(注)讃美歌はインターネットでHさんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。
② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)
③ 讃 美 歌 149(わがたまたたえよ)を歌いましょう(各自歌う)。
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-149.htm ⓸ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編49編13-21節(讃美歌交読詩編53頁)
(当該箇所を黙読する)
⑥ 聖 書 マタイによる福音書19章1-12節(新約36頁)
(当該箇所を黙読する)
⑦ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 425(こすずめも、くじらも)を歌いましょう(各自歌う)。
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-425.htm
説教 「離婚について」 北村慈郎牧師
祈祷
- 結婚・離婚・独身、これは私たちが生きていくときに、誰もが経験する男女の関係の中で選んでいく、あるいは選ばされていく道と言えるのではないでしょうか。
- 最近、吉本隆明の膨大な著述から74語を選んで書いた、『生きていくのに大切な吉本隆明の74語』という本を読み返してみました。その本の最初に出てくる吉本隆明の言葉が「結婚」に関する言葉です。それはこういう言葉です。
- 「結婚して子供を生み、そして、子供に背かれ、老いてくだばって死ぬ、そういう生活者をもしも想定できるならば、そういう生活の仕方をして生涯を終える者が、いちばん価値がある存在なんだ」(『敗北の構造』201頁)
- この言葉の解説の中で著者は、吉本の若き日のノートから「僕は、生れ、婚姻し、子を生み、育て、老いたる無数のひとたちを畏れよう。僕がいちばん畏敬するひとたちだ」と言う言葉も紹介しています。
- 今日のマタイによる福音書のテキストは、いわゆる離婚問答です。マタイによる福音書にはすでに5章31-32節に、「離縁してはならない」というイエスの教えが出ていました。その箇所を読んで見ます。
- 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる」。
- 今日の19章3節から9節までに記されていますファリサイ派の人々とイエスとの離婚問答でも、イエスの答えは9節に「言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる」とありますように、内容的には5章31-32節と変わりません。
- ユダヤ人にとって結婚は神聖な義務であり、20歳以上になっても結婚しない者は、律法の研修に専念する者を除いては、「生めよ、ふえよ」の神の命令にそむく者でありました。子供のない者は「子孫を殺す者」、「地上における神の像を滅ぼす者」でありました。(凄い言い方ですね!)「夫と妻が神の恵みを受けるにふさわしいときには、神の栄光が彼らとともにある」と考えられていました。ですから、結婚は軽率にすべきものではありませんでした。
- 男は血縁の正しい処女と結婚すべきこと、他人の妻を犯してはならないこと、奴隷、または遊女であった者をめとってはならないこと、等です。
- もし男が結婚した女の処女性を疑う場合には、証拠が要求され、妻の父か兄弟が弁護に立ちました。もし女が処女であったことが証明された場合には、男はその女と結婚しなければならず、女が最も悪質な罪を犯さない限りは、離婚してはなりませんでした。もし女に対する非難が根拠のないもの、また悪意から出たものであることが証明された場合には、女を非難した男が、40に一つ足りない鞭を当てられた上で、女の父親に50シケル支払わなければなりませんでした。もし罪の疑いに確証が与えられた場合には、女は罪に定められて石で打ち殺され、もし女が祭司の娘である場合には、焼き殺されなければなりませんでした。
- もし男が、婚約している女と姦通した場合、合意の上であれば二人とも殺されました。もし寂しい場所か、助けを得られない場所で男が強姦した場合には、男だけが殺されました。
- もし男が婚約していない女と関係を結んだ場合には、男はその女と結婚する義務を負い、もし女の父親がその結婚に同意しない場合には、男はその父親に50シケル支払わなければならなりませんでした。
- 離婚は、結婚と純潔についてのユダヤ人の律法の理想が高かっただけ、憎まれました。
- マラキ書には、神は離婚するものを憎むと言う言葉があります(2:16)。けれども、理想と現実は一致しませんでした。ユダヤ人の律法によりますと、女は父親か夫の財産、所有物で、一般的には女に法律上の権限は与えられず、離婚する権利もただ男にだけ与えられていました。
- ですから、安易な離婚が行なわれました。申命記24章1節に、「人が妻をめとって、結婚した後に、その女に恥ずべきことのあるのを見て、好まなくなったならば、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせなければならない」と記されています。
- 何が「恥ずべきこと」かということで、ユダヤ教のシャンマイ学派とヒルレル学派には解釈の違いがありありました。シャンマイ学派は、恥ずべきことは「淫行」と解釈し、淫行以外にはどんな理由でも離婚はゆるしませんでした。一方ヒルレル学派は、恥ずべきことを広く解釈し、たとえば、女が調理に失敗した場合、道路で糸をつむいだ場合、髪を編まずに外出した場合、町で男に話しかけた場合、夫の前で夫の両親に対して不謹慎なことをいった場合、隣の家まで聞こえるような大声で話した場合には、男はその女を離縁することができました。
- たとえば、ラビのアキバは、人が妻を「好まなくなった」という句をさらに広い範囲に適用して、もしその人が自分の妻より好きな女、妻より美しい女をみつけた場合には離縁することができる、と言ったというのです。一般の民衆はゆるい方を好みますから、ヒルレル学派が勢力を得て、結婚の絆がゆるみ、ささいな理由で離婚する者がふえていきました。
- また、ラビの律法によれば、強制的に離婚をさせられる場合が二つありました。姦淫を犯した場合、第二は、子供ができない場合です。
