なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

鶴巻通信(22)

 今日は朝8時に娘の車で平塚にある「花菜ガーデン(神奈川県立花と緑のふれあいセンター)」に行ってきました。この日はゴールデンウイークの祝日ということもあり、8:30が開門でしたので、バラを観て、朝食を花菜ガーデンのレストランで済まそうということで出かけました。久しぶりの花菜ガーデンで、連れ合いが帰天してから初めてかも知れません。下記の写真は今日携帯で撮って来たものです。新型コロナウイルス感染とロシアによるウクライナ軍事侵攻の中で、重い気持ちで日々過ごされていると思いますが、花から癒しをもらうのも、”あり”ではないでしょうか。

上はバラ園、下は水連の池です。

 

 

 

ローマの信徒への手紙による説教(44)

5月1(日)復活節第3主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットで平井さんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃美歌    152(みめぐみふかき主に)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-152.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編23編1-6節(讃美歌交読詩編142頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙10章5-13節(新約288頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     433(あるがままわれを)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-433.htm

⑨ 説  教   「言葉は近くにあり」     北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • ロシアによるウクライナへの軍事侵攻(侵略戦争)がはじまってから、ロシアの教会であるロシア正教はどうなっているのかという疑問が、私の中にはありました。第二次大戦(太平洋戦争)下に国の圧力で合同した私たち日本基督教団が、戦時下、積極的な戦争協力を行なったことは事実であります。私たちはその過ちを反省し、国家と一体化するような教会ではない、イエス・キリストの福音にしっかりと立って、国家に対しても否は否と言える教会でなければならないと思い、1967年に日本基督教団の議長であった鈴木正久牧師の名で「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(戦責告白)出したと、少なくとも私は思っています。そういう私からしますと、現在ウクライナへの軍事侵攻を行なっていますロシアの大統領のプーチンに対して、ロシア正教は何も言わないのか、という疑問があったからです。

 

 

  • 今のロシアのように、日本が再び侵略戦争をするようなことがあったならば、私はキリスト者としてそれにはっきりと否と言えるだろうか。逆に今のウクライナのように他国から日本が侵略されたら、信仰者として自分はどうするだろうかと。

 

  • 戦争という極限状況においてだけでなく、この世を生きるキリスト者として自分は正しく生活しているだろうかと思うのであります。イエス・キリストを信じて生きる者として、こんな生活でいいのだろうかと。しかし、そのように考えている自分は、「律法による義」を求めているのではないかと思うのです。自分の力で何とか正しい生活ができないかと思い、それができていない自分に失望してしまうのです。

 

  • パウロは、ローマの信徒への手紙10章4節で「何故なら、キリストが律法の終りであって、信ずるすべての者にとって義にいたらせるものである」(田川訳)と言っています。バルトは「律法の終わり」を「律法の目標」と訳して、<4節ではキリストが律法の「終り」であると言われているのではなく、律法の「目標」・内容・本質・総括であり、その意味であると共に、その成就に至る道でもあるといわれているのである>と言っています。そして、<律法の内容とその永遠に続く効力は、イエス・キリストにおいて初めて正しく啓示されたのである。すなわち、イエス・キリストこそが初めからその内容であり、その力であったからである。キリストを信じることは、神の律法に従順であることを意味する>というのであります。モーセ十戒という、神を神とし、隣人の命と生活を奪うことなく、神の下にあって人が共に生きるようにという神の律法が、私たちを正しい生活に導くのです。その神の律法が、イエス・キリストによって成就していると言うのです。私たちはただそのイエス・キリストを信じることによって、神の律法に従順であることができるというのであります。

 

  • 本田哲郎さんは、10章4節をこのよう訳しています。「律法の到達点はキリストであり、この方が信頼してあゆみを起こす者すべてに解放をもたらすのです」。律法という人間としてあるべき定めの到達点であるキリストが、そのキリストを信じて生きる者すべてに解放をもたらすと。本田さんは義を解放と訳しているのです。本田さんからすると、神の義は神の解放です。それが私たち人間の救いなのです。

 

  • 今日のローマ書10章5節以下で、パウロは、イスラエルが神に選ばれた民として、律法の下に立ち、律法を聞くということを求められたのですが、それは、<律法の唯一の内容であり全体であるキリスト、そして、律法の意味と成就であるキリストを信じることなのである>と言っているのであります。それが律法による義ではなく、信仰による義なのです。しかし、イスラエルはそれ拒絶していると言うのです。

 

  • パウロは、8節で申命記の言葉を引用して、信仰による生活を説明しようとしているのであります。申命記ではもう少し詳しく書いてあります。「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」(申命記30:14)。<申命記の方では、この言葉によって、神の律法によって得られる祝福が、決して遠いものではなくて、われわれの口や心ほどにわれわれに近いのであるというのです。しかし、パウロは、それを神の恵みによる祝福がどんなにわれわれに近いかということに用いようとするのです。そして、さらに、その口と心ということを、信仰生活の仕方の説明にあてるわけです>。ある面でパウロは聖書の言葉を自分の説明に都合よく使っているわけですが、当時はそれが許されたのです。

 

  • そして、パウロは、「すなわち、自分の口でイエスが主であると告白し、自分の心で、神が彼を死人の中から甦らせたのだ、と信じるならば、救われる」(9節、田川訳)と続けているのです。

 

  • <イエスを主であると告白することは、簡単なことではありません。ローマ帝国では、皇帝を主と言い表わすことが求められていたからです。そういう世界でイエスこそ主であると告白するのは、死を意味する場合も少なくなかったのです。この問題は教会の歴史の中で常に問われてきたことではないでしょうか。皇帝かイエスかということだけでなく、だれがわれわれの真の主であるか、われわれは何に仕えるのか、ということは、何時の時代でも、信仰者にとっては、最も重要な闘いであります>。それは現在も変わらないのではないでしょうか。<これがあいまいにされると、信仰者の生活は死んでしまうのです>。

 

  • <しかし、イエスを主と信じる信仰は、われわれの周囲にあるいろいろなものとイエス・キリストを比較して、どちらが自分の真の主であるかを知ろうとして分かるものではありません。それは、自分がイエス・キリストによって救われた者であることを堅く信ずることから出てくるのであります。ですから、それは、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じる信仰と切り離して考えることはできません>。

 

