なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(55)

「連鎖」マタイ福音書10:40-11:1

                2019年10月27日(日)礼拝説教

 

  • もう12年前になるでしょうか、戒規免職処分を受ける前に、当時教団の常議員の一人でありました私は、常議員会に「北村慈郎教師の教師退任勧告を行う件」という議案が山北議長から提案され、強引に審議され可決されたという体験をしました。この勧告は、お前は教団の教師をやめろという勧めですが、これはある種の査問委員会に私がかけられたということではないかと思いました。
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  • その時、イエスが大祭司の庭で審問を受けて、ピラトに引き渡されて十字架にかけられたということをふと思い出しました。もちろんイエスの審問と私の教師退任勧告が同じだとは言いませんが、イエスユダヤ教の指導者たちから受け入れられなかったことが少し分かったように思いました。

 

  • エスは力によって人を排除するということは一切なさいませんでした。

 

  • 「偽善な律法学者、パリサイ人よ」(マタイ23:13)と言って、律法学者、パリサイ人を批判しましたが、彼らを力で排除することはしませんでした。

 

  • 無理解な弟子たちをたしなめましたが、無理解だからということで弟子たちを否定することはしませんでした。

 

  • エスの律法学者、パリサイ人批判も弟子たちへの叱責も、イエスが信じた神の御心である神の国が到来したということこそが、すべての人の共有基盤であるとの確信に立って、それとは逆方向にある律法学者、パリサイ人や弟子たちをご自分の方に招き寄せるためでした。

 

  • 今日のマタイによる福音書の箇所は、弟子派遣の最後のまとめのところです。

 

  • ここでイエスは、弟子たちに対して、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」(10:40)と語っています。そして「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ず報いを受ける」(10:42)と。

 

  • ここには人と人をつなぐ豊かな可能性が示唆されているように思われます。

 

  • けれども、実際の私たちの人間関係は、さまざまな暴力によって人間関係が分断されていることが多いのではないでしょうか。そして私たちの間には抑圧と差別が、あらわな形で、また隠れた形で力をふるっている現実があるのではないでしょうか。

 

  • 先日の台風19号の時も、台東区が開設した自主避難所に路上生活者、いわゆるホームレスの男性3人が訪れました。ところが区の職員から「避難所は区民のために設置したもので、台東区に住居が無い方は利用できない」と受け入れを拒否されたというのです。このことに対して寿地区センターも、山谷の路上生活者の支援団体が台東区役所にした、「路上生活者を人として認めない姿勢を根本的に改めてほしい」という申し入れの賛同者になりました。

 

  • 大分前に寿地区センターの講演会に、北村年子さんというルポライターの方を講師に招いてお話していただいたことがあります。北村年子さんは1995年に大阪道頓堀で起こったホームレスの人を川に落として殺した少年ゼロのことを追って書いた『ホームレス襲撃事件~“弱者いじめ”の連鎖を断つ~』の著者です。講演でも少年ゼロのことを話してくれました。少年ゼロは小さい時にいじめられっ子で、いじめられてもやり返せなかった自分に腹を立てていたというのです。そういう少年ゼロの友人の証言に基づいて、北村年子さんは少年ゼロのホームレスいじめをこのように言っています。《やり返せなかった自分への腹立ち・・・・・。弱いものが自分の弱さにいらだち、さらに弱いものを殴る。いじめられっ子だったゼロの「ホームレスいじめ」は、そんなゼロの「自分いじめ」であり「自傷行為」だったのか・・・・。》と。

 

  • そのような“弱者いじめ”の連鎖を断つにはどうすればいいのでしょうか。北村年子さんは少年ゼロとの面談で、少年ゼロの自己尊厳感情が極端に弱かった事実に突き当たります。そして少年ゼロとの面談でもどうしたら、ゼロが自己尊厳感情をもてるようになるかを模索します。このことが契機となって、北村年子さんは、小さな子どもを持つ若いお母さんたちの自己尊厳トレーニングのワークショップを開くようになっていったのです。講演を聞いていて、弱者いじめの連鎖を断って、いじめのない社会をという北村年子さんの熱い思いが伝わってきました。

 

  • 少年ゼロの存在とその生活は、この事件を起こすまで弱者いじめの連鎖の中にあって、弱者いじめの再生産をしていたのではないでしょうか。またそのことに気づいた北村年子さんが自己尊厳感情をしっかりもって、子どもへの虐待をしない母親を育てる働きに取り組んでいかれたのは、弱者いじめの連鎖を断つ、お互いを大切にする連鎖を作り出すためだったのでしょう。

