なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(68)

「自分への問いかけ」 マタイ13:18-23 2020年3月1日礼拝説教

 

  • 私は4月の終わりごろから5月のかけての新緑の季節が好きです。冬の間死んで枯れていたように思える草木が見事に芽を出し、葉をつけ、中には美しい花を咲かせます。今私は鶴巻温泉に住んでいますが、そこから見える丹沢山系の山々が、春になると全体が白っぽくなります。木々がその枝に新しい芽をつけるからです。それが初夏のころになりますと緑一杯のグラデーションになります。その時ほど、自然界には生命が漲っていることを感じる時はありません。
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  • ですから、イエスの種を蒔く人の譬えの中の「良い地に蒔かれた種が百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶ」ということは、自然の営みとしては、よく分かります。

 

  • 今日のマタイ福音書の箇所は、イエスの種を蒔く人の譬えの解釈になります。

 

  • 私はマタイ福音書13章1-9節の箇所の説教で、「マタイによる福音書では13章18節以下に、〈「種を蒔く人」のたとえの説明〉があり、その説明も当時の教会が自分たちの状況に合わせて行った解釈です」と言いました。ですから、今日の所はイエス自身の譬えの解釈ではなく、イエスの譬えを後の教会が解釈したものと考えられます。

 

  • エスの譬えは種を蒔く人の側に中心があります。けれども今日の解釈の箇所は、種がまかれた場所が中心になっていて、その場所を人間に譬えて解釈されています。蒔かれた種は「御国の言葉」とされ、「だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る」(13:19)と言われています。

 

  • 私たち人間の側が、「御国の言葉を聞いて悟る」かどうかということが問題となっているのです。

 

  • そしてこの譬えの解釈は、このように続いています。「道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたもとは、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」(13:19b-23)と。

 

  • このようにイエスの「種まく人の譬え」が、この譬えの解釈では、種がまかれた土地である人間の側の信・不信が問題にされていることが分かります。

 

  • 人間の信・不信が問題にされています同じような譬えは、旧約聖書旧約聖書続刊の中にも出てきます。旧約聖書では賢者、賢い者が「水のほとりに植えられた木」に譬えられています。その中でも有名なのは、エレミヤ書17章8節です。「彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない」。これは信=信仰者の譬えです。

 

  • 逆に「不信仰な者」については、旧約聖書続巻のシラ書40章15節には、このように言われています。「不信仰な者のひこばえは若枝を増やさず、その汚れた根は切り立つ岩にしがみついている」。「ひこばえ」とは切り株の根からでた新しい芽です。切り株の根から新しい芽がでても、その芽は成長して若枝を増やすことができない。その根が切り立つ岩にしがみつくように張っていて、水路のほとりの根のように、水分も養分も十分にひこばえに送ることができないからです。

 

  • このようなユダヤ教の知恵文学の中には、神を信じる賢者は、小川のほとりに立ち、しっかりと根の張った木に譬えられています。それに反して、神の存在を認めない者や疑う者は、根がなく、やがて枯れてしまう木に譬えられているのであります。

 

  • 今日の説教のテキストになります、イエスの種まく人の譬えの説明で言えば、種は御言葉を聞く人間です。ここでは御言葉は「御国の言葉」(19節)ですから、イエス神の国の宣教を指していると考えてよいでしょう。この譬えの説明では、その御言葉を聞く人間を四つのタイプに分けています。そして最初の三つのタイプの人間は、折角御言葉を聞きながら実を結ばない人たちです。最後の四つ目のタイプの人間だけが、御言葉を聞いて実を結ぶのです。

 

  • 第一のタイプの人は、道端に蒔かれた種です。このタイプの人は、御言葉の種は蒔かれたのですが、悟ることができないので、すぐに「悪い者(サタン)が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取」ってしまう、というのです(19節)。

 

  • 第二のタイプの人は、石だらけの所に蒔かれた種です。このタイプの人は、「御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらく続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐつまずいてしまう人」です(20-21節)。