  • パウロが、「すなわち、自分の口でイエスが主であると告白し、自分の心で、神が彼を死人の中から甦らせたのだ、と信じるならば、救われる。何故なら、心で信じられて義にいたり、口で告白されて救いにいたるのである」(9,10節、田川訳)と言っているのは、そのことを意味しているのです。

 

  • とするならば、私たちがイエスは主であると告白すると共に、死人のよみがえりであるイエスの復活を心から信じて生きているかどうかが問われているのではないでしょうか。イエスを信じて生きるということは、思い煩いを棄てて、イエスにすべてを委ねて生きるということです。パウロは、好んで、自分はイエス・キリストの奴隷であると言いました(ローマ1:1など)。古代人のパウロが古代社会の奴隷制を前提にして、自分をイエス・キリストの奴隷に譬えているのは、わからないわけではありません。ある人は奴隷についてこのように言っています。<奴隷の生活はまことに惨めです。しかし、奴隷の生活にひとつだけ羨ましいことがあります。それは、奴隷にとっては、自分の主人以外には主人がないということです。他の主人を考える必要もなければ、余裕もありません。そこに不思議なやすらぎがあったと思います>と。そして、パウロがキリストの奴隷であることを誇っていたのは、その状態にこそ安けさと強さを持っていたからではないかと言っているのです。

 

  • 主体の転換と言いましょうか、自分中心に物事を考えている時には、いろいろな思い煩いや不安が付きまといますが、イエスに信頼して、すべてを委ねていくことができれば、思い煩いや不安からも自由になって、やすらぎと強さを持て生きることができるということではないかと思います。

 

  • 11節で、パウロは、<聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります>(新共同訳)と言い、そして12節13節で、<すなわちユダヤ人とギリシャ人の差別はない。同じ主が万人の主であって、その豊かさは主(の名)を呼び求めるすべての者に及ぶ。何故なら、主の名を呼び求める者はみな救われるからである>(田川訳)と言っているのです。

 

  • 私たちにはいろいろな違いがあります。ユダヤ人とギリシャ人にも違いがあります。ユダヤ人は自分たちだけが神に選ばれた民だと思って、ギリシャ人を軽蔑していました。他方ギリシャ人も自分たちは文化的に優れていると言って、ユダヤ人はじめ他の民族の人たちを未開の人間だと思っていたのです。お互いに自分たちだけが幸せだと思っていたのです。<この全くちがった立場に立って、絶対に違うと信じているユダヤ人とギリシャ人も、キリストを信じるかぎり救われるということでは、全く同じであるというのです。それならば、われわれの境遇の差や、才能の違いはもちろん問題にはなりません。われわれが差があると思っていることは、人間の目から見て言えることで、万民にとって同一の主であるイエス・キリストの前には何の差別にもならないのです。それは、人間の間に差別がないといおうのではなく、このだれにとっても、おおよそ信仰のある者に対しては主であるキリストが、すべての民に同じ恵みを豊かに与えてくださるからなのであります。それは、民族の差はもちろん、個人の事情の相違も、全く問題にはならないほどに豊かに与えられるので、すべて彼を信じる者は、失望に終わることがない、いつも望みを持つことができるのであります>。

 

  • 「何故なら、主の名を呼び求める者はみな救われるからである」(13節、田川訳)。私たちは礼拝において、祈りにおいて、主の名を呼び求めているのではないでしょうか。主との交わりを求め、主の助けを望んで、声のかぎりに主を呼ぶのです。<キリストの救いによって、主を救い主を讃美をもって言い表すことができれば、だれでも、失望することのない恵みを豊かに与えられるのであります>。

 

  • 政治的な圧力にしても、この世のもろもろの私たちを支配しようとする力に屈せずに、信仰を貫くことができるのは、イエスを主とする、キリシタン時代の素朴な信仰なのかも知れません。

 

  • 「主の名を呼び求める者はみな救われるからである」。この言葉を噛みしめて自分のものにできますように!

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • ロシアによるウクライナへの軍事侵攻をはじめ、今世界はその形がガタガタと崩れているように思われます。このことが、今までよりもさらに悪い状態になる危険性も感じます。神さま、私たちにあなたへの思いと、あなたの御心に従って生きる力を与えてください。特に政治の実権を握っている人々が、愛と正義と公平によって政治に携わるように導いてください。この社会の中で弱い立場に置かれている人々の命と生活があもらえますように。

・様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。

  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌    4(世にあるかぎりの)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-004.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。

船越通信(512)

船越通信、№512 2022年4月24日   北村慈郎

 

  • 17日の日曜日はイースター礼拝でした。新型コロナウイルスの感染状況は、まん延防止特別措置は解除されていますが、高止まりの状態です。今年はイースター礼拝への案内を出すか、出さないか迷っていましたが、ギリギリの11日(月)に例年のように出しました。そのためにイースターとクリスマスの特別な礼拝だけに出席される方が数名この日のイースター礼拝にも出席しました。それに福岡からWさんもこの日の礼拝に出席されました。総勢17名のイースター礼拝になりました。例年のように聖餐式も礼拝後の会食もありませんでしたが、礼拝後しばらくお互いに距離を取りながら、数名毎に分かれて懇談の時を持ちました。近況を報告し合いながら、久しぶりの対面での語らいに、皆昂揚しているように思われました。しかし、この日は2022年度の定期教会総会がありましたので、20分ほどで懇談の時を区切り、教会員以外の方には帰ってもらい、その後教会総会を、出席者私を含めて11名で行いました。船越教会は現住陪餐会員20名ですが、この4月からその内の8名は遠方の会員で、1名は病気を抱えた高齢の方で普段の礼拝出席は難しい状態です。ですから実質11名が出席可能な方で、今年は10名の出席で教会総会が行われました。船越教会の法人規則では現住陪餐会員の5分の1以上の出席があれば、総会は成立します。この日の総会も成立しました。
  • 総会は私が司会をし、組織会の後議事に入りました。(1)2021年度教会諸報告、(2)2022年度基本方針並びに事業計画、(3)2021年度決算および2022年度予算に関する件と、質問もなく、原案通り承認可決しました。そして(4)役員選挙の件を諮り、まず選挙管理委員2名を議長の私が推薦し、SさんとHさんにお願いし、議場の承認を得て、選挙に入りました。一回目の投票で、NさんとIさんが選出されました。3名が同数でしたので、2回目の選挙を行い、W・TさんとH・Sさんが選出されました。2022年度はこの4人の方で役員会を構成することになりました。本総会の記録承認は新しい役員会に一任して、黙祷を持って総会を終了しました。その後前週の日曜日に引き続き、N・Kさんがお昼の食事(稲荷ずし)を作って来てくださり、皆でいただき、その後散会しました。

