なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(87)

7月26(日)聖霊降臨節第9主日礼拝(通常10:30開始)

 

(注)讃美歌はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

 

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

                           (ローマ5:5)

 

③ 讃 美 歌  152(みめぐみふかき主に) http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-152.htm

⓸ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

 

⑤ 交 読 文  詩編96編7-13節(讃美歌交読詩編106頁)

        (当該箇所を黙読する) 

 

⑥ 聖  書  マタイによる福音書19章13-30節(新約37頁)

        (当該箇所を黙読する)

 

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

 

⑧ 讃 美 歌   505(歩ませてください) http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-505.htm

説教 「不思議な雇い主」 北村慈郎牧師

祈祷

 

  • 現在新型コロナウイリス感染拡大で、派遣・契約社員の解雇によって失業者が増えていますが、2008年の暮れには、リーマンショックでやはり沢山の派遣・契約社員が解雇されて、東京の日比谷公園派遣村ができたことはみなさんご存知のとおりです。日比谷公園派遣村の代表は湯浅誠さんという人でした。路上に投げ出された人たちへの炊き出しなどによる支援の運動です。今回のコロナウイリスの問題でも同じようなことが起こりつつあります。今回のコロナウイリスによる経済活動の停滞は、リーマンショック以上の経済的打撃を私たちに与えるのではないかと言う人もいます。
  •  
  • 現在の日本のような社会は、ある程度セイフティーネットがありますので、失業者が即路上生活者(野宿を余儀なくされる人)になるというわけではありません。それでも今回のコロナの問題で相当数の人たちが路上生活者にならざるをえない状況ではないかと思われます。

 

  • リーマンショックの2008年の年末年始に行われた寿の越冬活動の炊き出しには、当時通常500人から多くて600人なのに、1,000人以上の人が並びました。今年の越冬活動の炊き出しにも、いつもより多くの人が並ぶのではないかと思われます。

 

  • 働いていた会社を解雇され、再就職できないで、病気や高齢でなく、働くことのできる人で、財産や援助してくれる人がない場合は、日雇い労働によって生き延びる他道はありません。それもない場合には、路上生活者にならざるを得ません。

 

  • 日雇労働を得るためには、今は個人が派遣会社と契約して得る道がありますが、1980年代中頃までは、寿や山谷や釜ヶ崎のような寄せ場の労働センターの窓口か、非公式な形ですが手配師を通して以外にはありませんでした。

 

  • 今日のマタイによる福音書の記事は、新共同訳聖書では「『ぶどう園の労働者』のたとえ」という表題になっていますが、ぶどう園の労働者の多くは日雇い労働者です。そしてこの譬えでは、ぶどう園の労働者として日雇い労働者を雇うぶどう園の主人の振る舞いが譬えの主旋律と言ってもよいでしょう。

 

  • こういう譬えの雇用主のような人が、現在でも企業の経営者であればいいのですが・・・。

 

  • これは、ぶどう園の労働者とぶどう園の主人の話です。そして、このぶどう園の主人は、一日一デナリオンの約束で労働者を雇います。この一デナリオンは,当時のローマの雇用兵の一日の給与だと言われています。それがあると、数名の家族がその日飢えずに生活できるという額とされています。

 

  • この譬えを、順を追って見ておきたいと思いますが、このぶどう園の主人は、「夜明けに広場に出かけて行き」、その日仕事につきたいと朝集まっていた労働者を自分のぶどう園に送ります。

 

  • これは、寿に関わっている方はご存知だと思いますが、寄せ場の場合には、日雇い労働者が朝早くセンターの職安の求人に応募して、その仕事が決まれば、その日の仕事に散って行くわけです。仕事にあぶれた場合には、その日の仕事につくことは出来ませんので、どこかでぶらぶらせざるを得ないわけです。

 

  • エスの時代におきましては、こういう状況がエルサレムのような大きな都市にはあったとされています。ガリラヤのような地方都市の場合には、大体が村や町の中で縁戚関係、地縁関係の中で、みんな生きていったと思われます。一人一人が浮浪するような形で、仕事を求めてゆくということは、小さな村や町ではほとんどなかったでしょう。

 

  • しかしエルサレムのような大きな町では、自分の村や町で生きていけなくなった人たちが集まっていて、そこで、収穫の時にはたくさんの働き人を必要とするぶどう園のような季節労働者として、仕事を得て働くという状況があったようです。多分そういう状況がこの譬えの背後にはあると思われます。