 

  • 私たち一人一人もまた、誰も自分自身の存在と生活によって他者に何かしかの連鎖を及ぼしているのではないでしょうか。イエスの弟子たちもそうでした。イエスの弟子たちは他者にどんな連鎖をもたらしていたのでしょうか。

 

  • 40節、41節で≪あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける≫と言われています。この短い言葉の中に≪受け入れる≫という言葉が6回も使われています。そしてこの「受け入れる」という語で、神(「わたし」=イエスを遣わされた方)―わたし(イエス)-弟子たちー受け入れる者がつながっています。このことは、神―イエスー弟子たちー受け入れる者の4者の間に連鎖が起きていることを意味しています。どんな連鎖がこの4者の間に起きているのでしょうか。

 

  • そのことを知るためには、伝道者の受け入れについて述べていましたマタイ福音書10章11節以下(11-15節)が参考になります。既に説教で取り上げた個所ですが、そのところを読んでみたいと思います。

 

  • ≪町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和が彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃(ほこり)を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む≫。

 

  • 伝道者の受け入れについて述べているこの個所で、弟子たちと弟子たちを受け入れる人との間にある連鎖は「平和」であることがわかります。この平和、シャロームは神の平和であり、ユダヤ人の間では挨拶の言葉にもなっています。12節にも≪その家(弟子を受け入れる人の家)に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい≫と言われています。
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  • この平和・シャロームは、旧約聖書では深い内容を持った言葉です。「戦争の対立概念としての平和ですが、単なる政治的概念ではありません。元来この語は、何かが欠如したりそこなわれたりしない満ち足りた状態をさします。そこからさらに、無事、安否、平安、健康、繁栄、安心、親和、和解など、人間のあらゆる領域にわたって真に望ましい状態を意味する語です。しかも、それは単に精神的な平安状態のみでなく、歴史的社会的具体性を伴った福祉状態を包括する概念です」。

 

  • 「このような意味での平和は、イスラエルにとっては神の業であり、神の賜物にほかなりません。しかし、それは神に対する人間の態度と無関係に人間に与えられるのではなく、人間が神の意志に基づき正義(義)を行うことによって神との契約関係を正しく保持するところにのみ現実化するのです」。

 

  • イザヤ書32章17節に≪正義は平和を生じ、正義の結ぶ実はとこしえの平安と信頼である≫と言われていますように、平和は義や公平と切り離すことはできません」と記されています。

 

(以上はほぼ、『新聖書大辞典』1199頁による)

 

  • 平和のない現実のただ中で平和を真剣に問題にしたのは預言者たちでした。イエスの弟子たちが、「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい」と言われているのも、ただ儀礼的な挨拶としてではなく、イエスご自身と、また預言者たちと同じように平和を真剣に問題にし、「平和をつくり出す者」として行動しなさいということではないでしょうか。
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  • マタイ福音書のイエスは、平和をもたらす弟子たちを受け入れる者は、「必ずその報いを受ける」と言っています。

 

  • とするならば、「神―(神に遣わされた)イエスー(イエスの)弟子たちー(弟子たちを)受け入れる者」の間には、「平和」による連鎖が成立していることを意味していると言えるでしょう。

 

  • 北村年子さんは、少年ゼロとの出会いを通して、いじめの連鎖を断ち切るためには、子どもたちが自己尊厳感情を持てる子どもに成長することが必要だと考えました。そのためには、自己尊厳感情をしっかりもって、子どもへの虐待をしない母親を育てることだと考えて、その働きに取り組んでいかれました。

 

  • 今も若い母親や父親による幼い子供の虐待が続いています。北村年子さんの取り組みに社会全体を変えるまでには至っていませんが、今でもその働きを続けているとすれば、自己尊厳感情を持って、自分を大切に思い、同時に他者も自分と同じように大切な存在だと思う子どもたちが少しずつ生まれてきているのではないでしょか。

 

  • エスの弟子である私たちの平和をつくりだす働きも、とてもまだ憎しみと争いと殺戮という現実の世界を変えるまでに至っていません。それどころか、イエスの弟子である私たちは、平和をつくり出す働きを放棄してしまう誘惑に負けそうなのかもしれません。

 

  • けれども、神―イエスー弟子たち(私たち)-受け入れる者の平和の連鎖は絶えることはないでしょう。私たちはその平和の連鎖の一端に参与させていただきたいと思います。

 

  • そのことを確認して、また一週間のそれぞれの旅に向かいたいと思います。

 

  • 祈ります。