 

  • 第三のタイプの人は、茨の中に蒔かれた種です。このタイプの人は、「御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人」です(22節)。
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  • そして第四のタイプの人は、御言葉を聞いて悟る人です。このタイプの人は、「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶ」のです(23節)。

 

  • このイエスの種蒔く人の譬えの説明は、寓諭的な解釈で、最初に言いましたように、後の教会の中で出来たものですが、教会はこれをイエス自身が語られたものとして言い伝えていったと思われます。では、マタイはこの譬えの説明で何を語ろうとしているのでしょうか。

 

  • まず注意しなければならないことは、種が実を結ぶということを強調している点です。種が蒔かれた四種類の土地は、明らかに御言葉を聞くこと、そして理解することが問題になっています。御言葉を聞いても最初から悟らない人、聞いて理解したと思っていても、本当には理解できない人、そして実を結ぶ人は、聞いて、理解し、そして行う人なのです。マタイにとって重要なことは、実を結ぶという事実、聞いて理解し行うとうことであって、そのもたらす実がどれだけかということではありません。

 

  • もうひとつ、マタイにとっては、マタイの教会の人々がこの四重の畑についのて譬えを自分自身に関係づけ、自己批判的な問いとして受け止めていることです。

 

  • もし、最初の三つの畑のタイプでもって、自分たちではなく、例えばイスラエルや、あるいはキリスト教社会の周辺部の居住者たちが考えられていると思っているなら、このテキストを歪曲して解釈することになります。このテキストは、人間というものについての一般的な考慮の手引きをしようとするものではなく、まして自分自身の実りの豊さを自己確認するように導こうとするものでは全然ありません。自己批判的に自分自身への問いかけとして理解する、その時初めて、これは正しく理解されるのであります。

 

  • しかもこの譬えの中で、実をもたらすようにと呼びかけているのはイエス自身なのです。そのイエスに信頼して、この譬えを自分自身に向けられた問いとして読まなければならないのです。

 

  • 蒔かれた種の実を結ぶとは、どのようなことなのでしょうか。私たちがイエスを信じて生きるときに、自分の中に芽生えたその信仰の種が実を結ぶのではないかと思いますが、その時、私たちはどのような人間として生きることができるのでしょうか。

 

  • 私はこんな風に考えています。自分をかけがえのないものとして大切にしてくれると共に、他の人も自分と同じように大切にする神様の御心に従って生きていくには、どうしたらいいのですかと、聖書が証言するイエスに聞きながら、その日その日を精一杯歩むことではないかと。そのとき、聖霊が働き、私たちのなすべきことを教えてくれると共に、それを行う力も与えられるのではないでしょうか。ある私の先輩の牧師は、礼拝で賛美歌を歌う時にも、テンポの遅い人に合わせて歌う思いやりが会衆に働くとすれば、そこにも聖霊が働いているとおっしゃいました。その方がお書きになった本の中では、他の人のことを覚えて祈る人や、手紙を書いて励ます人の中にも聖霊が働いていると記しています。他の人への思いやりや優しさが、私たちの中に生まれるところに、聖霊が働くというのです。人から押し付けられてではなく、自分の中から生まれてくる思いやりや優しさを、素直に表すことができれば幸いです。

 

  • 近くの他者や遠くの他者を顧みず、自分さえよければという自己中心的な生き方が私たちの中に蔓延していれば、政治もまた自国主義になり、権力と富をたくさん持っている発言権の強い一部の人にこびた、不公正なものになっていくのは必然です。自分さえよければ、他者はどうなろうと知ったことはないわけですから。現在の日本社会はますますそういう社会になっていくかに思われます。私たちはそのことを批判し、また嘆き憂えるでしょう。しかし、それだけでは何も変わりません。

 

  • 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)。というヨハネ福音書のイエスの言葉を噛みしめたいと思います。