 

  • 夜明けに行って、その時いた労働者をぶどう園に行かせたのに続いて、9時頃同じ広場にこの主人は行きますと、「何もしないで広場に立っている人々がいましたので」、「あなたがたもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と言って、彼らもぶどう園に送ります。

 

  • 続けて12時頃と3時頃にも、主人が広場に行ってみると、その日の仕事にあぶれた人たちがいたので、前と同じように自分のぶどう園に送りました。さらに夕方5時頃にも同じ広場に行ってみると、ほかの人々が立っていたので、「なぜ、何もしないで一日中ここに立っていたのですか」と尋ねると、彼らは『だれも雇ってくれないのです』と言った。すると主人は、『あんたたちもぶどう園に行きなさい』と言った」というのです。その時間はもうすぐその日の仕事が終わる頃です。でもその主人はその人たちを自分のぶどう園に雇いました。

 

  • このようにその日の仕事を終えて、労働者に賃金が支払われる時になりました。その主人のぶどう園に働いた人たちは働きはじめた時間がまちまちでした。当然日雇い労働者たちは、その日の賃金が支払われる時には、それぞれ違った金額をもらうものと思っていたに違いありません。ところが、このぶどう園の主人は、監督に、「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始め、最初に来た者まで順に賃金を払ってやるように」と言って、支払わせました。この譬えにありますように、みんなは、一デナリオンずつ受け取りました。

 

  • 現代の生活では、朝早くから働いた人と夕方の一時間しか働かなかった人とが同じ賃金をもらうということは考えられません。もしそういうことがあるとするならば、当然問題になるでしょう。雇い主は訴えられると思います。もし一時間で一日分の給料をもらったとするならば、10時間働いた人は、10倍もらえるはずです。それが自然な社会の約束事です。

 

  • ところが、このぶどう園の主人にとっては、ぶどう園に雇った労働者はみんな同じ価値の人たちです。ですから、たまたま働いた時間はそれぞれ違いますが、一日一デナリオンという約束した賃金は、朝早くから働いた人にも、夕方近くから働いた人にも同じように監督に支払わせたのです。主人の行為は、きわめて一貫したものであります。

 

  • エスは、この譬えによって、神にあっては、私たち人間は一人一人、たとえば朝早くから働いた人も、夕方からしか働けない人も、これを人間の能力とか、賜物の違いとか、年齢の違いとか、環境の違いとか、さまざまな違いに置き換えて考えたときに、そういうものによって人と人との間に格差ができるのは、神の前にはあり得ないと言っているのです。

 

  • つまり、すべての人間は神の前ではみな等価であることを、一デナリオンの存在であることを示しているのだと思います。これは大変重要な点ではないかと思います。

 

  • 中には、最後の一時間しか働かなくて、一日分の給料である一デナリオンをもらえたのは、その日雇い労働者は一時間で、早朝から働いていた人と同じ仕事をしたのだという解釈もあります。しかし、ぶどう園の労働は単純肉体労働でしたから、このぶどう園の雇い主は、現代で言う能力給で支払ったのだというわけにはいきません。むしろ逆で、夕方近くまであぶれていた人は、体に障がいをもっていて、肉体労働をするには他の人より劣っていたので、夕方まで雇われなかったという風に考える方が、当時の社会の実体に近いのではないでしょうか。

 

  • この主人の価値観は、この世の価値観からすると不公平です。しかし、一人一人の命を大切にする者は、貧しさのゆえに、あるいは仕事にあぶれてしまって、その日の暮らしが成り立たないで、何も食べないで一晩をあかす家族の痛みを放置できません。一人一人の命はみな等しいのです。朝早くから働いた人とその家族と一時間しか働けなかった人とその家族は、命を生きるということにおいては同じなのです。この主人は、そのことに注目しているのです。命を与えられてその日一日を生きる一人一人は、みな一デナリオンを受け取ることができる等しい者たちなのです。

 

  • 夜明けに最初に雇われた人が言った不平は、一見もっともなように思われます。価値を何に見るかということです。この不平を言った人たちは、労働時間の多さ少なさを基準にその支払われる報酬の量の違いがあるのは正当なことであるという前提に立っています。何ができたのか、どれだけしたのかという行為の結果を量で計る見方です。これは人間が商品として見られていることを意味します。この不平を言った労働者はいつの間にかそういう見方を持ってしまったのだと思います。

 

