なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(96)

10月11(日)聖霊降臨節第20主日礼拝(通常10:30開始)

 (注)讃美歌はインターネットでHさんが検索してくれました。

 ⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

 ② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃 美 歌   11(感謝にみちて)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-011.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

 ⑤ 交 読 文  詩編65編2-5節 (讃美歌交読詩編68頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  マタイによる福音書22章23-33節(新約43頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

 ⑧ 讃 美 歌 424(美しい大地は)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-424.htm

説教 「生ける者の神」 北村慈郎牧師

祈祷

 イエス時代のユダヤ教には、三つのグループがありました。ファリサイ派サドカイ派エッセネ派です。

  ファリサイ派は、私たち人間がいかに生きるか、その道を定めた神の律法(トーラー)を大切にして生活していました民衆の指導者のような立場にありました。そしてユダヤの町や村にありました会堂(シナゴーグ)を中心に活動していたと考えられます。福音書ではイエスの敵対者のように描かれていますが、イエス時代のユダヤでは大変尊敬されていた人々でした。

  サドカイ派は祭司階級でエルサレム神殿に仕える祭司たちです。ファリサイ派の人たちよりも,サドカイ派の人たちの方か、経済的にも豊かでより宗教家に見られたのではないかと思われます。何と言ってもエルサレム神殿ユダヤ教の中心です。エルサレム神殿を治める大祭司がユダヤの国の宗教的・政治的な自治機関であるサンヘドリン(ユダヤ議会)の議長もしていました。ですから、エルサレム神殿に仕えるサドカイ派の祭司たちの方が民衆の指導者であるファリサイ派の人たちよりも、より権力に近い存在に見られたに違いありません。

  エッセネ派は律法を厳格に守って共同生活をしていたさまざまなグループで、その中には死海文書を記したクムラン教団も含まれます。後の修道院のように考えてよいかと思います。

  今日のマタイのよる福音書の箇所に登場しているのは、サドカイ派です。復活についての問答がなされていますが、サドカイ派の人たちは復活否定論者です。一方ファリサイ派の人たちは復活肯定論者です。復活などないというサドカイ派の人々が、イエスに復活論争を挑んでいるのが今日の箇所です。サドカイ派が問題にした復活は死後の人間の復活です。

  ここでサドカイ派の人たちがイエスに尋ねている質問の内容は、今私たちが読みますと、屁理屈に過ぎないように思われるかも知れません。しかし、これは古代の人々の中で行なわれていましたレビラト婚が背景にあります。寡婦が死亡した夫の兄弟と結婚する慣習です。レビラトは、ラテン語で夫の兄弟を意味するレウィルに由来します。このレビラト婚をサドカイ派の人たちは引き合いに出して、イエスに質問しているのです。

  「ある人が、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」というこの掟を根拠にして、サドカイ派の人たちは、ここで7人兄弟の話を持ち出したのです。長男が死んで、その妻が次男と結婚します。しかし次男も三男も、次々に死んでしまい、子どもが与えられないまま7人の兄弟の妻になったこの女の人も、その後死んだら、復活した時にこの女性は誰の妻なのかというのです。

  無理に作った話だと思いますが、そこには何とかイエスをやっつけたいというサドカイ派の人々の非情な胸のうちが見えます。

  そのサドカイ派の人たちの悪意に満ちた質問に対して、イエスはお答えになりました。イエスは先ず、サドカイ派の人たちの思い違いを指摘します。そしてその思い違いは、サドカイ派の人たちが、ヘブライ語聖書で旧約聖書を意味する「聖書も神の力も知らないから」(29節)だと言われます。

  サドカイ派の人たちは、エルサレム神殿に仕える祭司たちです。彼らは神に仕える人々です。そういうサドカイ派の人々に向かって、イエスは、あなたたちは「聖書も神の力も知らないから」と言われたというのです。

  私は牧師をしています。牧師はある意味で宗教家の一人と言ってよいでしょう。聖書を説き明かし、神について語ります。しかし、サドカイ派の人たちをイエスが「あなたたちは聖書も神の力も知らないから」だと言われたように、そういう私自身が「聖書も神の力も知らない」のではないだろうか、と思わされることがあります。

  『精神分析を受けに来た神の話』という本に自分は神だと思っているゲーブという人物のはっとさせられる言葉があります。「私は、自分が宗教的であることを誇示しながら他の人間に対して有意義なことを何一つしない人間よりも他人の救済に生涯をささげる無神論者を尊敬する」という言葉や、「人がどんな信仰を持とうがそれは問題ではない。問題はその信仰によりその人が何をするかだ」という言葉には、ハッとさせられました。

  聖書を大切にして読み、神を信じていると言いながら、実は聖書の真理も生きた神の力も知らないということがあり得るように思います。気をつけていなければと思っています。

  さて、イエスサドカイ派の人々に、彼らが思い違いをしていると言った後、「復活」についてこのように語っています。「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」(30-32節)と。

  先ず第一にサドカイ派の人たちが、レビラト婚を根拠に7人の男の人と結婚した女の人を例に出した復活の話は、「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」ので思い違いであることを示します。

  第二に「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だ」ということを挙げて、イエスサドカイ派の人たちに答えています。

  この「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だ」というイエスの言葉について、私には恥ずかしい思い出があります。1974年から3年間紅葉坂教会で伝道師をしていたときに、1回だけ婦人会で話をすることになりました。その時、私はこの聖句を中心に、神は死んだ者の神ではないのだから、どこまでも私たちは生きることを考えなければならないということを話しました。

