なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(97)

10月18(日)聖霊降臨節第21主日礼拝(通常10:30開始)

 

(注)讃美歌はインターネットでHさんが検索してくれました。

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃 美 歌   12(とうときわが神よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-012.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

 ⑤ 交 読 文  詩編34編16-23節 (讃美歌交読詩編36頁)

        (当該箇所を黙読する) 

 ⑥ 聖  書  マタイによる福音書22章34-40節(新約44頁)

      (当該箇所を黙読する)

 ⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

 ⑧ 讃 美 歌 481(救いの主イエスの)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-481.htm

説教 「道標」 北村慈郎牧師

祈祷

  先週の日曜日の説教では、死者の復活についてのイエスサドカイ派の人たちの論争の記事についてお話しました。今日は、同じファリサイ派の人々とイエスの論争の記事になりますが、「最も重要な掟」についてから、メッセージを与えられたいと思います。

 今司会者に読んでいただきましたマタイによる福音書の箇所は、マルコによる福音書ルカによる福音書の並行記事を読み比べてみますと、明らかにマルコとルカとは異なっていることが分かります。

  マタイのこの箇所では、34節で、その前のサドカイ派の人々とイエスの論争に触れて、「ファリサイ派の人々は、イエスサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった」(34節)と言われています。この部分はマタイによる福音書だけにしかありません。

  そして「そのうちの一人の律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた」(35節)とあって、「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」とイエスに質問したことになっています。

  そしてその一人の律法の専門家の質問に答えて、イエスが第一に神を愛すること、第二に自分のように隣人を愛すること、この二つの掟に律法全体と預言者は基づいている、と言ったとなっています。

  マタイによる福音書ではこの「最も重要な掟」に関するファリサイ派の人々とイエスの論争は、そこで終わっています。続いて「ダビデの子についての問答」があって、イエスの答えにファリサイ派の人々は、「誰一人、ひと言も言い返すことができず、その日から、もはやあえて(イエスに)質問する者はなかった」(46節)と締め括られています。

  ところが、ルカによる福音書の並行記事には、「律法の専門家」の質問の内容が、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」になっています。そして、イエスが「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読むか」と逆に律法の専門家に問い返します。

  神を愛することと自分のように隣人を愛することであると答えているのは律法の専門家の方です。そして、イエスは、その律法の専門家に「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言われた、となっています。

  マルコによる福音書の並行記事では、マタイによる福音書の記事の後に、律法学者の言葉が付け加わっています。「律法学者はイエスに言った。『先生、おっしゃるとおりです。・・・』」と言って、二つの最も重要な戒めを繰り返します。すると、イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた、となっています。

  つまり、今日のマタイの箇所のルカとマルコの並行記事では、イエスに質問した律法の専門家(律法学者)も最も重要な二つの戒めについては、イエスと同じように考えていることがはっきりと描かれています。けれども、マタイでは質問した律法の専門家について、そこまでは描かれていません。23章1節以下では、律法学者とファリサイ派の人々を非難するイエスの言葉が出てきます。

 マタイによる福音書では、律法学者とファリサイ派の人々とイエスの論争そのものが強調されていて、イエスは彼らと敵対関係にあるような描かれ方をしていいます。これは1世紀末のファリサイ的なユダヤ教とマタイによる福音書の著者やマタイの教会の対立的な状況が反映されているものと考えられます。

  以前紅葉坂教会の牧師時代に、キリスト教入門講座に、クリスチャンでない方が出席していて、その人から、こんな苦言をもらったことがあります。リーマンショックの後だったと思いますが、当時は毎年自殺者が3万人を越えていました。子どもが犠牲となり、若者が難民化しており、仕事を失って路上生活を余儀なくされている人が多くなっている今の日本社会の現実を考えるなら、私の教師退任問題や聖餐の問題を含めて、牧師さんもキリスト教会も論争している場合ではないのではないかと。

