なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(93)

9月13(日)聖霊降臨節第16主日礼拝(通常10:30開始)

 

(注)讃美歌はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

                           (ローマ5:5)

③ 讃 美 歌  224(われらの神、くすしき主よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-224.htm
④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編65編6-14節(讃美歌交読詩編68頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  マタイによる福音書21章33-46節(新約42頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌 529(主よ、わが身を)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-529.htm

説教 「さまたげ」 北村慈郎牧師

祈祷 

 

 今日の「ぶどう園と農夫」のたとえは、その前に置かれた21章28-32節の「兄と弟の譬え」と同じように、神に選ばれた民、イスラエルとしてのユダヤ人の責任を問うたもので、二つは一対をなしています。

 「兄と弟の譬え」では、兄はユダヤ人を指し、弟が異邦人を指しています。そして兄は「ぶどう園に行って働いてくれ」という父の頼みに、口では「参ります」と言いましたが、実際には行きませんでした。結局兄は父に従いませんでした。ところが弟は、はじめ「いやです」と言いますが、あとから心を変えて、出かけました。弟は父に従ったのです。

  これは、不従順なユダヤ人が棄てられることと、従順によって異邦人が選ばれることを示しています。

  今日の譬えも「兄と弟の譬え」と同じことを語っています。ここでぶどう園の所有者、主人は神です。ぶどう園は世界、そしてこれを貸した農夫たちが選ばれたイスラエルユダヤ人です。僕たちは預言者たちのことであり、主人の子とはイエスご自身を指しています。「そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうし出して殺してしまった」(39節)とは、イエスの十字架の処刑を意味すると解釈されます。

  この譬えの中のユダヤ人を表す「農夫たち」は、「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(43節)と言われています。これは「兄と弟の譬え」と同じように、不従順なユダヤ人は棄てられ、従順によって異邦人が選ばれることを示しています。この43節の言葉はマタイによる福音書にだけある言葉で、並行記事のマルコによる福音書ルカによる福音書にはありません。

  ですから、マタイによる福音書には明らかに、イスラエルユダヤ人がイエスを十字架にかけた、そのために神によって棄てられたのだという考え方があります。このユダヤ人がイエスを十字架にかけたということが、後のヨーロッパの歴史の中でキリスト教反ユダヤ主義を生み出したと言えます。特にヒットラーのナチズムによるユダヤ人虐殺にも、このキリスト教反ユダヤ主義の影響があると言えるのではないかと思われます。

  聖書に書かれているから全てが真理だという、聖書の読み方をしますと、キリスト教反ユダヤ主義を正当化せざるを得ません。その結果ユダヤ人差別が温存されることになります。それは大変恐ろしいことです。

  以上は、マタイ福音書の今日の物語が、マタイ福音書の記者とその読者によって、このように解釈されたであろうということです。けれども、私たちは、このマタイによる福音書の「ぶどう園と農夫」のたとえを、ユダヤ人と異邦人という文脈によってではなく、私たち自身に語られているものとして聞きたいと思います。

  この譬えによれば、私たちが生きているこの世界は神のぶどう園であって、私たち人間はそのぶどう園を貸与されて、そこで働く労働者です。ですから、この世界は神の創造の世界であって、誰も神に変わってこの世界の主人になることは許されません。

  しかし、この譬えに出てくる農夫たちは、主人が収穫を受け取るために農夫たちのところに送った僕を殺してしまいます。跡取りの息子も殺して、ぶどう園を自分たちの所有物にしてしまいます。

  この農夫たちの振る舞いは、現代の社会における人間の振る舞いでもあるのではないでしょうか。この世界は神のものでありますが、人間がいつのまにか横取りして、人間中心の国、人間が主人となった文化や産業が横行しています。この世界はいつのまにか「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように」(ローマ11:36)ということがなくなってしまいました。この世を支配した「彼ら(人間)は腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていない」(フィリピ3:19)からです。

  このような振る舞いの人間は、この譬えの農夫たちのように神によって貸与された世界であるぶどう園を私物化しているのです。神の主権を横取りして、自らが世界を支配するようになった人間は、権力を持ち財力を持った強者の欲望が支配する世界にこの神の貸与された世界を貶めています。

  この神に代わって、人間が世界の支配者になっているかに見える、この世界の現実をジャン・バニエは、このように語っています。少し長くなりますが、聞いてみましょう。

  「この世界は、驚くほど不平等で、暴力や、憎しみに満ちています。イエスは、・・・・・わたしたちの世界を思って泣かれます。

  (バニエは、驚くほど不平等で、暴力や、憎しみに満ちている今日の世界の現実を思って、イエスは泣いていると言うのです。そのような世界にしているのは私たち自身ですから、私たちがイエスを泣かせている、と言えます。)

  /イエスは、わたしたちに平和をもたらし、人類が一つの体になるように望まれ、そのためにやってきました。そうなれば、各々の人が自分のいる場を見出せるのです。しかし、わたしたちは、この地を、まったくべつのものにしてしまいました。国と国、民族どうしで、さまざまな宗教間で、社会階級間で競い、争いの場にしてしまったのです。

  (日本の今の社会だけを見ても、居場所を失って苦しみ、悲しんでいる人がどれだけいるか。各々の人が自分のいる場を見出すことができ、それぞれが手であり、足であり、目であり、口であるような一つの身体の肢体として、人類が、だれも除外されずに、みんなで一つの体を構成している。そのようなイエスが私たちにもたらした平和な世界とは、残念ながら私たちは今、憎しみによる分断と、核戦争による恐怖におびえる別の世界をつくり、そこで生きているのではないでしょうか。)