・ 現在の船越教会の担い手である教会員の人数やそれぞれの状況からしますと、将来 の船越教会はどうなっていくのかという心配をする方もいますが、今はやれるところまでやりましょう、としか言いようがありません。前々から役員会では、船越教会の将来について話し合っていこうということになっていますが、その矢先に新型コロナウイルス感染の問題が起こり、対面による話し合いの時は出来る限り避けようということになって、この2年間は全く話し合いをしていません。現在も新型コロナウイルス感染者の高止まり状態が続いていますので、話し合いができるようになるまで、もう少し時間が必要ではないかと思われます。今は、船越教会の将来のことは神にゆだねて、一回一回の日曜日ごとの礼拝を大切にしていきたいと思います。

  • 21日(木)は午前11時過ぎに鶴巻から国会前の辺野古新基地建設反対の座り込みに出かけました。この国会前での座り込みは、2004年の辺野古の海に櫓が築かれた直後に、辺野古浜のテントで新基地建設反対運動をしていた方が、国会前での抗議行動をした時に、東京・神奈川・千葉在住のキリスト者がその抗議行動に参加し、その時に始まり、現在まで続いている座り込みです。生前病気になる前(2018年8月上旬)まで、連れ合いは、最初からずっと週1回(座り込みは週2回行っています)前半は横浜の紅葉坂教会から後半は鶴巻の今の自宅マンションから、この座り込みに参加し続けました。私も(本当に)時々参加していました。
  • この国会前の座り込みには、ある時期セクトのグループも参加したことがあり、またさまざまな方の個人参加もありましたし、今もあると思いますが、最初から現在まで休むことなく続けているのは数名の女性の日本基督教団の信徒です。連れ合いが参加していた最後の頃は、連れ合いを入れてそのような方が4~5名いましたが、連れ合いがいなくなり、もう一人辺野古新基地反対の座り込みと経産省前の原発反対テントの座り込みに毎日中央線の国分寺あたりから通い詰めていた現在93歳の女性の信徒の方が、今は介護を受けて来られなくなっているとのことでした。今回は私の他に、いつもアッピールの垂れ幕などを分担して持って来て下さる3名の女性の方が座り込みに参加しました。午後1時から午後4時まで、参議院会館前の道路で、道路の壁に垂れ幕などを貼って、その前に座り込んでいます。
  • 連れ合いが帰天した2020年春ごろから新型コロナウイルス感染が拡大し、この国会前の座り込みも、緊急事態宣言やまん延防止特別措置が出たときは休み、この2年間断続的に続けていたようです。私は連れ合いの遺志を引き継がなければと思いながら、なかなか体を国会前に運ぶことができませんでしたが、これからは連れ合いが参加していた木曜日午後の座り込みに、可能な限り参加したいと思っています。辺野古の海の埋め立て工事は、緊急事態宣言やまん延防止特別措置が出ようが、コロナ禍の中でも着々と進められています。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻によって、日本政府も抑止力としての軍事力の強化という方向に議論を進めようとしています。そうなると、ますます日米軍事同盟が強化され、沖縄本島や南西諸島の基地負担が今までよりもさらに重くなる可能性があります。何としても辺野古に新基地建設をさせてはなりませんし、今の政府は逆方向に舵を取ろうとしていますが、軍事力によらない、話し合いによる問題解決の道へと、憲法第9条を持つ日本が率先して進むようにしたいものです。
  • 23日(土)午前中に、鶴巻の私の住むマンションの理事会がありました。小さなマンションなので、理事会と言っても、理事長の私と副理事長の方と管理会社の方の3人でした。実は、昨年5月から私はマンションの理事長の役を、持ち回りということで引き受けていましたが、5月の総会で私は理事長もお役御免になります。

ローマの信徒への手紙による説教(43)

4月24(日)復活節第2主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃美歌    151(主をほめたたえよ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-151.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編145編1-13節(讃美歌交読詩編158頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙10章1-4節(新約288頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     290(おどり出る姿で)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-290.htm

⑨ 説  教    「救いを求める」     北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • 皆さんには、自分は日本人であるという意識がどの程度あるでしょうか。そして、同じ他の日本人に対して、一つの民族に属する者として、他の民族に属する人とは違って、同胞としての特別な親近性をどの程度お持ちでしょうか。

 

  • 1945年以前の戦前には皇民化教育もあって、天皇を中心としたヤマト民族の一体性を、私たちは強制的に持たされたわけです。しかし、戦後、特に私の世代は、日本人という意識も、同胞というような意識もほとんど持たないまま、個としての自己を生きてきたように思います。

 

  • ですから、今日のローマ書の箇所もそうですが、パウロの同胞愛のような同じユダヤ人に対する強い思いに触れますと、正直自分にはそれほどの思いは同じ日本人に対してないなあと思わざるを得ません。

 

  • <9章のはじめでパウロは読者(ローマの教会の信者たち)に、救済に関してユダヤ人に特権があるのかないのか、という問題を説明しはじめました。しかし、書いているうちに、読者のことはそっちのけになって、むきになって直接ユダヤ人に対して議論をしかけるようになります。それが、ここ(10章1節)でもう一度、読者(兄弟たちよ)に対する説明にもどってきたのであります>(田川)。

 

  • つまり、改めてと言うか、この10勝1節で手紙の宛先であるローマの教会の信者たちを指して「兄弟たちよ」と呼びかかけているのです。そして、「わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」(新共同訳)と言っているのであります。「彼ら」とは勿論ユダヤ人です。

 

  • パウロは9章1節以下で、「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」(2節)と言って、「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っている」(3節)とまで言って、同胞であるユダヤ人が神に選ばれていながら、また肉によれば、キリストも彼らと同じユダヤ人であるにも拘わらず、キリストと神に不従順な生き方をしていることを、心から嘆いていました。

 

  • 同胞であるユダヤ人に対するそのようなパウロの思いが、ユダヤ人の救いを求めるパウロの祈りとなっていったに違いありません。そのように同胞のユダヤ人の救いを求める熱い祈りを、パウロは祈りつつ、ユダヤ人のキリストと神への不従順な生き方を鋭く見抜いていたのであります。

 

