なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(69)

「判別できない」 マタイ13:24-43、

                  2020年3月15日(日)礼拝説教

 

  • エスの種蒔きの譬えの解釈のところですでに触れていますが、キリスト教の歴史の中には「正統と異端」という問題があります。異端とされた人は断罪されたり、火あぶりにさせられました。中世カトリック教会では宗教裁判=異端審問が行われていたと言われています。この異端審問にかけられてサヴォナローラは火炙りになりました。1498年のことです。サヴォナローラはイタリア、フィレンツエの改革者で、1491年からサン・マルコ修道院の院長になり、聖書の黙示や予言を情熱的に説いて、メディチ家教皇に対抗しました。その後教皇と対立して、火炙りの刑を受けたのでした。
  •  
  • 実は、私は1995年にこの教会の牧師になって、しばらくした頃、ある教会員の方から、「先生、サヴォラローラのようになってください」とお葉書をいただきました。そのことを教会だよりか何かに書いたことがありました。そうしましたら、別の方をお訪ねしたときに、その方はフィレンツエに行ったことがある方で、「先生、わたしサヴォラローラ嫌いよ」と言われました。フィレンツエのメディチ家の美術芸術を破壊したからだというのです。

 

  • こういう正統と異端という教会の歴史に対する私の疑問は、一方が正しく、一方が間違っているということが、そう簡単に言えるのかどうかということです。むしろ、正統と異端ということは、真理問題というよりも、権力関係の現われではないかと思うのです。

 

  • かつて私が出た神学校ですが、東京神学大学が、「まことの福音のために」ということで、「異なる福音」を奉じるという理由で、約半数の教授会を批判し、バリ封鎖した学生を機動隊を導入して排除し、除籍しました。その教授会から排除された学生の一人で、今はある教会の牧師をしているぼくの友人が、私が当時の教団議長であった山北さんから教師退任勧告を受けた時に、「北村さんでよかった」と、しみじみと言いました。人によっては、勧告を受けただけでもたない人もあるから。自分は東神大闘争で大学から排除され、傷ついてしまった何人かの友人を知っているのでと言うのです。

 

  • さて、今日のマタイによる福音書のテキストには、三つの神の国の譬えが記されています。その最初の「毒麦のたとえ」には、【ある人が良い種を蒔いた畑に 人々が眠っている間に、後から敵(サタン)が来て毒麦を蒔いて行った。そのために芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちは主人のところに来て、『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったのではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう』と言った。主人は『敵(サタン)の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかも入れない。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者にいいつけよう。』】とあります。36節以下の「毒麦の譬えの説明」にもあるとおり、刈り入れは当時のユダヤ人にとっては終末のときです。その時、神さまがやってきて、人間の営みに終止符を打ち、それぞれの人の行為に従って審きが行われ、神の国が完成すると信じられていました。そういう終末、終わりの時まで、良い種の麦と毒麦を分けないで混在させておくというのです。人間が途中で毒麦だからと言って抜いたりすると、良い種の麦を間違って抜いてしまったりすることもあるだろうから、最後に神さまが良い麦と毒麦を分けられ、毒麦は集めて束にして焼き払い、良い種の麦は倉に納めるというのです。

 

  • この譬えには、良い麦か毒麦かという判断を、人間が勝手にしてはならないという教えも含まれています。別のからし種とパン種の二つの神の国の譬えからして、私たちがしなければならないことは、神の国の成長を信じ、神の国にふさわし実を結ぶために、一生懸命生きなさいということなのです。

 

  • 毒麦のたとえの説明のところに、「良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである」(38節)と言われています。私は聖書の中にあるこのような良い者と悪い者という二項対立の言い方を、二種類の違った人間という風に理解することにいささか疑問をもっています。この毒麦のたとえの説明でも、悪い者、「不法を行う者ども」(41節)は「燃え盛る炉の中に投げ込ませる。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」(42節)と言われています。まさしく異端審問で火炙りにされた人ではないでしょうか。「正しい人々はその父の国で太陽のように輝く」(43節)と言われています。
  • クリスチャンは正しい人々で、そうでない人は悪い人々だと、単純に理解したり、同じキリスト教の中で正統と異端を分けて考えることが、私のいう二項対立です。私は聖書の中にあるこのような、一見二項対立的な人間を二つに分ける言い方は、自分の中にある二つの自分という風に理解するようにしています。
  •  
  • ウルリッヒ・ルツのマタイによる福音書の今日の箇所の注解の中に、このような言葉を発見しました。「自分が絶対的なものとして所有していると考える真理の名において、人間を偽教師として断罪したりあるいは破門したりする教会は、彼らが『迷っている者たち』を精神的な形で殺害していないかどうか自問しなければならない」(2巻447頁)。「教会も個々の人間も、麦となる可能性と毒麦となる可能性を自分の内にもっている」(同448頁)。

 

  • 真理を自分のみが所有しているとか、私は良い麦であなたは毒麦だという、ある意味で自分を絶対化する誘惑に私たちは陥り易いのです。そうすることによって、自分を安心させたいからです。しかし、私たち人間の側には、どんなに逆立ちしても真理を自分のみが所有している人はいません。信仰だけの人もいないのです。私たちはどんなに信仰深い人でも、信仰と不信仰の間を揺れているのです。そういう意味で、私たち人間は誰も良いところもあり、悪い所もある相対的な人間に過ぎません。

 