  私の免職問題は論争とは違うと思いますが、教団が不当なことをするから、教団と争わざるをえなくなったわけで、そもそも教団が私を免職にしなければ、その争いはなかったわけです。今教会が論争している場合ではないというのは、本当にそうだと思います。そういう意味では、最も重要な掟について、これを論争の具にせず、ファリサイ派の人々も、イエスの弟子である教会の人々も、この掟を生きることに専心するべきなのです。

  第一の戒めは「心を尽くし、精神を尽くし、思いをつくして、あなたの神である主を愛しなさい」です。

  これは十戒の第一戒「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」に通じます。

  愛するということは、大切にすることです。私たちは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして」「あなたの神である主」を大切にしなさいと、呼びかけられているのです。

  イスラエルの民はエジプトで奴隷でした。エジプトではエジプトの王様パロに仕えていたのです。エジプトではそうせざるを得ませんでした。モーセを通してイスラエルの民はエジプトを脱出しました。彼らの信じる神ヤーウェのみに仕え、互いに仕え合い、愛し合う、神との契約の民として再出発したのです。シナイ山における契約締結と十戒の授与が、契約の民としてのイスラエルの再出発です。

  でも、厳しい荒野の生活の中で、飢えに襲われ、エジプトで肉鍋をたべられたことを懐かしく思い起こします。奴隷であったが、エジプトにいればよかったと後悔してしまいます。イスラエルの民は、奇跡的に神によってマナが与えられて、何とか前進していくことができました。

 人間が自立するということは、命の神を心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして愛すること、大切にする」ことではないでしょうか。私が教会を自立と共生の場というのは、この礼拝において私たち一人一人が、イスラエルの神ヤーウェであり、イエスの信じた神と出会い、何よりも神を愛し、大切にする者として、私たち一人一人が立てられることが、人間の自立につながると思うからです。

 そしてイエスと共にその神の下にあって、私たちは自分を愛するように隣人を愛する共生へと招かれていることを信じます。

  最も重要な掟は二つで一つです。コインの表と裏で、表が神を愛することだとすれば、裏は自分のように隣人をあいすることです。

  二番目の自分を愛するように隣人を愛しなさいについて、富田正樹はその著書『信じる気持ち~はじめてのキリスト教~』でこのように書いています。

  「具体的には、たとえば、『人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい』(マタイ7:12)という聖書の言葉も、たいへん参考になります。ただし、この言葉には危険な落とし穴もあります。たとえば、自分が麻薬がほしいと思うなら、他人にも麻薬をすすめなさい、という風にこの言葉を読んでしまったら、たいへんなことになります。人にしてあげることは、自分にとっても本当によいものでなければなりません。つまり、自分にとって何が本当によいものであるかを知っている人が、本当によいものを人に与えることができるのです。そういう意味でも、ちゃんと自分のことを愛せることが、自分以外の人を愛する条件になるのだと言えるでしょう」

  自分にとって本当によいものは何でしょうか。お金が沢山あって、何でも買えて、行きたい所に旅行することができる、セレブな生活でしょうか。新自由主義的な資本主義社会の中で、地球温暖化が進んで、地球の生態系が破壊されて99パーセントの人類が生きられなくなっても、1%の超富裕層の人たちだけは、その財力を生かして生き残れるかもしれません。その超富裕層の中に自分が入ることが、自分にとって本当によいことなのでしょうか。99%の人類が死滅して、1%の人が生き残れて、その中に自分がいたとしても、それが自分にとってほんとうによいことだと思えるでしょうか。

  そのように思える人は、人間として人間というよりも、弱肉強食を是とする動物的な人間ではないでしょうか。

  人間としての人間は、他者の苦しや痛みに無関心でいることはできません。まことの人としてイエスは他者の苦しみいや痛みに無関心でいることはできませんでした。イエスは他者の苦しみや痛みを自分の苦しみ、痛みとして感じ、受け止めたのです。他者と共に苦しみ、他者と共に喜ぶことを、イエスは何よりも大切にされた方です。

  生かされてある命を他者と共に大切に生きることが本当によいのもであると思うなら、自分の命も他者の命も、資本や政治権力によって踏みにじられていることに怒らずにはおれません。私が安保法制の違憲訴訟の原告になったのも、日本の国が再び戦争を犯して人の命を奪ってはならないと思うからです。