  • 10章2-3節で、パウロはこのように述べています。「すなわち、彼らが神の熱心を持っていることは私も証言する。けれども彼らは(正しい)認識によってはいない。神の義を知ることなく、自分の義を立てることを追い求めているからである。神の義に従わなかったのだ」(田川訳)。

 

  • ここでは、ユダヤ人の熱心が、「自分の義」を追い求めるものであったため、「神の義」を知ることなく、「神の義」に従わなかったと言われているのです。そこにユダヤ人の問題があると、パウロは言っているのであります。

 

  • この熱心に自分の義を追い求めるユダヤ人の生き方とは、どのような生き方なのでしょうか。そのユダヤ人の生き方は、かつてのパウロ自身の生き方でもありました。パウロがまさにそのような熱情の人であったことは彼自身が証言しています。

 

  • フィリピ書3章5節~6節では、「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのないものでした」と言っているのです。また、ガラテヤ書1章14節では、「また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」とも言っているのであります。

 

  • パウロは、かつてのユダヤ教徒であった時の自分の姿に重ねて、現在のユダヤ人は熱心に神に従う者になろうとして、自己の義を追い求めているけれども、それでは神の義に従うことはできないのだと、言いたいのです。神に喜ばれるために、ユダヤ人は神が与えてくれた、かく生きよという律法の定めを、熱心に守って自分の義、つまり神によしと言われるような者になろうと、一生懸命それを追い求めているのです。しかし、むしろそのユダヤ人の熱心さが、彼ら・彼女らが神によしとされることを妨げているのだと、パウロは言っているのです。ユダヤ人は「神の義を知ることなく、「神の義」に従わなかったというのは、そういうことです。

 

  • クランフィールドは、「神についての彼ら(ユダヤ人)の知識の正に核心には誤ったそして根深い無知がある。そして彼らの熱心なまた几帳面な従順の中心には頑固な不従順がある」と言っています。ユダヤ人の神についての知識は、その核心は無知であり、ユダヤ人の熱心な従順は、その中心は不従順なのだと言うのです。

 

  • このような神につての正しい認識に基づかないユダヤ人の熱心さは、「見当違い」の熱心であると言えるでしょう。この神に対する「見当違い」の熱心がユダヤ人を神への不従順へと導いたと、パウロは言うのであります。

 

(以下はほぼ川島重成による)

  • ここでユダヤ人の、そしてわたしたちのものでもありうる、「見当違い」の熱心の例として、福音書における「ベタニアの女の油注ぎ」のエピソードを想い起したいと思います。この物語の並行記事はマタイ26章6節~13節、マルコ14章3節~9節、ヨハネ12章1節~8節にあります。一人の女(ヨハネでは、ラザロの妹マリア)が純粋で非常に高価なナルドの香油をイエスの頭に注ぐ(ヨハネでは、イエスの足に塗り、自分の髪でぬぐう)のです。イエスの葬りの備えをしたというこのイエスへの心からの献身の――ヨハネによれば、「家は香油の香りでいっぱいになった」(12章3節)という――行為を見てそこにいた何人かはその無駄使いに憤慨し、「この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」(マルコ14章4節~5節)と、その女を厳しくとがめた、というのです。ヒューマニズムの立場からすればしごくもっともと言えようこの非難こそ、「見当違い」の熱心の一典型ではないでしょうか。より大きな実り、より有益な業績を求めるこの熱心が、来るべきイエスの十字架の意味を捉え難くさせているのです。ただ従順に受けるしかないまったき恵みとしての神の義を虚しいものにしているのであります。ところがマルコが「そこにいた人の何人か」としているところを、マタイは「弟子たち」(26章8節)とし、ヨハネは「ユダ」(12章4節)としています。このことは、この「見当違い」の熱心が、罪人の――つまずきの石につまずいたイスラエルの――代表としてのユダだけのものではないこと、まさに「弟子たち」のものであり、わたしたちのものであることを暗示しているように思われます。ユダとは、まさにわたしたちのことなのであります。

 

  • 3節にある熱心なイスラエル人の「神の義を知らず、自分の義を求め」るあり方とは対極をなす「神の義に従う」――ベタニアの女の献身に端的に示された――あり方とはどのようなことを意味するのでしょうか。

 

  • 神の義とは、神が神たることを示すということです。(バルト)。その意味で、神の義は神の支配力(命)として見なされなければなりません。そしてわたしたちはキリストにおいて成ったこの新しい支配領域の中に入れられ、そのことで「自己追求や自己賞賛からのみならず自分自身についての思いわずらいや不安から解放」されるのであります。他方、神の義が単に賜物として理解されますと、神の義といえども人間が自由に処理し得る所有物となる危険が伴います。信仰は、私たちの意志には委ねられない神の義の働きであり、その現れに自らを引き渡すことではないでしょうか。イエスの生と十字架と復活を通して成就している神の義の支配力(命)に、自分をあけわたすことなのです。そのことを私たちに可能としてくださるのも、私たちの力ではなく、神ご自身がご自身の霊(聖霊)を私たちに送ってくださるからなのです。その意味でも、神の義が決してわたしたちの実存の問題に解消してしまうことのない神の主権であり、あくまでも他なる義であることを強調しなければなりません。

 

  • 「何故なら、キリストが律法の終りであって、信ずるすべての者にとって義にいたらせるものである」(4節、田川訳)からです。モーセの律法の支配は終わり、今やキリストにおいて成った神の義を従順としての信仰においてだけ受けることが許される、恵みの支配の時が始まったのであります。

 

  • もしそうであるとすれば、パウロが不従順な同胞であるユダヤ人の救いのために祈ることがよく理解できます。パウロは、自分たちだけでなく、全ての人が神の義の支配力の中に入ることを願わざるを得なかったに違いないからです。そのために、パウロは異邦人の使徒としての働きに徹していました。それは、自分の義を追い求めるがゆえに、「自己追求や自己賞賛からのみならず自分自身についての思いわずらいや不安」に陥り、互いに傷つけあっているところからすべての人が解放されて、敵も味方もなく、共にあることを喜び、互いに仕え合っていく神の義の世界の完成を願っていたからです。だから、同胞であるユダヤ人の救いのために祈ったのです。それは同時に、パウロが、今も不従順なユダヤ人のために神は手を差し伸べていると信じていたからでもあろうあろうかと思います。

 

  • 最後に今日の個所からの私たちへの問いかけを確認して終わりたいと思います。一つは「見当違いの」熱心さに、私たちにも陥ってはいないかどうか、自己点検が必要ではないかと思うのです。同時に、パウロが同胞であるユダヤ人のことを覚えて、ユダヤ人の救いのために祈ったそのような熱心さは、私たちにも必要なのではないかということです。また、イエス・キリストによって神が神たることを示す神の義の支配力、その命の支配下に私たちも入れられていることを覚えたいと思います。そのことは、「自己追求や自己賞賛からのみならず自分自身についての思いわずらいや不安」からの解放でもあるということを、です。幼児は自己の義を追い求めるのではなく、他からの義によって生きています。幼児のように私たちも、他からの義である神の義によって生きることができますように!

