスに基礎づけを持つ宣教は、世界の主が彼の弟子たちに与えた力の手段以外のそれを持ってはいない。それは、人々の間で常に行為の証明を通してのみ光り輝く(5:16参照)言葉の力である」と言って、マタイ福音書5章16節を参照するように指示しています。マタイ5章16節はこのような言葉です。<そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行ないを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである>。

 

  • エスが弟子たち(教会)に求めた宣教がこのようなものであるとすれば、教会のなす宣教が植民地支配と結びつくことはあり得えません。

 

  • ルツは、復活のイエスが弟子たちに命じたのは、「人々の間で常に行為の証明を通してのみ光り輝く(5:16参照)言葉の力」を語り伝えることだと言うのです。そしてルツは、復活のイエスが弟子たちに与えた力の手段は、「支配者ではなくて、すべての者たちの召し使いであった者(20:28)の力である」と言って、ここでもマタイ福音書20章28節を参照するように指示しています。25節から読んでみます。

 

  • <そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように>(マタイ20:25-28)。

 

  • 二つ目は、「実践を目標になされるイエスの命令の告知と理解された宣教は、それ自体もその基準を、マタイによればあらゆる命令の中で最も大きな命令であり、イエスが彼の教会に守るように委託した、愛に持っている」と言っています。イエスが弟子たちに命じた宣教の基準は、神の愛にあるとマタイは考えていると、ルツは言うのです。

 

  • パウロはガラテヤの信徒への手紙の「割礼」が問題になっているところで、<キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です>と語っています。

 

  • とするならば、<イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる>(マタイ28:18-20)という、いわゆる大宣教命令は、イエスと同様に、人々の罪を赦し、イエスの弟子となるように招き、人々にイエスによってもたらされた新しい創造を、共に生きるように促すものだと言えるでしょう。

 

  • ボンフェッファーはこのように語っています。「この人を見よ。この復活した人を見よ。人間に対する神の「然り」は、裁きと死を通り越して、復活にまで達した。人間に対する神の愛は、死よりも強いのである。神の奇跡によって、新しい人間、新しい生命、新しい被造物が造られた。『生命が勝利を得た。生命が死に打ち勝った』。神の愛が、『死』に死をもたらし、人間の生命となった。十字架につけられ、よみがえったイエス・キリストにおいて、人類は新しくなったのである。キリストに起こったことは、すべての人間の上に起こったことである。なぜなら、キリストは人間そのものなのであるから‥‥。今や、新しい人間が、創造されたのである」。

 

  • 復活したイエスによる弟子たちへの宣教命令は、このイエスの復活によってもたらされた新しくなった人類の一員として、「新しい人間、新しい生命、新しい被造物」として、「あなたがたは生きよ」という招き、促し、命令ではないでしょうか。

 

  • 神と私たち人間とは、私たちの罪によって断絶しているのではない。その罪を背負って十字架にかかり、死んで葬られ、死から復活したイエスによって和解が実現しているのだ。あなたがたは罪を投げ捨て、その和解と平和を生きよ。

 

  • 人と人との間も、復活のイエスによって罪による断絶から和解が成立しているのだから、憎しみと敵対と殺し合いを止めて、互いに他者を大切にし合って共に生きる豊かな和解と平和の関係を生きよ。

 

  • <わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる>。

 

  • そのように、この復活のイエスによる弟子たちへの「宣教命令」は、私たちに一人一人に語っているのではないでしょうか。「人間に対する神の愛は、死よりも強い」。その神の愛による新しい人間として、あなたも生きよと。

 

祈ります。

  • 神さま、今日もこの会堂で共に礼拝することができ、感謝いたします。
  • 神さま、あなたはイエスの十字架と復活によって、私たちを全く新しい人間に造り変えてくださったことを、今日の聖書の個所から改めて知らされました。そのことを、あなたは私たちに聖霊を送ってくださり、日々新たに気づかせ、新しい人間として私たちを生きるように命の力を与えてくださっています。こころから感謝いたします。
  • けれども、私たちは日常の生活に埋没し、この世のしがらみに縛られ、自分の力に頼って生きてしまい、<わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる>という復活のイエスの言葉もうつろに聞き流してしまいがちな者です。
  • どうか日々新たにあなたの言葉に耳を傾け、あなたの命の力を受けて、一日一生を大切に生きることができますように、私たち一人一人をお導きください。
  • 神さま、再びコロナウイルス感染が各地で拡がっています。このウイルスは私たち人間が自ら作り出したものかもしれませんが、何とかこれを乗り越えていく道が与えられますように。ワクチンもすべての国の人々に公平に与えられますように。このウイルスによって亡くなった方々を覚えてください。また今苦しんでいる人々を支えてください。
  • ミャンマーの軍による支配の犠牲になっている人々を支えてください。ミャンマーが民主的な社会になりますように。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     402(いともとうとき)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-402.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。