  バニエの言葉を聞きましょう。

  /そうです。わたしたちの地は、暴力の場となってしまいました。自己防御の名の下に、各自が自分を防御し、自分たちの家族、階級、宗教、国を守ろうとします。核兵器、戦車、機関銃は、一人ひとりが持つ、見えない武器の見える徴です。誰もがもっており、他者から威圧を感じたとき、直ちに反応して動き出すものです。わたしたちは、蔑まれ、軽んじられ、不当な扱いを受ければ耐えられず、このようなことを驚くほど恐れています。

  /創世記で、神はノアを呼び出された、と記述されています。そのときと同様の暴力が今日もあり、同じ憎しみが見られます。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを、心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」(創世記6:5-6)。

  /・・・/そして、その先には、このように書かれています。「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者は、この地で堕落の道を歩んでいた」(創世記6:11)。

  /歴史には、同じような暴力が、繰り返し見られます。世々にわたる憎しみの反復は、わたしたちの恐れや、傷つけられやすさから生じているのです。

  /わたしたちが暴力的であるというのなら、それは、何よりもわたしたちが、傷つけられやすいからです。暴力は、無理解、見捨てられること、愛の欠如に対する傷ついた心の返答だからです。わたしたちが、愛されなかったり、見捨てられたりするや否や、傷が開き、それがわたしたちを苦しめます。そこに、あらゆる防御システムが展開されます。

  /・・・・/そして、そのことを、神はご存じなのです。

  /それで、暴力で破壊された地上に、自己防衛をする必要のない場、平和で、愛と「親しくひとつになる交わり」の場、一人ひとりが自分の弱さと、脆さと、傷つきやすさをもったままで迎えられる場を、再び、創り出すよう、神は人々を呼ばれるのです。

  /教会は、いたるところに存在すしなければなりません。しかし、教会は、生身の男女で創られ、そこにも権力と暴力の歴史が読み取れます。教会の真っ只中で、教会が崩れるままにならないよう、教会が本来の姿に戻るよう、絶えず働かなければなりません。

  /・・・・/神は絶えず、その人固有の道において、固有な賜物を備え、一人ひとりを呼ばれます。戦争に対して平和を、憎しみに対して愛を、分裂に対して一致をもって、また、追いやるのでなく迎え入れることによって、ノアのように、愛のコミュニティーを、自分の立場から、各自が、それぞれのラルシュ(箱舟)を、創るよう神は呼ばれるのです。

  /わたしたちのうちにある神のこの呼びかけに、耳を傾けられるよう、イエスに助けを願いましょう。」

  以上が長くなりましたが、バニエの言葉です。

  今日のマタイ福音書の個所に、イエスが「聖書(旧約聖書)にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか」と言って引用した「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」が出ています(マタイ21:42)。

  マタイ福音書の文脈では、先ほども言いましたように、この言葉は、「神の国は、神の選ばれた民であるイスラエルユダヤ人から取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族である異邦人に与えられる」ということになります(43節)。

  けれども、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」というのは、人々によって捨てられ、殺されたイエスが隅の親石となって新しい家が建てられたことを意味します。そのイエスを隅の親石として建てられ新しい家とは、バニエが言う「暴力で破壊された地上に、自己防衛をする必要のない場、平和で、愛と『親しくひとつになる交わり』の場、一人ひとりが自分の弱さと、脆さと、傷つきやすさをもったままで迎えられる場」ではないでしょか。

  そして、その家をイエスと共に建てていくようにと、神は私たちを招いているのです。

  「神は絶えず、その人固有の道において、固有な賜物を備え、一人ひとりを呼ばれます。戦争に対して平和を、憎しみに対して愛を、分裂に対して一致をもって、また、追いやるのでなく迎え入れることによって、ノアのように、愛のコミュニティーを、自分の立場から、各自が、それぞれのラルシュ(箱舟)を、創るよう神は呼ばれるのです。

  /わたしたちのうちにある神のこの呼びかけに、耳を傾けられるよう、イエスに助けを願いましょう。」

  このバニエの言葉を、私たちの心の深くで受け止めたいと思います。

  • 祈ります。
  • 神さま、今日も船越教会に集まって、共に礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、今世界は再び戦後の冷戦時代に戻るかのように、覇権主義的な国家であるアメリカと中国の対立が顕在化しています。日本政府はアメリカとの軍事同盟を強化して、軍事的にはアメリアと一体化の道を選んでいます。
  • 神さま、剣をとる者は剣によって滅びます。私たちの国は一度その経験をしました。そこで二度と再び同じ過ちを繰り返さないことを誓いました。けれども、今の日本の国には武器に頼る危うさを感じます。どうかもう一度あの誓いを想い起させてください。そして、「戦争に対して平和を、憎しみに対して愛を、分裂に対して一致をもって、また、追いやるのでなく迎え入れることによって、」互いの尊厳を認め合って、共に生きる世界を創ることができるように、私たちにその命の力を与えてください。
  • 私たちの船越教会が、また各地にある教会が、イエスの平和を創造する起点となることができますように、あなたの豊かな導きをお与えください。
  • 今日も礼拝に集うことができませんでした、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

⑩ 讃 美 歌   418(キリストのしもべたちよ)

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う) 

⑬ 祝  祷

 主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      ⑭ 黙  祷(各自)

  •  これで礼拝は終わります。