 

 

祈ります。

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • ウクライナへのロシアによる軍事侵攻が続いています。この戦争によって沢山の人々の命と生活が奪われていますが、残念ながら私たちは、この戦争をやめさせることができないでいます。それだけではなく、この戦争を契機にして、日本を含め、いろいろな国が他国からの侵略の抑止力として、軍事力の強化に向かおうとしています。
  • 神さま、軍事力による問題解決はあり得ないこと、また一度軍事力に使えば、沢山の 

人々の生活が犠牲になることを、特に携わる人々に分からせてください。そして、国や民族を超えて、人と人との信頼を築き、話し合いによる問題解決の道に、私たちを導いてください。

・様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。

  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     402(いともとうとき)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-402.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。

船越通信(511)

船越通信、№511 2022年4月17日(日)北村慈郎

  • 10日(日)は礼拝後、N・Kさんが作って下さったおにぎりを皆でいただき、その後船越教会の最寄り駅である京急田浦駅まで皆で歩き、駅前で「ウクライナに平和を・ロシアはウクライナから撤退せよ」アピール行動を、40分ほど行ないました。京急田浦駅の乗降客はそれほど多くはいません。特に昼時で乗客は一人、二人と断続的に来るだけです。ただ追浜方面と横須賀中央方面の電車が停車すると、10名前後の人が改札を出てきます。その方々に向かって、「ウクライナに平和を!」と呼びかけ、署名やカンパをお願いしました(署名1筆、カンパ6,600円)。「何かしたいと思っていました。」「ありがとう。」などの言葉が寄せられました。
  • 約40分のスタンディングを終えた後、散会し、私は一度教会に戻るNさん夫妻、Sさんと一緒しましたが、3人には先に行っていただき、私は後から自分のペースでゆっくり戻りました。この頃早く歩くのが苦になって来ているからです。自分の中では加齢を意識することは殆どないのですが、歩くときだけは意識せざるを得ません。自転車に乗る時も、この頃走り出すときやブレーキをかける時のタイミングが微妙に遅れるのです。歩くときも、自転車に乗る時も、そのことを自覚するようにしています。そうでないと、怪我に結びつくのではないかと思うからです。ということで、3人とは少し遅れて船越教会に戻りました。しばらくして3人が帰った後、私も船越教会から鶴巻に帰りました。
  • この週は受難週でした。11日(月)に総会資料を8人分と、遅ればせながら17日(日)のイースター礼拝の案内ハガキを約20名の方に出しました。他にオリエンテーション委員会の教区に出す年度報告を、委員長として最終的にまとめて各委員にメールで送り、後は教区に提出すればよいように準備しました。
  • その他には、特にこの週は出席しなければならない集会や委員会もありませんでしたので、ほぼ1週間鶴巻での生活に終始しました。そんな中で、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻による破壊し尽くされたウクライナの町の様子や、人々の悲惨な状況を日々伝えているテレビの情報番組を、気になってついつい見ることが多くなっています。それにしてもロシアの教会であるロシア正教は、この戦争に対してどのような姿勢なのかが気になり、インターネットで調べてみました。ご存じのように、私たちが属する日本基督教団は、第二次大戦(太平洋戦争)下にあって天皇制国家による侵略戦争に積極的に協力したという歴史を持っています。そのため1967年に、「第二次世界大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(戦争責任告白)を出したのであります。ロシア正教はどうなのだろうかと思ったのです。するとこんな記事が目に留まりました。ギリシャの「オーソドックス・タイムズ」(3月14日)に、<ロシア正教の最高指導者であるキリル総主教はこのほど、モスクワの「救世主教会」(総主教座教会)で、ロシア国家親衛隊(大統領直属の治安部隊)のビクトル・ゾロトフ局長と面会し、局長にキリストの母である聖母の画像を贈り、「この絵が(ウクライナに侵攻している)ロシア軍を護り、速やかに勝利をもたらすと信じている」と述べた>と言うのです。ロシア正教はかつての日本基督教団と同じであることを知り、改めてキリスト教の犯罪性を突きつけられた思いがしました。ただ断っておきますが、キリスト教がすべてそうだというのではありません。上記のインターネットの記事によれば、エジプトのコプト正教会カイロ中央教区のアンバ・ラファエル主教は、「戦争は、当事者全員の敗北となる。悪魔のみが戦争に満足し、死体の頭の上で喜び踊り、夫を亡くした女性、孤児、嘆き悲しむ母親の苦痛に遊ぶ」と象徴的な表現を使って、ロシア軍のウクライナ侵攻を非難した」と言われています。船越教会でもロシアによるウクライナへの軍事侵攻に対する「抗議声明」を出していますし、他の多くの教会、キリスト教の団体が同じような抗議声明を出し、祈りや行動を起こしています。
  • イースターの礼拝説教の準備をしている中で、ボンフェッファーのイエスの復活理解に遭遇しました。私は毎日朝、ボンフェッファーの『主のよき力に守られて~一日一章~』を読み、ローズンゲンの聖書日課の聖書箇所を読み、祈るようにしています。けれども、週末になると説教準備に追われ、その朝の日課を省略してしまうことがあります。そのような時は、新しい週の月曜日に、その日の分と共に省略してしまった日の分も読むようにしています。今週の月曜日11日の朝には、9日(土)、10日(日)、11日(月)と三日分を読みました。そのとき読んだボンフェッファーの『一日一章』の4月9日のものに、ボンフェッファーの復活信仰が記されていました。17日(日)のイースターの説教でもこのボンフェッファーの復活信仰について触れたいと思いますが、ボンフェッファーはこのように述べているのです。<この人を見よ。この復活した人を見よ。人間に対する神の「然り」は、裁きと死を通り越して、復活にまで達した。人間に対する神の愛は、死よりも強いのである。神の奇跡によって、新しい人間、新しい生命、新しい被造物が造られた。「生命が勝利を得た。生命が死に打ち勝った」。神の愛が、「死」に死をもたらし、人間の生命となった。十字架につけられ、よみがえったイエス・キリストにおいて、人類は新しくなったのである。キリストに起こったことは、すべての人間の上に起こったことである。なぜなら、キリストは人間そのものなのであるから‥‥。今や、新しい人間が、創造されたのである>。
  • ボンフェッファーは、このようなイエスの復活信仰を、ナチズムの脅威による「死の偶像化」が支配する当時のドイツにおいて持っていたのです。もちろんボンフェッファーはナチズムを容認するはできませんでした。抵抗を貫いた結果、獄中の人となり、
  • 1945年4月9日(月曜日)早朝、フッロッセンブリュグで、7人の政治犯の一人として処刑がなされました。「収容所の医師は、ボンフェッファーが、控えの間で、ひざまずき、熱心に祈るのを目撃している。フリップ・フォン・ヘッセンは、後に、ボンフェッファーの部屋から、聖書とゲーテ全集の一巻を入手したが、そこにはディートリッヒ・ボンフェッファーという名前が記されていたという」。

