なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

「神我らと共に」(クリスマス礼拝説教、イザヤ書7章10-14節)

 12月20(日)クリスマス礼拝(10:30開始)

 (注)讃美歌奏楽はインターネットで平井さんが検索してくれました。

 ⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

 ② 招きの言葉 「起きよ、光を放て。あなたを照らす光が昇り、主の栄光あなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。」      (イザヤ書60:1-2)

③ 讃美歌  260(いざ歌え、いざ祝え)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-260.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編46編2-12節(讃美歌交読詩編51頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書   イザヤ書7章10-14節(旧約1071頁)

      (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  271(喜びはむねに)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-271.htm

 説教 「神我らと共に」  北村慈郎牧師

祈祷

  今年は、新型コロナウイリス感染によって世界中が振り回されて、一年が終わろうとしています。日本では、欧米同様、今も第三波の感染拡大に悩まされているところです。そのために仕事を解雇されたり、生活が苦しくなっている人も多くなっています。

  2008年のリーマンショックの時の年末には、日比谷公園派遣村ができて、仕事がなくなり、路上生活を余儀なくされた人々の支援が行われました。今年も同じような支援の活動が行われようとしています。

  そのような厳しい社会情勢のただ中で、私たちはイエスの誕生を祝うクリスマスを迎えています。

  先ほど司会者に読んでいただいたイザヤ書の7章14節の「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」という預言の言葉は、マタイ福音書では、この預言の成就としてイエスが誕生したと言われています。イエスの誕生という出来事が「起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。その名は、「神は我々と共におられる」という意味である」(マタイ1:22,223)と記されている通りです。

  クリスマスは私たちにとって喜びの時であり、クリスマスのおとすれが喜びのおとずれであることは、言うまでもありません。しかし、マタイとルカのイエス誕生物語は、その喜びが安易な喜びでないことを、示しています。

  マタイではユダヤの王ヘロデが、ルカではローマ皇帝アウグストゥスがイエスの誕生と深く関わっていて、どちらもこの地上の権力者です。

  イエスが生まれた場所は家畜小屋であったと言われています。しかも、父ヨセフと母マリアが住んでいたナザレから、ヨセフの生まれ故郷ベツレヘムへの旅の途中でありました。身重のマリアがいながら、ヨセフがなぜ自分の故郷ベツレヘムに行かなければならなかったのでしょうか。それは、ローマ皇帝アウグストの人口調査に従わなければならなかったからです。

  当時ヨセフとマリアの住んでいたユダヤの国はローマ帝国支配下にあって、ローマ帝国の属州となっていたからです。

  ルカはこのように記しています(2:1-4)。≪そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである≫と。

  この住民登録は、ローマ皇帝が属州の人々から税金を徴収するためのものでした。当時の地中海沿岸の地域ではローマ皇帝が最大の権力者でした。ヨセフもマリアも、そのローマ皇帝の命令に逆らうことはできなかったのです。

  ユダヤの国では、ローマ皇帝からユダヤの国の支配を委ねられた王、ヘロデが権力を握っていました。このヘロデは、マタイ福音書のイエス誕生物語の中にあります、東方の博士たち(占星術の学者)の来訪の記事の中で、嬰児虐殺という大変おそろしいことをした王様です。

 マタイはこのように記しています(2:16)。≪さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた≫と。

  力による支配が、私たちにとってどんなに恐ろしいことであるかは、戦前に私たちの先達が経験したことでもあります。特高による弾圧はキリスト教会にも及び、ホーリネス教会の牧師の獄死という悲しい出来事も起こりました。しかも当時の日本基督教団は、その牧師を除名して助けようとはしませんでした。国家の力に屈し、全体として日本基督教団は戦争協力をしてしまったからです。

  今香港の民主化運動を指導した人たちが中国政府の弾圧を受けています。力や権力による支配の恐ろしさは、今も変わりません。

  私たちは、その力や権力とは無関係と言えるでしょうか。豊かさを求めてきた私たちは、自分の子どもをより良い大学に入れて、一流企業に就職させようとしてきたのではないでしょうか。それは、力や権力を持つことによって、安定した生活ができると考えたからに違いありません。

  今は社会そのものが不安定になっていますので、一流大学を出て、一流企業に勤めたからと言って、その人の一生が安定して生活できるとは限りません。だからと言って、私たちの中に力や権力を求める思いがなくなったわけではないでしょう。

