なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイのよる福音書による説教(60)

「何が大事か?」マタイ12:1-14、

             2019年12月8日(日)礼拝説教

 

  • 何が大事か? ということで、イエスと律法学者やファリサイ人とは違っていたようです。福音書の中には律法学者やファリサイ人とイエスの論争の記事が沢山収められています。先ほど読んでいただきましたマタイによる福音書12章1節以下もその一つです。論争が起こるのは、お互いが一緒ではなく、違った考え方、生き方をしているからです。そしてそれぞれ、自分の方が正しいのではないかと思っているからです。
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  • マタイによる福音書12章1節から14節までには、安息日をめぐる二つのイエスファリサイ派の人びととの論争が記されています。最初は安息日にイエスの弟子たちがお腹を空かせて麦畑の麦の穂を摘まんで食べたということがきっかけです。二番目は、安息日に会堂に手の萎えた人がいたので、ファリサイ派の人々がイエスを訴える口実を得ようと思って、イエスに「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と質問したのがきっかけです。どちらもマタイによる福音書では、律法の枠内での論争になっています。

 

  • 安息日に弟子たちがお腹をすかせて麦の穂を摘んで食べたということをファリサイ派の人びとから安息日律法の違反行為と非難されたときに、イエスは故事に基づいてこのように答えています。「ダビデが自分の供の者たちが空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家(神殿)に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがある。もし『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである」(3-8節)。

 

  • 安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」というファリサイ派の人びとの質問に対しては、「『あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴におちた場合、手で引き上げてやらないだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許される』(11-12節)

 

  • 「神自身が憐れみに満ちた方であり、安息日律法も含まれる祭儀律法一般は、この神の愛の観点から見なければならないというのです。憐れみは、宮(神殿)よりも大いなることである。弟子たちが穂を摘んだのは空腹であったためというのも、ただ一匹の羊しか持たない人間を例として引くのも、これらの人間に対する神の憐れみを動機づけるためで」しょう。

 

  • マルコによる福音書では、イエスが語った言葉として、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」(2:27)と言われています。この言葉はマルコ福音書にしかありません。この言葉は、律法は人間のためにあるので、人間が律法のためにあるのではないということです。

 

  • このマルコ福音書のイエスの言葉からしますと、マタイ福音書のイエスは、そこまで徹底して律法からの自由を語ってはいません。安息日律法は人が守るべき大切な律法ではあるが、例外があるのだというのです。お腹をすかせた弟子たちが麦の穂をつまんで食べたのも、安息日に穴におっこった一匹の羊を助けるように、人に善いことをすることも、確かにすべての労働を禁じている安息日律法に反することになるかもしれない。だが、それは例外的に許されるのだ。なぜなら神が求めるのは憐れみで、人の子であるわたしは神の憐れみに生きる安息日の主なのだからだと。

 

  • このようにマタイ福音書とマルコ福音書のイエスの描き方が微妙に異なっていることがわかります。歴史的にはマルコ福音書が先に書かれて、マタイ福音書はマルコ福音書を一つの資料として後から書かれたと考えられています。同じ安息日の物語なのに、マルコ福音書にある「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27)というイエスの語ったとされる言葉が、マタイ福音書では削除されているわけです。もしかしたら、マタイ福音書の著者は、読み手のことを意識して、余りにも大胆で革新的な「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27)というイエスの語ったとされる言葉を、マタイ福音書を編集する段階で削除したのかもしれません。

 

  • いずれにしろマタイ福音書では、マルコ福音書のように律法からの自由を前面に出すのではなく、律法の枠内での例外として、安息日論争でのイエスの行為を描いているのであります。

 

  • さて、マタイ福音書の今日の記事の最後の14節にはこういう言葉があります。「ファリサイ派の人びとは出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」というのです。今日は読んでいただきませんでしたが、今日のマタイの福音書の箇所に続いて、15節には、「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた」と記されています。

 

  • このマタイ福音書安息日論争の記事では、イエスファリサイ派の人びととの論争によってお互いの違いが埋まったのではなくて、むしろ対立関係がはっきりしてしまいました。そしてある意味で論争に負けたファリサイ派の人びとがイエスを殺そうと相談したというのですから、彼らは論争によって自らの正しさを説得するのをあきらめて、力でイエスを抑えつける道を選ぼうとしているわけです。

 

  • この安息日論争におけるイエスと律法学者やファリサイ派の人々との間には、「何が大事か?」ということで、根本的な違いがあることが明らかになっています。律法学者やファリサイ派の人々は、言い伝えられた律法という定めを、文字通りその通りに守ることが大事なことでした。順法精神こそが人間が生きる基本だということです。それに対してマタイ福音書エスは、律法も大切だが、それ以上に大切なのは神の憐れみであって、神の憐れみによっては律法から自由に行動することができるというのです。

 