イースター礼拝説教(2022年)

4月17日(日)イースター礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から解き放つ神」。   

                                                                            (詩編68:20-21)

③ 讃美歌    18(「心を高くあげよ!」)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-018.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編114編1-8節(讃美歌交読詩編127頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  コリントの信徒への手紙一15章1-11節(新約320頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     479(喜びは主のうちに)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-479.htm

⑨ 説  教    「最も大切なこと」     北村慈郎牧師

  祈  祷

  • 今日はイースターです。今年のイースターは、ある意味で戦時下のイースターであると言えるのではないでしょうか。実際に戦争をしているのは侵略戦争をしかけているロシアと、それに抵抗して防衛のための戦争をしているウクライナによる二国間の戦争ですが、経済制裁や武器供与とう形で多くの国がこの戦争に間接的に加わっています。ウクライナを支援している国々は、主に欧米を中心とした、一応「民主的な」国々と言えるでしょうが、まだ民主化が進んでいない専制主義的な国々は、どちらかと言うとロシア側に立っているのではないかと思われます。その意味で、ウクライナで行われている戦争は、東西冷戦時代における二国間の戦争という様相を帯びていて、ある意味で、第三次世界大戦とは言えないまでも、それに類する世界大の戦争といえるのではないでしょうか。

 

  • イエス・キリストの福音からすれば、イエスの復活によって私たち人間は、人類史的にも戦争など決してしない新しい人間に変えられているのであります。そのことを、今日はパウロのコリントの信徒への手紙一、15章の復活について記されているところから聞きたいと思います。

 

  • まずⅠコリント15章の1節、2節ですが、ここには、パウロがコリントの教会の人々に伝えたのは「福音」(よきおとずれ)であることが、しっつこい位に強調して語られています。その言い方の感じは、新共同訳よりも田川訳によく出ていますので、田川訳で読んでみたいと思います。<兄弟たちよ、あなた方に福音を知らしめる。すでにあなた方に福音として伝えた福音を。あなた方がすでに受け取った福音を。その中にあなた方も立っている福音を。またそれによってあなた方が救われることになる福音を。私がいかなる言葉によってあなた方に福音を伝えたことか。もしもあなた方が覚えているならば。もしもあなた方が無駄に信じたのでなかったとすれば>。

 

  • そしてパウロは、3節で<最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです>(新共同訳)と言って、コリントの教会の人々に伝えた福音は、自分も受けたものであると言っているのであります。新共同訳では「最も大切なこととして」と訳されている言葉は、原文では「第一に」です。ですから、この3節は<第一に私は、私自身が受け取ったことをあなた方に伝えたのである>(田川訳)と訳されます。

 

  • そしてパウロがコリントの教会の人々に「第一に」(最も大切なものとして)伝えた福音とは何かと言えば、イエス・キリストの十字架と復活の出来事です。3節後半以降にそのことが記されています。田川訳で読んでみます。<すなわちキリストは書物(聖書)に従って我らの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、書物(聖書)に従って三日目に甦られたこと、そしてケパ(ペテロ)に現れ、次いで十二人に現れたこと。それから五百人以上の兄弟たちに同時に現れた。その中の多くの者は今日もまだ生きている。何人か亡くなった人もいるけれども。それからヤコブに現れ、次いですべての使徒たちに現れた。すべての最後に、生まれそこないのような私に対しても現れた>(3節後半―8節、田川訳)。

 

  • そのように語った後、パウロは自分自身について、9-11節でこのように語っています。これも田川訳で読んでみます。<私は使徒たちの中で最も小さな者であって、使徒と呼ばれるに十分ではない者である。神の教会を弾圧したのであるから。神の恵みによって私は、今日の私たるを得ている。そして私に注がれた神の恵みは無駄ではなかった。彼らの誰よりも私は努力したである。いや、私が努力したのではなく、私とともにある神の恵みが努力してくださったのである。だから、私であろうと彼らであろうと、そのように私たちは宣べ伝えているのであり、あなた方はそのように信じたのである>(9-11節、田川訳)(下線筆者)。

 

  • ここ(下線部分)には、教会を弾圧していたかつてのユダヤ教徒としてのパウロが、ダマスコ途上で復活のイエスに出会って回心し、使徒として歩むようになってからは、自分自身と言うよりも、「神の恵み」が自分を突き動かしているのだと、パウロ自身の自己告白として記されているのであります。

 

  • エスの十字架と復活の出来事というイエス・キリストの福音には、そのような人間を突き動かす命の力があるのだと、パウロは語っているのであります。パウロがこのように語ることができたのは、復活のイエスが<生まれそこないのような私に対しても現れ>て下さったと、パウロ自身が言っているように、復活のイエスのとの出会いによるものです。

 

  • 復活のイエスと言えば、ボンフェッファーが<この人を見よ。この復活した人を見よ>と語りかけているのが印象的です(以下基本的にボンフェッファー『主のよき力に守られて~一日一章~』4月9日による)。

 

  • 神は、み子イエスを十字架にまで引き渡し、私たち人間の罪を裁き、その罪に死の宣告を与え、葬られたイエスを甦らされて、私たち人間に、罪と死から解放された新しい人間として生きる可能性を切り拓いてくださったのです。

 