  • しかし、自分は朝早くから雇われて一デナリオンもらえるかもしれないけれど、夕方5時から雇われた人が、もしその十分の一しかもらえなかったとしたならば、その人の家族はどうなるのか。自分と同じ日雇い労働者の家族でありながら、ひもじさを抱えてその夜を過ごさなければなりません。このような他者への気遣いは、同じ日雇い労働者の立場にありながら、労働の多さ少なさによって賃金を計ろうとする彼の目には。残念ながら入って来ません。

 

  • しかし。このことは非常に重要なことでないでしょうか。人間を商品として見る見方からすれば、ハンディキャップをもって生まれてきた人、途中で何かの事故でそうなった人、病気の人、赤ちゃん、若い時のような仕事ができなくなった老人、精神的な病気を抱えている人などの場合、どうなるかは一目瞭然です。また、たとえ同じ商品としての価値を持っていても、危険だとか、何か起こったら厄介だとかという雇う側の価値判断によって、この人は雇われて、あの人は雇われないということも起こります。

 

  • その人の出自による場合もあります。たとえば被差別部落出身者や在日韓国人朝鮮人外国人労働者の場合のようにです。また、男と女の性の違いによっても、差別される可能性があります。その人間に商品的価値があるかどうかを判断する際には、その人を雇う側により大きな力があります。古代社会では、現代の社会のように労働組合もありませんでした。男女雇用機会均等法ができる社会的環境もありませでした。労働者は一方的に雇い主の側に依存していたのです。

 

  • この譬えでは、不平を言った連中の一人に主人は、「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。私は最後の者にもあなたと同じように支払ってやりたいのだ、自分のものを自分がしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」(13-15節)と言いました。

 

  • この「自分の分を受け取って帰りなさい。私は最後の者にもあなたと同じように支払ってやりたいのだ」という主人の言葉に注目したいと思います。自分と最後の者との違いを主張する人に対して、主人は、「あなたと同じように」と言われているのです。この主人の言葉は、大変重いと思います。いろいろ違いをもった者同士が、その違いをもったままで「等価」な存在であるということです。

 

  • この主人の価値観はこの世の価値観からすると不公平です。しかし、一人一人の命にふれる者は、貧しさのゆえに、あるいは仕事をあぶれてしまってその日の暮らしが成り立たないゆえに、何も食べないで、一晩明かす家族の痛みを放置できません。一人一人の命はみな等しいのです。朝早くから働いた人の家族も、一時間しか働けなかった人とその家族も、命を生きるということにおいては同じです。この主人は、そのことに注目しているのです。一人一人は皆一デナリオンを受け取ることができる等しい者たちなのです。

 

  • この譬えの主人を通して示されています、わたしたちに注がれているこのような神の眼差しを見失ってはならないと思います。私たちは富める者が中心になっているこの世の論理に従って生きるのではなく、この神の眼差しに従って生きていきたいと思います。

 

  • この神の眼差しを大切するとき、私たち自身も、様々な事情で経済的に困窮し、その日の暮らしにも事欠く人々を追いやって、自分だけが豊かに生きられればいいのだという抑圧者に迎合する生き方から解放されるのではないでしょか。そして誰一人その日の暮らしに事欠くことがない、神の国を反映する豊かな社会で皆が生きられることを願い求める人として生きるように変えられるのではないでしょうか。

 

  • この「『ぶどう園の労働者』のたとえ」はそのことを私たちに語っているのではないでしょうか。

祈ります。

   神さま、今日も船越教会に集まって、共に礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。今日は「『ぶどう園の労働者』のたとえ」を通して、どのような神の眼差しが私たちに注がれているのかを示されました。朝早くからぶどう園で働くことができた労働者も、夕方5時からしか働くことができなかった労働者も、主人から皆一緒の一デナリオンの賃金を得て、その日飢えで苦しむことなく生きることができました。あなたは命あるすべての人が、そのように生きることができることを望み、そういう神の国にふさわしい社会を創造しようとしておられます。どうか私たちの社会が誰一人飢えることのない、あなたの眼差しにふさわしい社会となりますように。私たち一人一人も、そのあなたの眼差しにふさわしい生き方をすることができますように、お導きください。

 今日も礼拝に集うことができませんでした、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。   

 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  

 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。   アーメン

⑩ 讃 美 歌   563(ここに私はいます) http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-563.htm

⑪ 献  金  (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)

  讃美歌21 28(み栄えあれや)

   https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

 

  •  これで礼拝は終わります。