なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

クリスマス礼拝説教(2019年)

 あけましておめでとうございます。

新しい年が皆様にとって良き年となりますように!

2020年が始まりましたが下記の礼拝説教は、2019年12月22日(日)クリスマス礼拝のものです。悪しからず。

 

「すべての人を照らす光」ヨハネ福音書1:1-14、

2019年12月22日(日)クリスマス礼拝

 

  • 今年もクリスマスになりました。クリスマスは、主イエスの誕生を憶え、その深い意味を思い起こす時でもあります。しかも2019年のクリスマスですから、今現に生きています私たちが2019年12月22日という、今この時に、イエスの誕生が私たちに何を語っているか、ということではないかと思います。みなさんは、今年のクリスマスに、イエスの誕生が何を語っていると思いますか?
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  • ヨハネ福音書の著者は、このプロローグの有名なロゴス賛歌の中で、イエスを言=ロゴスに譬えて、このように語っています。≪言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。≫(ヨハネ1:4,5)と。

 

  • 同じヨハネ福音書の8章12節では、このように語られています。≪イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ。」≫と。

 

  • どちらのヨハネ福音書の言葉でも、「暗闇」は「世」を意味しています。「世」とは、私たちが生活しているこの社会の現実を示していると思われます。一方「光」である「言」=イエスは「世の光」であると、言われています。
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  • 今日はまず「世」を象徴する「暗闇」について考えてみたいと思います。以前にこの説教でも、ヤンソンギルの小説『闇の子供たち』について触れたことがありますが、この小説は映画にもなっていますので、みなさんもご存知だと思います。児童の臓器売買や買春を扱ったものです。映画はタイでは上映禁止になりました。小説では、タイのバンコックが舞台になっているからです。ヤンソンギルは、子供たちの臓器や性が売買されるこの社会の現実を「闇」と見ているのではないかと思われます。子供たちが闇と言うのではなく、子供たちの臓器や性を売り買いする人間を闇と言っているのです。経済的に豊かな国の人間が貧しい国の子供たちの臓器や性をお金で手に入れる、そういう売買が行われている、人間としてやってはならないことをしている、この現代の社会、高度資本制社会の現実を闇と言っているのではないかと思います。これは金持ちの大人の過剰な欲望と、それに付け込んで法の網をくぐって商売する大人に、子供たちの命が踏みにじられていることを意味します。それを実行する人間の心は、悪魔に乗っ取られてしまっているとしか言いようがありません。

 

  • 私たち自身、ある面で恩恵を受けて、自分の生活が成り立っています、経済優先のこの高度資本主義社会には、こういうヤンソンギルの『闇の子供たち』で描かれているような、おぞましい現実があるということを認めなければなりません。

 

  • もう一つ、この世の闇を象徴する出来事を紹介したいと思います。このところ家族関係での殺人事件が多発しています。事務次官だった父親が息子を殺害した事件、長男が母親と弟を殺害した事件と続いています。ただ家族関係における殺人事件は、まだ私たちにも想像できるのではないかと思われます。家族関係は密なる関係であるがゆえに、その関係がこじれた時に殺人事件が起きる可能性は否定できないからです。子の親殺し、親の子殺し、子供同士の兄弟姉妹殺し、夫婦関係での殺人などです。ところが最近裁判の一審が終わった、昨年6月に起きた東海道新幹線内での無差別殺人事件を起こした青年の心はどんでもなく壊れてしまっているとしか思えません。報道によれば、彼は、公判中から無期懲役を望み、何度も過激発言を繰り返した、と言います。<被害者や、その家族への謝罪の気持ちも「一切ない」と言い切った。「男だろうと女だろうと、子供だろうと老人だろうと、人間だったらやりました」。無期懲役で一生刑務所に入るために事件を計画。「なたとナイフを持って、止めに入った人を見事に殺しきりました」と述べ、「3人殺せば死刑になるので、2人までにしておこうと思った」と説明した>というのです。判決を言い渡されると、彼は、立ち上がり、「控訴はいたしません。万歳三唱します」と言って、まさかの万歳三唱をし、制止に逆らって続けたことから裁判長が閉廷を宣言するなど、裁判は、異例の“幕切れ”となった、というのです。裁判長は判決理由で「一生刑務所に入るためとの動機は、あまりにも人の命を軽視し身勝手。強固な殺意に基づく残虐で悪質な犯行だ」と強調しましたが、結果的には被告が希望していた通りの結果になったわけです。

 