  • <人間に対する神の「然り」は、裁きと死を通り越して、復活にまで達した。人間に対する神の愛は、死よりも強いのである。神の奇跡によって、新しい人間、新しい生命、新しい被造物が造られた。「生命が勝利を得た。生命が死に打ち勝った」。神の愛が、「死」に死をもたらし、人間の生命となった。十字架につけられ、よみがえったイエス・キリストにおいて、人類は新しくなったのである。キリストに起こったことは、すべての人間の上に起こったことである。なぜなら、キリストは人間そのものなのであるから‥‥。今や、新しい人間が、創造されたのである>(ボンフェッファー)。

 

  • 先ほど、「イエス・キリストの福音からすれば、イエスの復活によって私たち人間は、人類史的にも戦争など決してしない新しい人間に変えられているのであります」と申し上げたのは、このようなボンフェッファーのイエスの復活理解に基づいています。ボンフェッファーは<十字架につけられ、よみがえったイエス・キリストにおいて、人類は新しくなったのである>と言っているのです。このように<十字架につけられ、よみがえったイエス・キリストにおいて新しくなった人類>が、国家によって分断され、互いに戦争をするなどというようなことはあり得ません。<キリストの復活の奇跡は、われわれを支配している「死」という偶像を完全に無力なものとする>からです。

 

  • けれども、現在ロシアによるウクライナへの軍事侵攻という戦争が行われており、それを私たちは止めることができないで、その戦争による犠牲者を日々出し続けています。そのことは、私たち人類としては、キリストの復活の奇跡を信じていないために、「死」という偶像に未だ支配されていることを意味しています。ボンフェッファーは、このように語っています。

 

  • 〔死が偶像化されているところでは、すなわち、<死が最後のものである>と考えられているところでは、死に対する恐怖と死に対する思い上がりとが容易に結びつく。<死が最後のものである>と考えられるところでは、地上の生命は「すべて」であるか、あるいは「無」であるかのどちらかである。それゆえにこそ、地上で永遠的なものを求めようとする思い上がった態度が生まれるのであるが、それは生に対する軽率な遊戯にすぎない。生を自分で肯定しようとする懸命な努力は、かえって生に対する無関心を生み、生を軽視する結果に至るのである。ある時代が永遠性を獲得しようと要求する時、まさにそれゆえに、その時代が何ら生きるに値しなくなるということがある。これから追究されるべき新しい人間、新しい世界、新しい社会について偉大な言葉が語られる時、この新しいものがすべての現存している生命の否定によってしか存在し得ないという場合がある。これこそ何ものにもまさって、死の偶像化をはっきりと示すものである。新しい世界をもたらすのだといって、すべてを奪い取ったり、すべてを捨てたりすることは、「死」を熱狂的に信じる者のとる誤った行動にほかならないのである〕。

 

  • ボンフェッファーが<新しい世界をもたらすのだといって、すべてを奪い取ったり、すべてを捨てたりすることは、「死」を熱狂的に信じる者のとる誤った行動にほかならないのである>と記した時には、その背後にはヒットラーの存在があったのではないかと思われます。もしプーチンが、ルースキミール(ロシア世界)を、かつての帝政ロシアソ連邦を思い描き、ウクライナへの軍事侵攻を試みているとすれば、ある意味でヒットラーと同じ誤りを犯していることになるのではないでしょうか。

 

  • ボンフェッファーは、続けてこのように語っています。〔しかし、<死の力がすでに破られている>ということが認識され、復活の奇跡が、すなわち新しい生命が造り出されるという奇跡が、死の世界のただ中において光り輝いているところでは、人は自分の限られた生命に永遠性を要求するようなことはせず、その生命が与えるあらゆるものをそのまま受け入れるのである。自分の望むものを<すべて手に入れる>か、あるいは<何も手に入れない>かという二者択一は誤っている。「良いもの」も「悪いもの」も、「重要なもの」も「重要でないもの」も、「喜び」も「悲しみ」も、あらゆるものを受け入れるのである。<死の力がすでに破られている>ということが認識されるところでは、人は、一生懸命に生命にしがみつこうとしたり、また、軽率に生命を投げ捨てたりはしない。人は、限られた時間に満足し、地上にあるものに永遠性を認めようとはせず、死に対しても、死が所有している限定された正当性というものを正しく認識する。そして人は、新しい人間と新しい世界を、ただ死のかなたから、すなわち、死に打ち勝った方の力からのみ待ち望むのである〕。

 

  • 私たちも、イエスの復活の奇跡を信じる者として、そのような<新しい人間と新しい世界を、ただ死のかなたから、すなわち、死に打ち勝った方の力からのみ待ち望む>者でありたいと願います。

 

  • 〔復活したキリストは、新しい人間性を身に負う。それは新しい人間に対する神の究極の輝かしい「然り」である。人類は、今なお古い生命を生きているけれども、すでに古い生命を越えているのである。人類は今なお死の世界に生きているけれども、すでにその死を越えているのである。人類は今なお罪の世界に生きているけれども、すでにその罪を越えているのである。夜は今なお過ぎ去っていないが、朝日はすでに輝き始めている〕。

 

  • ボンフェッファーは、ナチズムの時代のただ中を生き、そして政治犯の一人として獄中生活を送り、最後には処刑されて死んだ人です。そのボンフェッファーがイエスの復活信仰を、このように記しているのであります。収容所の医師は、ボンフェッファーが、控えの間で(おそらく処刑される前ということではないかと思われます)、ひざまずき、熱心に祈るのを目撃している、と言われています。

 

  • 私たちも、イエスの復活信仰による新しい人類を信じるがゆえに、戦争をしかける力には抵抗して、戦争反対・即時停戦・ロシア軍のウクライナからの撤退を訴え続けていきたいと思います。同時に私たちが属する日本の国が、軍事力によらない、憲法第9条に基づく世界平和の構築に努力するように訴えていきたいと思います。

 

  • 主がウクライナに平和をもたらしてくださいますように!