  今この時代と社会に生きる私たちにとって、神を愛し、己のごとく隣人を愛する、この最も重要な戒めを生きることによって開かれている道とは、どんな道なのでしょうか。

  今日の船越通信にも書いておきましたが、斎藤幸平著『人新生(ひとしんせい)の「資本論」』を読んで、現在のグローバルな新自由主義的な資本主義社会の中で、その社会の中に包みこまれないで、自律して生きる道があるということを、今まで以上に明確にすることができました。今までも寿での働きや障がい者との共生の道があることはわかっていましたが、その働きが全体社会を変える方向性までは、見通せませんでした。斎藤幸平が示してくれた現代の資本主義に代わる新しい社会の姿は、イエス神の国を反映しているように思われます。「相互扶助と自治に基づいた脱成長コムニズム」と斎藤幸平は言っています。誰が自然の恵みをもらってもよい共有地をもっていた資本主義社会以前の共同体のように、みんながその共同体の構成員で、お互いの間には上限関係はなく、与えられた自然を大切にして、環境破壊もなく、共同体の全員が食べて安心して暮らせるだけの生産をして、それ以上はしないので、貧富の差もその共同体内ではほとんどない、そういう社会です。この社会はまさに十戒を道標として与えられたイすらエルの契約共同体がめざした社会ではないでしょうか。

  斎藤幸平によれば、2010年くらいからはスペインのバルセルナの自治体もこの新しい社会を模索していると言われます。他にもそういう自治体が世界の中で生まれてきているそうです。自治体だけではなく、この新しい社会を目指すアソシエーション、いろいろな組合が世界の各地に生まれているともいわれます。日本の生活協同組合もそれに近いのかもしれませんが、豊かな生活を旗印にしていますので、資本主義を否定しているのか、その辺はよく分かりません。斎藤幸平は持続可能な開発目標(SDGs)を「大衆のアヘン」と批判していますが、生協はSDGsを掲げています。

  私たちは、イエスが最大の掟と言われた「神を愛し、己のごとく隣人を愛する」を道標にして、私たちに与えられた道を発見し、神の国を信じ、その実現に仕えていきたいと願います。そのためにも資本と権力のいいなんりにならされる強制から自由になって、人間としての人間として、自分の足で立って、他者と共に相互扶助と自治による自然との共生社会を築いていきたいと思います。

  主がその道を私たちに切り開いでくださいますように。

 

祈ります。

  • 神さま、今日も船越教会に集まって、共に礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。
  • 今のグローバルな新自由主義的な社会が続き、経済成長を求め続ければ、近い将来に気温の上昇により、私たち人間も動物も植物も、命あるものがこの地球に存在するのが難しくなることが明らかになっています。それでも、資本も多くの国家も、持続可能で自然にも負荷を与えない社会にシフトせず、今のままを追い求めているかに思われます。
  • 神さま、どうか過剰な富を求める人間の驕りを打ち砕いてください。そしてあなたがユダヤ人を選び、あなたとの契約共同体として、あなたを愛し、自分を愛するように隣人を愛することによって、互いに支え合い、助け合い、平和で豊かな生活をすることができる道標を私たちに示してくださったことを、想い起させてください。
  • 教会は、イエスを主として信じる人類共同体であります。どうか教会に連なる私たちが率先してこの破滅に向かっているかに思える現実の社会の中で、人類共同体に繋がる歩みを、与えられたグループを通して、それぞれが属している自治体において、また日本の国においてしていくことができますように、その力を私たちにお与えください。
  • 今経済成長神話に縛られて社会を動かす人々によって、わきに追いやられ、搾取されて苦しむ人々を、あなたが支えてくださいますように。
  • 今日も礼拝に集うことができませんでした、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン
  • ⑩ 讃 美 歌 342(神の霊よ、今くだり)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-342.htm

  • ⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)
  • ⑫ 頌  栄  28(各自歌う) 

 ⑬ 祝  祷

 主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                       

⑭ 黙  祷(各自)

 

これで礼拝は終わります。

 

 

 

                    


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