  私たちは、ローマ皇帝アウグストゥスヘロデ大王のような無謀な権力者ではないかも知れません。しかし、彼らの中にある権力への志向、自分の地位への執着――それは、私たちと無関係ではありません。私たちの中にもあるのではないでしょうか。そういう意味では、アウグストウスやヘロデは、力や権力を求める私たちを代表している存在に過ぎないのかも知れません。

  イエスが栄光を受けて王に着いた時、一人を右にもう一人を左にと願ったと言われるゼベダイの子ヤコブヨハネは、力と権力に一番近いところに自分たちが座ることを求めました。他の十人の弟子たちも、そのことを聞いて、二人に腹を立てたというのです。そのことは、十人もまた、ヤコブヨハネの二人と同じ願いを持っていたということになります。

  そのような弟子たちに対して、≪イエスは一同を呼び寄せて言われました。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりまさい。人の子は仕えられるためにではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:42-45)と。

  イエスは、力や権力とは正反対の原理に生きるかたとして、その地上の生涯を送られました。ローマとユダヤの権力者によって十字架にかけられて殺される前に、イエスは逮捕されますが、マタイ福音書によれば、「そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。『剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。・・・』・・・」(マタイ26:51,52)と言われて、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言っています。

  「剣を取る者」とは、力を志向する者のことです。そういう者は滅びると、イエスは言われるのです。イエスは、また、「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道は広々として、そこから入る人も多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイ7:13,14)と言って、私たちの前には、「滅びに通じる門」と「命に通じる門」があることを示しています。

  力や権力を志向する者の道は、「決して命にいたる道ではなく、滅びにいたる道だということは、何よりもヘロデその人の生涯が示しています。その手の中に生殺与奪の権を握りながら、彼を日夜さいなんでいたものは、自分の地位が誰か他の者に奪われはしないかという、不安と恐怖心でした。そのために彼は、妻を殺し、自分の子供を三人も殺すという、狂気の状態に陥ったと言われています。そこには恐怖だけがあって、喜びがなく、不安だけがあって、平安がありません。しかしそれは、ヘロデだけではありません。私たちが、ヘロデと同様に、力を原理とし、力の道を歩いている限り、私たちの行く手に広がっている世界も、ヘロデの場合と本質的には別のものではないでしょう」。

  「そのような私たちすべての者の中にイエスが誕生されたということは、どういうことでしょうか。それは、私たちすべての者が歩いているヘロデの道とは別の道が――滅びにいたる道とは別の道が、そこに初めて出現したということです。力の原理とはちがう原理が、そこに初めて示されたということです。布に包まれた幼子イエスは、私たちすべての者が歩んでいる道に対して決定的な疑問符号として――否さらに、私たちすべての者の力を原理としたあり方に対する力強い否定の徴として、そこに横たわっていられるのです」(井上良雄)。

  この幼子イエスこそ、「インマヌエル」(神は我らと共におられる)の君であり、「仕えられるためにではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」人の子なのです。そのイエスの誕生によって、私たちにも、力と権力の道とは根本的に違った「仕え合って生きる」道が与えられていることを覚えたいと思います。

  力がますます勢いをふるって、格差が広がっている現在の世界にあって、私たちの教会は、力以外の原理を知らされた者たちの群れとして、立っていなければなりません。それが、今日私たちがクリスマスのおとずれを聞くということではないでしょうか。

 

(注)今日の説教は、井上良雄さんの説教「ヘロデの道とイエスの道」(『汝ら時を知るゆえに』7-12頁)によるところ大です。

 

祈ります。

  神さま、今日も船越教会に集まって、共に礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。 

 今日はクリスマスの礼拝です。今年はコロナ感染のことがあり、燭火礼拝は中止にしましたので、今日の礼拝以外にクリスマスを祝う集いはありません。今日は、イエス誕生によって、あなたが私たちに、この世全体を覆っているかに思える力の原理とは違う、私たちが生きていく道を与えてくださったことを教えられました。クリスマスを上っ面で祝うのではなく、イエス誕生によって私たちに与えられた、力の原理とは違う道が、すべての人を命に導く道であることを覚えさせてください。そして私たちが、その道を選んで生きていくことができますように、導いてください。 

 今日も礼拝に集うことができませんでした、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。

 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。

 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。

 この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌   356(インマヌエルの主イエスこそ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-356.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。    アーメン 

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。