なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信、№452    2020年3月22日   北村慈郎

  • 14日の土曜日は午後4時頃鶴巻を出て船越に向かいました。途中用事をし、追浜で夕食を済ませ、午後7時過ぎに船越教会に着きました。ポストの郵便物を取り、懐中電灯を照らし、真暗な裏のスチール物置からメールでHさんから連絡のあった教会玄関の新しい鍵を取り、今までの鍵と新しい鍵の二つで玄関の鍵を開けて、教会の中に入りました。電灯の下で郵便物を見ましたら、その中に福岡のW・Kさんから私宛のスマートレターがありました。開けてみますと、カードとお花のギフトカードが入っていました。カードには「千賀様が安心して神に召されたご様子を伺い、私も恥ずかしくない生き方をしなければと教えられました。皆様の心の平安をお祈り申し上げます。」と記されていました。W・Kさんは先日急逝されたW・Tさんのお連れ合いです。W・KさんとはTさんとご一緒に船越教会の礼拝に出席された時に一度だけしかお目にかかったことがないのですが、心のこもったお手紙をいただいて恐縮しています。
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  • コロナウィルス感染自粛で礼拝も行わない教会があると聞いていますが、15日の日曜日の船越教会の礼拝出席者はいつもより多目でした。私はこの日、千賀が帰天し密葬後初めての船越教会の礼拝説教でした。千賀は3日帰天6日密葬でしたので、8日の日曜日を私はお休みさせてもらいました。教会員の方は15日(日)の礼拝説教も私が担当しなくてよいように配慮下さいましたが、そのことを感謝しつつも、私は15日(日)から礼拝説教の責任を果たすことにしました。そのために千賀の闘病生活1年半の間、私が申し出て日曜日を休ませていただいたのは、8日の一回だけということになりました。千賀が闘病生活に入った当初は、最後の時期2,3か月は休職させてもらうことになるのではと思い、教会の役員会にもそのことをお話してありました。ところが、その必要がないほど千賀の最後が余りにも急でした。2月6日に主治医から、「もう抗がん剤は効かなくなり、緩和に移行する時期になりましたので、在宅か病院かを選んでください」と言われ、13日にどちらか決めて主治医にお願いすることになっていました。その矢先の11日の朝にストーマからの出血で東海大学付属病院に緊急入院し、それからは自宅に帰ることなく、25日に鶴巻温泉病院緩和病棟に転院し、ほぼ一週間後に帰天しました。余り苦しむことなく、安らかに帰天したことは千賀にとっても私にとってもベターだったと思われますが、最後が余りにもあっけなかったので、私自身は未だ気持ちがついて行けない感じでいます。千賀のお別れ会が何時できるか、今のところ予定が立ちませんが、お別れ会までは今まで同様船越教会の在宅日は土曜から日曜日にかけてにさせてもらいたいと思います、お別れ会が終わった段階で、元に戻し私の船越教会在宅日は金曜から日曜日にするようにしたいと思います。どうぞご了解ください。

 

 

  • さて、15日(日)は礼拝後、この日は何時もより多くの方が残ってお茶を飲み懇談の時を持ちました。しばらく懇談した後散会しました。この日は私も比較的早めに船越教会を出て、鶴巻に帰りました。午後3時過ぎにマンションに着きましたが、しばらくするとインターホーンが鳴って、宅急便のヤマトの方がお花を届けてくれました。送ってくださった方は名古屋の方です。配送希望16:00~18:00になっていましたので、私が教会から帰る頃を見計らってお花を送ってくれたのではないかと思います。その方に私は千賀の帰天をお知らせしていませんでしたが、どなたかにお聞きになってお花を送ってくださったのだと思います。先週も毎日のようにお花が届きましたが、この週も月曜日から木曜日まで毎日午前中にお花が届きました。大好きだった花に囲まれて写真から笑っている千賀が出てくるのではと思える程です。
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  • 18日は午後2時過ぎに、19日の千賀の誕生日を覚えて、以前から家族で集まることになっていましたので、千賀はいませんが、千賀のお骨と写真のある鶴巻の自宅に3人の子供たちがやってきました。千賀の死後の手続き上の相談をし、その後近所の美味しい蕎麦屋さんで、千賀も食べたことのないコース料理を取って夕食を共にしました。千賀は死ぬ前に病床で3人の子供が皆やさしいと言って喜んでいました。我が家の子3人は血液型もみな違って、三者三様でバラバラです。それぞれ自分の道を進み、全く群れません。男の子二人は同じマンションの1階と2階に住んでいるのですが、ほとんどすれ違いの生活をしているようです。上の男の子は介護の仕事を、下の子は3年ほど前からバスの運転手をしています。一番上の娘も契約社員で、それぞれなんとか自分の生業を稼いで市井の生活者として生きています。中学生のころ上の男の子は、牧師であるわたしを批判して、「お父さんは説教なんか食っしゃべって、善良な市民からお金を巻き上げているんじゃないか?」と言いました。先日その話をしたら、「牧師にはそういう一面があるということよ」と言っていました。この子は高校を中退し、中卒の資格で現在まできています。3人とも豊かではありませんが、今は何とか自活しています。人をうらやむこともなく、社会的な運動からも距離を置き、自分の生活に沈潜する生き方をしています。社会的な抑圧関係からすれば、3人の子供は全く抑圧に加担していないとは言えないとしても、言葉を語ることによって生業を得ている私よりもはるかに抑圧の加担への度合いが少ないと言えます。その意味でも、私は3人の子供たちがこのまま何とか生き抜いてくれることを願い、祈っています。

 

  • 20日(金・休)の夜、滋賀にいる神学校の同級生の友人から電話がありました。千賀の帰天は知らせていましたが、彼は、私が千賀を失ってどんなに悲しんでいかを鑑み、なかなか電話ができなかったというのです。彼は最近がんの転移がリンパにあり、近々入院することになっていて、入院前に千賀のためにイースターに花を送りたいので、受け取り日の確認をし、花屋に手配しておきたいので電話をしたと言うのです。彼は長年寝たきりの言葉も話すことのできない妻の介護もしているのですが、それでも生きているのと、私のように死んだのとは、悲しみの深さが違うのではと言うのです。そして私を励ましてくれました。本当に有難いことです。