  • この二つの考え方・生き方が、今日のマタイの安息日論争では真っ向からぶつかっているのです。そしてイエスは、神の憐れみは律法に勝るという考え方に基づいて、安息日でしたけれども片手の萎えた人の手を癒されたのです。片手の萎えた人に、イエスが「手を伸ばしなさい」と言われると、その人がその手を「伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった」(13節)というのです。イエスは、神の憐れみは律法に勝るという考え方をもっておられただけでなく、順法精神に立って、かたくなに律法順守を主張するファリサイ派の人々の前で、その考え方に基づいて一人の片手の萎えた人を癒されたのです。

 

  • 自分たちの律法順守の考え方・その生き方を否定するかのようなイエスの行動に対して、頭に来たファリサイ派の人々は、「どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」(14節)というのです。

 

  • エスを主と信じる私たちも、その信仰に従って生きて行こうとしている者ではないでしょうか。イエスの時代のユダヤのようなある種の宗教国家と違って、近代国家は政教分離をその原則の一つにしています。けれども信仰者として私たちは、公共的な場所で生きていますから、国の法が支配する公共空間で、信仰者としての考え方・生き方を貫こうとする時には、場合によっては国の法に反する行動をとらざるを得ないことも出てきます。それは、公共空間だけでなく、信仰者の集団としての教会の中でも同じです。

 

  • 違った考え方・生き方をしている人たちの中で、自分の信じる信仰によって生きていこうとするときに、必ずそれに抵抗する力が、自分とは違う考え方・生き方をしている人から起きます。

 

  • 先日今日の船越通信にも書きましたが、中村哲さんがアフガニスタン武装勢力によって銃を撃たれて殺されました。中村哲さんの講演をお聞きになった方も多いと思います。アフガニスタンにおける中村哲さんの働きは、今回のことで中村哲さんの遺族の妻と長女の方が遺体を引き取りに行かれて、カブールでアフガニスタンの大統領が二人に合われて、哀悼の意を表したということですから、アフガニスタンでも高く評価されていることを示しています。最初医師としての働きから、病気との関りだけで病気そのものも克服できない。生活が成り立つ基盤をつくる必要があるということで2000年ごろからアフガニスタンの厳しい干ばつによって荒れ果てた農地を回復するための用水路の建設にとりかかり、現在までに相当広い農地が回復して、作物ができ、難民であった人々がその地で生活できるようになっていて、その用水路の建設をさらに伸ばしているところでした。中村哲さんは自分で重機を運転して用水路の建設を現地の人と共に推し進めていたわけです。中村哲さんの働きですごいのはその点であるだけでなく、その用水路建設の資金はほとんど彼を送りさしているペシャワールの会で集めたもので、現在まで約20億円くらいが投入されているということです。何かをみていましたら、中村哲さんのやっている用水路建設のような仕事は、ODAでもできるが、ODAでやれば500億円かかったのではないかと言われています。NG0の中には80パーセントの資金がNGOの人件費に充てられて、現地に送られれるのは20パーセントに過ぎないというNG0もあるということですが、ペシャワールの会は90パーセントが現地支援に送られているということです。用水路建設には人手が必要ですので、現地の人にとってはその仕事をして給与を得ることのできる雇用の場ともなっているのです。

 

  • 中村哲さんはバプテスト教会で洗礼を受けた方ですから、中村哲さんの考え方・生き方にはイエスの考え方・生き方に通底するものがあるのではないでしょうか。そういう中村哲さんとは考え方・生き方が違う武装集団の人によって、中村哲さんは銃で殺されてしまったのです。もし報道の一部にあるように、その武装集団が中村哲さんをターゲットにしたのは、中村哲さんが有名な人なので、その中村哲さんを殺ろすことによって、自分たち武装集団をアッピールするためだということであるとすれば、実に悲しいことで、残念な思いでいっぱいです。

 

  • 私たちはみんなが中村哲さんのようにはなれません。また無理してなる必要はありません。しかし、社会的に最も弱い立場に置かれて苦しむ人々のことを考え、その苦しみをやわらげ、苦しみから解放されることを願って、そのような方々と共に生きようとするその考え方・生き方は、イエスを信じる信仰から私たちにも与えられているのではないでしょうか。沖縄の人々や教会に対して、私たちヤマトの人間が、沖縄を植民地的に考え差別してきて、今も変わらずに差別している日本の国に属する者として、その加害性を問い、沖縄の人々や教会と共に生きようとすることも、私たちの生き方の一つです。

 

  • 私たちはそれぞれ取り組む課題は違っていても、私たちの信仰に基づく生き方を、言葉と行動をもって現わしていきたいと願います。たとえ別の考え方を持つ人が力で抑えようとしても、賢くそれに対処する必要はありますが、それで信仰に基づく私たちの生き方を放棄してしまうことなく、そのために人々から殺されて十字架にかけられても、復活して今も私たちと共に生きていてくださるイエスに倣って貫いていきたいと思います。

 

  • 主が私たちを導いてくださいますように!