 

祈ります。

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • 今日はイースターの礼拝です。イエスの復活の出来事が、私たちとって何を意味するのかを、ボンフェッファーの復活理解を通して聞くことができました。「十字架につけられ、よみがえったイエス・キリストにおいて、人類は新しくなったのである」というメッセージが心に響きました。また、「人類は今なお死の世界に生きているけれども、すでにその死を越えているのである。人類は今なお罪の世界に生きているけれども、すでにその罪を越えているのである。夜は今なお過ぎ去っていないが、朝日はすでに輝き始めている」との言葉にも、慰めと励ましを覚えました。今なお戦争を繰り返す人類に絶望することなく、主にある新しい人類と世界の到来を信じて、その証言者として歩み続けることができますように、私たちを導いてください。
  • ウクライナでの戦争が一刻も速やか終わりますように。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌      575(球根の中には)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-575.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。

船越通信(510)

船越通信、№510 2022年4月10日(日)北村慈郎

わたしたちは、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻に反対し、強く抗議します。

 

2月24日にロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まり、既に一か月以上が経過しています。ロシア軍による市街地に対する無差別爆撃が行われており、子どもを含む多くの市民が犠牲となり、多くの避難民が出ています。またロシア軍はチェルノブイリ原発をはじめ、原子力施設にも攻撃を加え、核災害の危機も招いています。

戦争には勝者はなく攻撃する側とされる側の双方において、最も傷つけられるのは、弱い立場に置かれた力を持たない人々です。わたしたちは、貧しい人々、飢えている人々、泣いている人々と共にある主イエスに従って生きる者として、今、戦火の下で住み慣れた場所を離れて避難せざるを得ない沢山の人々、その場所に自ら留まり或いは留まらざるを得ないために、ライフラインを奪われ、傷つき、恐れと不安におびえている人々を覚えて、この戦争に強く反対の声を挙げます。

ウクライナとの関係において、ロシアが、ウクライナのロシア系住民がジェノサイトを受けているという偽りの理由によって、ウクライナへの軍事侵攻を正当化するその手法は、かつて日本の国がアジア侵略に際して行った手法と全く同じです。わたしたちが属する日本基督教団は、第二次世界大戦下にあって、そのように今のロシアと同じ手法で他国を侵略した日本の戦争を是認し、支持し、勝利のために祈り、罪を犯しました。けれども、その過ちを反省し、「第二次世界大戦下における日本基督教団の責任についての告白」を公表し、平和を実現する「見張り」の使命を正しく果たすことを表明しました。この立場に立ってわたしたちは、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻に反対し、強く抗議します。侵攻が一刻も早く止められ、人々の命と生活がこれ以上犠牲にされずに、ウクライナの人々のもとに平穏な日々が戻ることを求めます。

わたしたちは、内外のキリスト者、また平和を求める多くの人々と連帯して、この戦争に反対し、平和を取り戻すために祈り、行動してゆきます。 

 

                                2022年 4月10日   日本キリスト教団 船越教会

 

  • 3日(日)は礼拝後前週に続いて役員会を行ないました。2022年度の定期教会総会の準備もあり、どうしてもこの日に開催しなければならなかったからです。2021年度教会報告、2022年度基本方針並びに事業計画、2021年度決算および2022年度予算を審議・承認し、総会の資料として準備できました。少し2021年度決算で時間がとられましたが、すべて承認可決することができました。その他船越教会としてロシアによるウクライナへの軍事侵攻に対する抗議声明を出すことは、京急田浦駅前でのスタンディングと共に、前回の役員会とこの日の礼拝出席者との話し合いを経て決まっていましたが、抗議声明の文案については、この週に私がまとめて、メールで皆さんの承認を得て、文案を確定し、4月10日付で出すことにしました。スタンディングについては、4月10日(日)礼拝後有志で京急田浦駅前で、30分ほど行なうことにしました。また、災害時の教会の備蓄品については、3月27日(日)の役員会で決めた分を、さっそくN・Kさんがそろえて下さり、役員会として確認し、どういう形で保管しておくかも確認しました。緊急連絡網についてもNさんがまとめて下さり、船越教会が災害に遭ったときは横須賀近辺に住む教会員では連絡が難しくなるので、遠方の教会員に連絡係を引き受けてもらっておくようにと、その準備も進めてくれています。近日中に完成し、皆さんに連絡することができるのではないかと思います。実際に災害が起こった時に、それがどれだけ有効であるかは分かりませんが、準備だけはしておきたいと思います。後は災害時における地域のニーズに少しでも応えられる教会の可能な準備について考えることになっています。船越教会はそんなに力のある教会ではありませんし、小さな教会ではありますが、出来ることがあるのではないか、それは何かを考えていくことになると思います。みなさんも、知恵があれば、お聞かせください。この日も役員会の終了は午後2時を過ぎていました。私は午後2時半過ぎに船越を出て鶴巻に帰りました。
  • 5日(火)18:00~蒔田教会礼拝堂で4月の常置委員会が対面であり、私も出席しました。この日は新任教師5人の面談がありました。新任教師の面談では、教区が前もって各教師に教区形成基本方針を送ってあり、その感想が求められます。いつも某神学校出身者の教師はほとんど教区形成基本方針を重んじ、信仰告白。教憲教規に基づいて宣教に携わるという趣旨の発言をします。この日の面談者も4人はそのような発言でした。しかし、一人だけ、信仰告白、教憲教規と共に聖書を入れている人がいました。この人は、教区の形成基本方針についても、「…我々は対立点を棚上げにしたり、性急に一つの理念・理解・方法論に統一して他を切り捨てないよう努力する。忍耐と関心をもってそれぞれの主張を聞き、謙虚に対話し、自分の立場を相対化できるよう神の助けと祈りを求めることによって、合意と一致とを目指すことができると信じる」の下線の部分につて、そう簡単には相対化できない確信をもって自分は生きているので、この点には同意し兼ねるところがあるという趣旨の発言をしました。ただ現在のロシアによるウクライナへの軍事侵攻によるウクライナの人々の悲惨な状況があるにも拘わらず、5人の面談者は「戦責告白」については全く触れませんでした。その点につて私は意見を言おうかとも思いましたが、別の人が私の免職問題について発言しましたので、遠慮してしまいました。教団信仰告白は、戦時下戦争協力を積極的にした教団の教義の大要の焼き直しであり、教団信仰告白からは戦争に反対する行動は生まれません。前記の「抗議声明」の中にもありますように、「戦責告白」の立場からしか戦争反対が出てこないからです。教区の新任教師面談での所信表明の時に、教団信仰告白と教憲教規には触れても、戦責告白に触れない人が多いのは残念でなりません。
  • 6日(水)には17:00からZoomでオリエンテーション委員会を開催し、年度報告と会計決算を承認し、新年度委員の確認と資料集作成(教師検定問題の『教団三委員会報告集』復刻版)の確認をしました。