- イエスに向けられた質問の背後には、このような結婚・離婚に関するユダヤ人の考え方がありました。特にシャンマイ学派の厳格な解釈と、ヒルレル学派の自由な解釈のどちらをイエスが取るかということで、ファリサイ派の人々はイエスに論争をしかけたのです。
- イエスの答えは、弟子たちにとっても驚きそのものでした。神の人間創造に触れて、神が人を男と女に造られた。だから、「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と。これが神の定めだと、イエスは言われたというのです。
- イエスは、「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない」と答えています。
- そして9節で、「不法な結婚でないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる」と言われたというのです。
- マタイによる福音書では、このようなイエスの言葉に弟子たちは、それなら結婚しない方がましだと言ったというのです。そして、11節12節で、結婚についての神の定めは、「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである」と言い、生まれつき結婚できない人、当時の宦官のように結婚できないようにされた者、自分から結婚しない者という独身者について語り、「これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」と言ったというのです。
- ルツは、この結婚についてのイエスのきっぱりとした原則を語っているテキストは、「今日注目に値するほどに非現代的であり、時流に逆らっている」と述べています。
- 現代社会は、「一方(では)個々人の実現(独身を貫く人)や新しい形態の同棲を試みることを、そして他方では結婚の困難と高い離婚率を、特徴とする地域的状況の中」にあるからと言うのです。
- 私は結婚式で、今日のマタイによる福音書のイエスの言葉を用いています。誓約の時に、この言葉を読みます。男と女という性差については問題があるかも知れません。同性愛者同士の結婚式はしていませんので。その時は男と女といういい方は避けるかも知れませんが。
- 中には、教会での結婚式で神の前における誓約よりもお互いの約束を重んじる場合があるようです。お互いに結婚への誓いを言い合って、その二人の誓約が祝福されるようにということではないかと思います。しかし、私は、今はほとんど結婚式をしていませんが、結婚式を司式する場合には、この神の定めを語っています。
- バークレーはイエスのこの言葉は結婚の原則で律法ではないと言います。神の定めを信じて結婚した二人が、その共同生活の中でどうしても別れざるを得ないということもあり得るでしょう。その時、神の創造に基づくイエスの結婚観が律法のようにその二人を裁くものではないと、バークレーは言っているのです。
- その際バークレーは、結婚についてのイエスの言葉を結婚の原理と言っているのですが、ルツは「私は、結婚をキリスト教的な原理として祝福するのではなく、それを愛の卓越しかつ抜群の道具として理解したい」と言っています。「長い間にわたって~それゆえ信頼性へと向かって~結ばれた一回限りの結婚は今日まだ、あるいは再び、愛のそのような抜群の道具であり得ようか」と問うています。そして、「私見によれば、(現代のような)完全にオープンとなった社会において不確かにされた~伝統に忠実な、あるいはほとんど無制限に順応に応じる~教会に対して新約聖書から提起された批判的な問いがここにある。」と述べています。
- つまり現代社会の結婚については、教会は、通用しなくなった伝統を忠実に守るか、逆に完全にオープンとなった社会にほとんど無制限に順応するか、どちらかであるが、そのような教会に対して新約聖書が批判的に問うているといのです。
- 私はボンフェッファーに倣って、結婚はカップルの互いの愛、好意がなければ成立しないが、愛と好意があるから成立するものではない。結婚には神の定めがあるのだ。その神の定めを謙虚に受け入れるカップルの信仰が結婚には本当に大切なのだという主旨の結婚観を大切にしています。
- そのことは、神のみ心は何かを問いつつ、結婚する二人が、結婚をそれぞれ自分の与えられた道として、自分が選んでいくということではないかと思います。
- これは結婚に限ったことではありません。結婚・離婚・独身、どれを選ぶにしても、選ばされるにしても、同じではないでしょうか。そのすべては、私たち一人一人が、それが例え選ばされたものであっても、神の御心を問いつつ、これが自分の道だと決断して生きていくことではないでしょうか。自分で主体的に選んでいく上で、神の御心を問うことを大切にしていきたいと思います。
- それと共に、一人一人を大切にしつつ、「愛の卓越しかつ抜群の道具」として、「長い間にわたって~それゆえ信頼性へと向かって~結ばれた一回限りの結婚」の豊かさを見失ってはならないと思います。
祈ります。
神さま、今日も船越教会に集まって、共に礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。今日はマタイ福音書の離婚問答を通して、男女の関係である、一対一の対の関係について考えさせられました。あなたは私たちを男と女に創り、互いに愛し合うことによってあなたの愛を私たちを通して表わそうとされています。しかし、その期待に私たちは逆らうことが多い者です。神さま、どうか私たちに互いを受け入れ合って共に自由に生きる力を与えてください。そのことを通して、奪い合いによる争いではなく、和解による平和を、一対一関係の中でも生み出していけますように、私たち一人一人を導いてください。
コロナの感染が広がりつつありますが、感染を防ぐ道へを私たちを導いてください。
今日礼拝に集うことができませんでした、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン
⑩ 讃 美 歌 102(全き愛与える主よ)を歌いましょう(各自歌う)。
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-102.htm
⑪ 献 金
(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)
⑫ 頌 栄 28(各自歌う)
讃美歌21 28(み栄えあれや) https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。