  • この青年も、今後長い刑務所生活でどう変わるかは分かりませんが、少なくとも現在の段階では、通常では考えられない心の持ち主ではないかと思います。このような一人の青年を生み出した現代日本社会の闇の深さを思わざるを得ません。このような深い死の闇に覆われた社会を生み出して来てしまったのは、私たち自身です。そのような深い死の闇に覆われているこの社会の中で生きている私たち自身の責任を考えざるを得ません。
  • 次に闇の中に輝いている「光」について想い起したいと思います。今日のヨハネ福音書のロゴス賛歌では、5節で≪光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった≫と言われています。田川建三さんは、5節を≪そして光は闇の中に現れる。そして闇はそれをとらえなかった≫と訳しています。新共同訳の≪理解しなかった≫も、口語訳の≪勝たなかった≫も、ここでの訳としては不適切と判断しています。闇が光をとらえなかった、ということは、闇は光との関係も持ち得なかったということで、両者、闇と光は交わることがなかったことを意味するのではないかと思われます。光は闇の中に現れて、輝いているが、その光の輝きは、闇には何の関係もなく、闇は闇のままだったというのです。
  • 私たちの中には神が存在するならば、この闇のような世界がなぜ変わらないでいるのか、と思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、神が暗闇のこの世界に光を照り輝かせてくださっているにも拘わらず、その光をとらえようともしないこの暗闇の世界は、光が照り輝いているにも拘わらず、暗闇のままであり続ける以外にあり得ないのです。
  • 「闇が光をとらえなかった」ということを、9節以下ではこのように語られています。≪その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった。≫(9-11節)と。光を受け入れない民によって構成されています世=社会は闇の中にあるほかないということです。
  • けれども、12節以下にはこのように語られています。≪しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じた人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。≫と。暗闇の世界に生きている人々の中に、言を受け入れ、言を信じた人々がいて、言はそのような人々には神の子となる資格を与えた。そのような人は肉の欲や人の欲によってではなく神によって生まれたのだ、というのです。
  • そして14節では、≪言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵と真理(まこと)とに満ちていた。≫と。神が人である独り子イエスをこの世に遣わしてくださることによって、暗闇の世にすべての人を照らす光が照り輝いた。それは、神の栄光の現れであり、恵と真理とに満ちていた、というのです。
  • このようにヨハネ福音書のロゴス賛歌を読みますと、肉の欲、人の欲をベースに成り立っている暗闇の世界=社会が、命である光によって変えられるとすれば、言を受け入れ、信じた人々を通してであることが、良く分かります。
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  • 先ほど新幹線で殺傷事件を起こした青年のことを話しました。この自分が一生刑務所で暮らすために人を殺したと言って、開き直っているこの青年は、現代の暗闇の世によって生み出された存在ではないかと、私は言いました。その意味では、この青年も肉の欲・人の欲によって動いている現代社会の犠牲者ではないか、と思えて仕方ありません。

 

  • 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:16)。

 

  • この神の思いと行動が、この青年には届いていないように思えてなりません。神を排除し、人間が中心になってこの社会を形成するようになった、世俗的な近代社会の行きつく果てを、私たちは今経験しているのではないかと思われます。そういう社会の中で、この青年は、今回裁かれた殺人行為を犯していしまったのはないでしょうか。

 

  • そのことを思いますと、命の光であり、すべての人を照らす真の光である言=イエスを受け入れ、信じることを許されているわたしたちの責任の重大さを思わずにはおれません。
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  • 政教分離を原理の一つにした近代社会は、ヨーロッパ中世までのキリスト教世界、宗教と政治が一体化した社会から脱皮し、宗教と政治を分けてきました。そのために私たち自身も、宗教・信仰の領域を心の問題に自己規制してきて、体は、近代社会の宗教から自律した政治経済によって、お金(資本)と権力が支配する社会に預けて生きてきたのではないでしょうか。

 

  • そのためにわたしたち信仰者は、内面において命の光であるイエスを大切にして生きてきましたが、この社会の中で私たちの体もイエスに従って命の光を大切にして生きたかというと、そうではなかったのではないか。私の青年時代に教会の中でよく問題になりました、二元論的な生き方、教会生活と社会生活を分けて、社会、特に会社では隠れたキリスト者・信仰者として生きるという道です。闇の中で自分の与えられた光に蓋をして、教会以外のこの社会の中で生きてきたということです。このことが今でも乗り越えられていないのではないでしょうか。

 

  • エスという光を受け入れ、与えられた者として、その光にふさわしい新しい社会を創造する。そのことに欠けていたのではないかと、今この年になって、改めて思わされています。

 

  • 今年のクリスマスは、そのことを確認し、心も体も命の光である言=イエスに照らされて、変えられて、心も体もその光をこの世である今の社会の中にあって灯し続けていきたいとの決意を新たにしたいと思います。

 

  • そのことを主が嘉して、霊なる命をもって、私たち一人一人を支え導いてくださいますように。

 

  • 祈ります。