なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音による説教(107)

1月10(日)降誕節第三主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 ⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。            (ヨハネ3:16)

③ 讃美歌    6(つくりぬしを賛美します)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-006.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編2編1-12節 (讃美歌交読詩編5頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書   マタイによる福音書26章14-25節(新約52頁)

      (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  484(主われを愛す)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-484.htm

 

説教 「裏切り者ユダ」  北村慈郎牧師

祈祷

 

  • 誰も自分の中にあるマイナス(負)の部分、闇の部分を隠しておきたいと思うでしょう。けれども、どうしても隠し切れずに、自分の中にある負の部分・闇の部分が現れてしまうことがあります。そして取り返しのきかない行動に出て、決定的なダメージを受けてしまうのです。イスカリオテのユダは、そのような人物の一人だったのではないでしょうか。

 

 

  • ペトロやアンデレ、ゼベダイの子ヤコブヨハネガリラヤ湖で魚を獲る漁師だったと言われます。彼らは直接イエスに「わたしについて来なさい。人間を獲る漁師にしよう」と呼ばれて、イエスに従って弟子になりました。

 

  • イスカリオテのユダがどのようにしてイエスの弟子になったのかは分かりません。福音書には、イスカリオテのユダがイエスの弟子になった時のことが書かれていないからです。自分からイエスに願い出てイエスの弟子になったのかもしれませんが、たとえそうであっても、彼を弟子としてイエスが選んだのは、他の弟子たちと変わらないでしょう。

 

 

  • 今日の聖書箇所のマタイによる福音書のところでも、十二人と一緒に過ぎ越しの食事の席についていたイエスが、「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言っていますし、「わたしといっしょに手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切ろうとしている」と言っています。

 

 

  • ① 言葉でも業でも非常に偉大であった、できないことがなかったようなイエスが、なんで、そのユダみたいな者をわざわざ十二弟子の一人に選んだのだろうかという疑問です。

 

  • ② そのイエスがまた、ユダが裏切る決意をしたということを、見抜けなかったのかという疑問です。

 

  • ③ もし見抜けていたとしたら、どうしてそれを本当に止めるだけの力がなかったのかという疑問です。

 

  • ④ それから、ユダは一体、なぜイエスについて廻って、仕舞にこういうことになったのだろうかという疑問です。

 

  • このように、イスカリオテのユダの裏切りについては、いろいろ疑問がありますが、彼がイエスの十二弟子の一人であったということは注目に値します。滝沢克己さんは、「十二弟子の一人ということがわざわざことわってあるということは、やっぱり、大事なことだろうと思う」と言って、次のように語っています。

 

  • 「それは、イエスに十二弟子の一人として、選ばれた人が、これからずっと、イエスに従う、或いは立派にやっていくというようなことには、必ずしもならないということです。だから十二弟子は、イエスに直に選ばれたのだという、それを盾にとって、わたしは権威があるといったことは、そう簡単に言えない。十二弟子として選ばれたということはちゃんとあるのに、ユダのように裏切り者になるということが言われているわけですから、直接イエスに選ばれたというようなことは、何もその人を権威づけることにならないということです。

 

  • もちろんイエスが選ぶというときには、これという人を、選んだと思います。しかし、それは最善を尽くして選んでも、選ばれた人がどういうことをするかということを、イエスが決めてしまうという風に力を及ぼすことはできないということです。イエスが選んでも、選ばれた人はイエスに背くという、裏切るということが、イエスを渡すということが、起こり得るということです」。

 

  • このことは、ひとりひとりの人間には、自分から決断し行動する自由が与えられているということではないでしょうか。イスカリオテのユダは、イエスからの招きがあったとしても、自分で決断し、イエスの弟子になったのです。ユダは、イエスの弟子になって、イエスと行動を共にするようになっても、必ずしもイエスと同じ思いを共有していたわけではありません。

 

  • 秋田稔さんは、イスカリオテのユダについてこのように言っています。これは、秋田稔さんの独特なユダ論というのではまりません。よく知られているユダについての見方です。

 

  • イスカリオテのユダは、福音書では、裏切り者そしてあらゆる悪罵の対象となっているが、あるいはイスラエル復興のために手段をえらばない熱烈な愛国者だったのではないかという気がする。彼はイエスに政治的メシア(救い主)を期待した。彼自身の意識では、彼がイエスに裏切られた。むしろ、イエスを敵に売り、引き渡すことこそ、自己の信念に忠実なもののなすべきことと、ここで決断したのかも知れない。人間の信念とか熱情というものは、こういう面をもつ。イエスを殺そうとする祭司長たちも、その意識では宗教的熱心と信念の上でのことだったであろう。一度このような躓きをすると、人の心は石の如くかたくなるのである」(『聖書の思想』180頁)。

 

  • 秋田稔さんは、ユダは自意識では、イエスを裏切ったのではなく、イエスに裏切られたと思ったのではないかと、言っているのです。ユダにとっては、イエスこそ裏切り者なのです。もしかしたら、ユダは、大祭司たちにイエスを売ることによって、イエス自身がイスラエル復興のために政治的メシアとして立ち上がってくれるのではないかと、そこに最後の望みをかけたのでしょうか。その期待が完全に裏切られて、ユダは自死を選んだということなのかも知れません。

 