  すると、その婦人会に出ていました私が学んだ東京神学大学の元学長で、当時フェリス女学院の院長をしていて、紅葉坂教会に出席していました桑田秀延先生から呼ばれて、注意されました。「君は、君の話を聞いている婦人達の中には年を重ねて、死と真剣に向き合って生きている人がいることを考えているかね。そのような人がいるところで、神信仰にとって死ぬということが問題ではなく、生きることが問題だと言い切るような話をするのは適切ではないのではないか」と。私にとっては若気のあやまちというか、苦い思い出の一つです。

  今から考えますと、この時私はイエスの言葉を完全に誤って読んでいました。「生きている者の神」を今生きている者の神と読んでしまいましたが、ここでの「生きている者の神」は復活者の神、つまり死を命にかえるよみがえりの神という意味で言われているのです。

  「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という言葉が旧約聖書に出てくるのは、出エジプト記3章のモーセの召命のところです。モーセがエジプトで奴隷を強いられているイスラエルの民を、エジプトから導き出すために、神から召命を受けた箇所です。

  モーセは神の召命に応えて、「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」と神に言います。

  すると神はモーセに言われます 〈「わたしはある。わたしはあるという者だ」(口語訳では「わたしは、有って有る者」)と。そして「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」神は、更に続けてモーセに命じました。イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イザクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえのわたしの名 これこそ、世々にわたしの呼び名〉(出エジプト3:14,15)。

  そして、「さあ、行って、イスラエルの長老たちを集め、言うがよい。『あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主がわたしに現れて、こう言われた。わたしはあなたたちを顧み、あなたたちがエジプトで受けた仕打ちをつぶさに見た。あなたたちを苦しみのエジプトから、・・・乳と蜜の流れる土地へ導き上ろうと決心した』と。彼らはあなたの言葉に従うであろう」(3:16-18)。

  ここで言われている「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」の「アブラハム、イサク、ヤコブ」というイスラエルの先祖は、イスラエルの人々にとっては死んでしまった人ではなく、今も生きている人なのです。アブラハム、イサク、ヤコブによみがえりの命を与えている神が、今イスラエルの人々にモーセを遣わし、彼らを奴隷状態にあるエジプトから導き出そうとしているというのです。

  私たちは歴史について考えるときに、歴史を時間の長さ・短さ、つまり量的時間として考えているのではないでしょうか。今年は戦後75年というようにです。そして、長い想像上の時間軸の真ん中に自分を置いて、その後方に過去を、その前方に未来を考えてしまうのです。過去・現在・未来というようにです。それに対して古代ユダヤ人は、自分をどこか一定ところに置くのではなく、出来事やと場所や時を置いて、自分はこれらの固定点を通過する旅をしているのだと考えました。世界の創造、出エジプトモーセの契約などの聖なる出来事、エルサレム、シナイ、ベテルのような場所、そして祭りのような時と断食や種蒔きの時が、固定点です。個人は、これらの固定点を通り過ぎながら旅をするのです。過去の人々はその人の前にそれらの固定点にいたのであり、その人の前方を、その人に先立って歩んでいました。将来の人々は、その人の後方から、追いかけてやってきます。個人がある固定点、たとえば過ぎ越しの祭りや飢饉の時に至り着くと、同じ性質の時を通過した先祖およびこれから通過するだろう子孫とある意味で同時に存在する者になるのです。その人と先祖と子孫は同じ種類の時を共有するのであり。彼らの間にたまたまどれだけ多くの年月がはさまろうと問題ではありません(以上、ノーラン『キリスト教以前のイエス』-p.123)

  時間を古代ユダヤ人のように考えますと、私にとって連れ合いはその旅を歩み終えて、今は神のもとにありますが、私は今もこの地上で彼女と同じ旅をしている者です。ですから、彼女と同じ時を共有していることになります。そういう意味で、彼女は死んではいません。

 谷川俊太郎が、「世界こそ真に美しいただひとつのものなのだ。僕等は常に生命のもっとも深い流れに気づいていなければならない。そして僕等はその中で生きることによって、初めて満ち足りることの不可能でないことに気づくようになります。」と言っています。

  谷川俊太郎が「生命のもっとも深い流れ」と表現したものは、聖書によれば、何者にも引き離しえないイエス・キリストにおける神の愛であり、死を命にかえる神のよみがえりの力ではないでしょうか。

 そのような神の甦りの命がこの世界の出来事、場所、時間という固定点に現れているのです。そこを旅する私たちは、いつでも、死と滅びの海へと誘うこの世の流れに抗って、天の故郷、神の平和の国へと私たちを導く、神の「生命のもっとも深い流れ」に導かれているのです。

  「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言われたイエスと共に、この神の「生命の最も深い流れ」に与って、与えられた日々を全うしていきたいと思います。そのことによって、富や権力を神とするサタンの国に抗って、誰一人差別・抑圧されない神の国の実現を求めて、私たち一人一人の旅を続けていきたいと願います。

                                       

祈ります。

  • 神さま、今日も船越教会に集まって、共に礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、私たち人間は、聖書が語っていますように、この世では旅人・寄留者であります。この世で偉くなること、富や権力を握ることが、私たちの人生の成功ではありません。私たちはあなたの甦りの命を信じて、あなたの国の住民として、互いに助け合い、支え合い、分かち合い、互いに愛し合うことによって、あなたの愛の証し人として招かれている者です。神さま、どうか、そのあなたの招きに応えて、あなたの愛の証し人としてこの世の旅をつづけることができますように、私たち一人一人をお導きください。そのために「生ける者の神」であるあなたの「生命のもっとも深い流れ」に導いてください。
  • 今日も礼拝に集うことができませんでした、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

⑩ 讃 美 歌 255(生けるものすべて)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-255.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄 21 28(み栄えあれや)(各自歌う) 

 https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

    主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                     

⑭ 黙  祷(各自)

 これで礼拝は終わります。