  • 神はすべての人を照らす太陽であり、風であり、雨なのです。惠を与える神であると共に、厳しく裁く神でもあります。私たちすべてを包む大空のようであり、イエスを通してこの世にあって私たちと共にいてくださる方でもあります。その神に敵対する力が私たちの中で働いています。しかし、最後にはその神に敵対する悪しき力を神は追放するでしょう。その時がいつかは私たちには分かりません。悪しき力が最終的には追放されることを信じて、また、神の蒔かれたよき種が私たちの中で成長して、空の鳥が来て巣を作れるほどになることを信じて、与えらた一日一日を生きていけたら幸いです。
  •  
  • 最後に、今回連れ合いの看取りと死を通して与えられた、私の中に生まれている一つの誓いについて、お話しさせてもらいたいと思います。

 

  • その関連で、少し連れ合いにつてお話させてもらいたいと思います。連れ合いと私は、彼女が高校1年生、私が高校3年生の11月に紅葉坂教会で初めて出会い、翌12月のクリスマスに共に洗礼を受けました。それが1959年の12月でした。それから紅葉坂教会のKKS(高校生会)、青年会のメンバーとして共に活動し、1967年4月3日に結婚しました。私が25歳、彼女が23歳でした。その時私は東神大の学部から大学院に進学した時で、学生結婚でした。2年間は、彼女が保母として横浜菊名教会の菊名愛児園に働いていましたので、ほぼ彼女が生活を支えてくれました。私は東神大の大学院を終えて、東京足立区にあります日本基督教団足立梅田教会に5年間主任担任教師として働きました。足立梅田教会に赴任した4月に娘が誕生しました。足立梅田教会5年間在任中に息子2人が生まれました。

 

  • 連れ合いは保母の仕事を選びましたので、子供との関りの仕事が彼女のライフワークであったと思います。性差別問題への関心や辺野古新基地反対運動へのかかわりは、私が1995年名古屋の教会から母教会である紅葉坂教会の牧師になってからで、彼女が50歳になってからの取り組みです。子供との関りの仕事は、彼女が高校卒業後、横浜保育専門学校に入ってからですので、彼女の一生を貫いた課題であったと思います。

 

  • 足立梅田教会時代に、彼女は、当時まだ自閉症という言葉も定着していなかったのですが、今でいう自閉症のお子さんを持つお母さんによる共同保育所で上の二人の子供を保育園に預けて働きました。一番下の子が私が足立梅田教会を辞める10か月前に生まれましたが、その子は斜頸で生まれてきましたが、最初医者も分かりませんでしたが、彼女がおかしいと見つけ、直ぐに整形外科に連れて行き、その後半年ほど通って子供の斜頸を見事に直しました。足立梅田教会を5年で辞めて、私はその後3年間紅葉坂教会の伝道師として働きました、彼女は足立梅田時代に関わっていた共同保育所を辞めざるを得ませんでした。紅葉坂教会の3年間はほぼ子育てに専心しました。1977年4月から18年間、私は名古屋の御器所教会の牧師として働きました。御器所教会に行ってからしばらくして、彼女は相生山学童という、自然豊かな場所にあり、登り窯による陶芸を子供たちにさせたり、夏のキャンプではマッチを使わず、木と木をすり合わせて火を起こす所からやらせ、サバイバルを体験させる、大変ユニークな学童でしたが、そのスタッフになって、子供たちと関わりました。この18年間の名古屋生活では、彼女は3ないし4家族の幼い子供にある障がいを発見し、適切は指導をして、その両親や祖父母から感謝されています。その中の一人はもう30代になって、作業所に通いながら個性的な絵を描くので、その絵が商品になっています。

 

  • 1995年に18年いた名古屋から横浜の紅葉坂教会に帰って、しばらくしてから、障害のあるお子さんの学校の送り迎えとか、留守中お子さんを世話するボランティアをはじめました。その後2004年に、立ち上がったばかりのレスパイトケア萌という重度の障がい児の在宅支援をするNPOのボランティアになり、萌と関わるようになりました。萌が立ち上がって4年ほどたった時、設立者が辞めることになり、彼女が萌の理事長に選ばれました。それが2007年だったと思います。その後一昨年病気になり、昨年理事長を交代するまで、12年間レスパイトケア萌のために働きました。

 

  • 私は、教会を変わる度に彼女がそれまで築いたものを放棄させて、新しい所でやり直さなければならないようにさせてきたことに、ずっと負い目を感じて来ました。おそらく私が一箇所に留まり続けていれば、彼女は障がいを持つ子供やその母親や父親との関りにおいて、もっともっと働くことが出来たのではないかと思うからです。

 

  • 彼女は感覚が鋭く、行動の人でした。それは子供との関りにおける働きだけでなく、性差別問題や沖縄・辺野古新基地建設反対においてもそうでした。

 

  • 先程私は、「神の蒔かれたよき種が私たちの中で成長して、空の鳥が来て巣を作れるほどになることを信じて、与えらた一日一日を生きていけたら幸いです」と言いました。連れ合いの人生をその傍らで共にしてきた私には、彼女の歩みは「神の蒔かれたよき種が私たちの中で成長して」いくことに彼女なりに仕えていたのではないかと思えます。

 

  • 私はどちらかと言いますと、言葉・頭の人で、行動・体が動かない面がありますので、彼女が帰天したことを契機にして、残された人生は言葉と行動が出来るだけ一致するように努めていきたいと思っています。それが密かな私の誓いです。皆さん一人一人もそうだと思いますが、私の中にも神の蒔かれた種があると思いますので、その種を成長させていきたいと切に願っています。

 

  • 祈ります。