  • イスカリオテのユダがイエスの弟子でありながらイエスを裏切ったのは、ユダが、イエスを本当には理解できていなかったこと、自分の信念と熱情によって、イエスをはかりにかけて、裁いてしまったことによるのです。その意味で。ユダはイエスに従い、イエスと一つになることができませんでした。

 

  • そのことは、イスカリオテのユダだけではなく、12弟子のすべてに当てはまります。イエスの受難と十字架を前にして、ユダのようにイエスを大祭司たちに売り渡して、裏切りはしなかったかもしれませんが、ペトロはイエスを三度否認し、他の弟子たちも逃げてしまったからです。

 

  • 他の弟子たちは、イスカリオテのユダのように確信犯ではなかったかも知れませんが、イエスを理解できず、イエスに最後まで従い得なかったということでは、ユダの仲間だったに違いありません。

 

  • 生前イエスと行動をともにしながら、イエスの受難と十字架において、弟子たちは皆、裏切り、否み、逃亡してしまいました。イエスは、十字架上でただ一人孤独に耐えながら、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」と叫ばざるを得ませんでした。このイエスと弟子たちとの間にある断絶という厚い壁がある限り、弟子たちは永遠に無理解なまま、イエスと一つになることはできません。

 

  • イスカリオテのユダは、このイエスとの断絶に絶望して、自ら命を絶ってしまいました。イエスはユダの自死を悲しんだことでしょう。イエスは、ユダの裏切りを真っ向から受け止めて、「ユダのような人間は生まれなかった方がよかった」とは言いましたが、ユダの裏切り後も、ユダの立ち返りを願っていたに違いありません。私にはそのように思えます。

 

  • エスは、二人の犯罪人と一緒に十字架にかけられたときに、自分を十字架にかけた人々に対して、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と語ったと言われます。イスカリオテのユダも他の弟子たちも、イエスの受難と十字架を前にして、「自分が何をしているのか知らな」かったのではないでしょうか。

 

  • 「アッバ、父よ」と祈りつつ生きていた生前のイエスは、既に神の霊によって生きる、神の独り子でした。それに対して、イスカリオテのユダをはじめ弟子たちは、イエスと行動を共にしていましたが、生まれながらの自己中心的な肉の人であったのではないでしょうか。霊の人と肉の人の違い、これが、生前のイエスと弟子たちとの根源的な違いだったのではないかと思うのです。

 

  • パウロは、ローマの信徒への手紙8章で、霊の人と肉の人の違いをこのように述べています。

 

  • 「肉の思いに従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊の属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」(5,6節)。

 

  • 「肉の思いは死である」と言われていますように、イスカリオテのユダや他の弟子たちは、「肉の思い」をもって、ユダの場合はイエスを売り渡すという積極的な行動によって、他の弟子たちは否み、逃亡するという消極的な行動によって、イエスの敵対者に加担し、イエスを十字架にかけてしまったのです。

 

  • 私たちが「肉の思い」によって生きているとするならば、今も、イエスを十字架にかけていることに自覚的でなければならないと思います。

 

  • パウロは、先ほどの言葉に続けてこのように語っています。「なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなた方の内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」(ロマ8:7-11)。

 

  • そして更にパウロは、「・・・神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。・・・この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証してくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」(ロマ8:12-17)と語っているのです。

 

  • イスカリオテのユダを反面教師にして、私たちは、肉の思いを捨て、私たちの内にあって私たちを導く神の霊を信じたいと思います。そして「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」と言われていますように、イエスのように「アッバ、父よ」と神に祈る「神の子供」とされていることに、自分自身のアイデンティティーを見出したいと思います。「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です」と言われていますように、神とイエスと私たちは、密接不可分に結ばれているのです。

 

  • もしそうだとするならば、私たちの課題は、最後までキリストであるイエスと共に苦しむことによって、希望をもって「義と平和と喜び」である「神の国」の到来を待ち望むことではないでしょうか。

 

  • エスと共に苦しむことを回避した時に、私たちは、いつでもイエスの敵対者に加担してしまうことを、イスカリオテのユダは、身をもって私たちに語っているように思えてなりません。

 祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。新型コロナウイリス感染拡大が止まりません。そのために、教会で皆が集まってする礼拝はできませんが、このようにメール配信によって共に礼拝にあずかることができ、感謝します。
  • 今日はイスカリオテのユダの裏切りから、あなたのメッセージを聞くことができ、感謝します。私たちの中には、内なるユダがいることを、福音書のユダの物語を読む度に、いつも感じさせられています。信仰を告白して、イエスに従いながら、イエスを裏切ってしまう、肉の弱さから、肉において生きている私たちは完全には自由ではありません。
  • 神さま、どうかそのような私たちに、あなたの霊を注ぎ、肉の思いから私たちを解き放ち、あなたの霊の導きによって生きる私たちにしてください。あなたは、イエスによって、支配することによってではなく、仕えることによって、互いに愛し合うことによって、この世に正義と平和と喜びに満ちた、あなたの支配する神の国をもたらしてくださいました。
  • 私たちが、あなたの霊に導かれた神の子供として、不正と争いと不安に満ちた現実の社会にあって、この神の国のおとすれを証言することができますように、私たちにあなたの命を豊かに注いでください。
  • 神さま、新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌    430(とびらの外に)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-430.htm

 

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

 

これで礼拝は終わります。