なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(110)

1月31降誕節第六主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。            (ヨハネ3:16)

③ 讃美歌    11(感謝に満ちて)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-011.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文    詩編119編9-16節(讃美歌交読詩編131頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  マタイによる福音書26章47-56節(新約54頁)

    (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  377(神はわが砦)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-377.htm

説教 「まるで強盗にでも向うように」  北村慈郎牧師

祈祷

 

  • マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書のイエスの受難の記事は、その筋は大方において共通していますが、細かなところはそれぞれの福音書によって違っています。

 

  • ユダの裏切りとイエス逮捕の場面も、三つの福音書では微妙に違って描かれています。特にイエスの描かれ方が違います。

 

  • マルコによる福音書が一番素朴にイエスを神性化しないで淡々とこの場面を描いているように思われます。ただ他の福音書にはない亜麻布に裸の身をくるんでイエスに従っていた若者が、イエスを捕らえに来た者たちが彼を捕らえようとすると、その若者は亜麻布を捨てて、素っ裸のまま逃げていったという記事が、逮捕の場面の最後に加えられています(マルコ14:51-52)。

 

  • ルカによる福音書は、この逮捕の記事を、余分なところをけずって一番コンパクトにまとめています。ただイエスの描き方は、マタイによる福音書と同じようにイエスの神性を強調しています。ルカはヨハネ福音書とともに右耳と特定していますが、大祭司の僕の耳を切り落とした後に、「するとイエスは答えて言った、『止めよ、そこまでだ』。そしてその僕の耳に触れて、彼を癒した」と記しています。また、最後の若者の逃亡の記述はルカにはなくて、「今は、お前たちの時、闇の支配だ」というイエスの言葉で終わっています。

 

  • マタイによる福音書のこの場面の記述は、マルコによる福音書といくつか際立つ違いがあります。

 

  • 一つは、マルコによる福音書にある亜麻布をまとった若者の記事は、マタイによる福音書にはありません。

 

  • 二つ目は、裏切り者のユダがイエスに接吻した後に、マルコによる福音書にはないイエスの言葉がマタイによる福音書にはあります。「イエスは、『友よ、しようとしていることをするがよい』と言われた」というマタイによる福音書の50節の言葉です。

 

  • 三つ目は、大祭司の僕の耳を切り落とした後の、マタイによる福音書の52節から54節までのところが、マルコによる福音書にはありません。その部分をもう一度読んで見ます。「そこで、イエスは言われた。『剣(つるぎ)をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう』」。

 

  • これは、マタイによる福音書のイエスは、ユダの裏切りと逮捕を神による必然として受け止めていたことを意味します。

 

  • それこそイエスはユダの裏切りも逮捕も、ご自分が受ける受難は神による神の子である自分に与えられた飲むべき杯だと、主体的に受け止めていたということです。自分ではどうしようもないから、弟子の裏切りや受難を、いやいや受け止めざるを得なかったというのではありません。

 

  • このようにユダの裏切りと逮捕の場面におきます、三つの福音書のイエスの描き方は微妙に異なっています。

 

  • けれども三つの福音書が共通しているのは、「強盗にでも向うように、剣や棒を持って」というところです。これはイエスの逮捕の場面です。イエスは彼の敵対者から送られた武装した群集と対面しているのです。彼らは「強盗にでも向うように、剣や棒を持って」イエスのところにやって来ました。「強盗にでも向かうように」と言われていますから、イエスは逮捕され、処刑されるべき犯罪者と見られていたということです。イエスが十字架にかけられた時に、イエスの十字架の左右の十字架にかけられた犯罪者と同じようにです。

 

  • このイエスの逮捕はゲッセマネの祈りの後に起こりました。ゲッセマネの祈りまでは、イエスは能動的に活動していました。3年の間、村から村へ、町から町へと宣べ伝え、人々を教え、病気を癒し、苦しみ悲しんでいる人を慰め、ラザロのように死人を生き返られせもしました。また、偽善者たちとは論争で対決しました。イエスが行くところはどこも、群衆がイエスの話を聞きに集まり、イエスの話を聞いてイエスを称賛し、助けを求めました。イエスは自ら進んであちこちと行動し、弟子たちもそのイエスに従って、どこにでもイエスについていきました。

 

  • しかし、ゲッセマネの祈りで、こうしたイエスの能動的な活動は突如、終わりを迎えました。その場で、弟子の一人によって、苦難を受けるために引き渡されたからです。そして、マタイ福音書26章56節に、「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」と記されていますように、弟子たちもイエスを見捨てて去って行ってしまったのです。これ以後イエスは、ただ一人で、自分からは何もできず、受動的に苦難を受けていくだけです。

 

  • エスは晩年エルサレムに行かず、ガリラヤでの活動に終始すれば受難と十字架を避けることができたかも知れません。以前にお話ししたと思いますが、イエスは、エルサレムに行かずにガリラヤで最後まで活動を続けていたら、もっとたくさんの人が助かったに違いありません。イエスエルサレムに行くことによって、その活動を断念せざるを得なかったのです。

 

  • 福音書によれば、それでもイエスエルサレムに行きました。しかもユダヤ人にとっては宗教的にも政治的にも中心でありましたエルサレム神殿に行って、両替人の台をひっくり返して、神殿批判のパフォーマンスを繰り広げ、神殿崩壊を予告したというのです。そのことは、当時のユダや社会を根柢的に批判したことを意味します。今のユダや社会が滅び、まったく新しいものにならなければ。それが神の意志だと。

 

  • エスがこの世において小さくされている貧しい人、抑圧されている人、忘れられている人を大切にされて、愛されたことは、福音書のイエスの物語が私たちに告げている真実です。では、イエスに敵対したファリサイ人、律法学者や大祭司やピラトのようなこの世の権力者に対して、イエスはどのように関わられたのでしょうか。

 

  • エスはそのような神の御心を隠してしまう人々には、正面から立ち向かいました。そのような人々の偽善や不正を暴きました。

 

  • その結果、自らの受難と死を招くことを知りながら、自らの受難と死をもってでも、権力者との神の下にある真実で豊かな関係に自分をかけていったのではないかと思うのです。そのことによって、イエスは小さくされた人々だけではなく、権力者たちのような人々をも、偽りの衣を脱いで、神に命与えられてひとりの人として神の国に招いているのではないでしょうか。

 

  • 一方権力者たちは、イエスの思いを全く無視して、イエスを抹殺しようと、群衆を遣わしました。群衆は「まるで強盗にでも向うように、剣や棒を持って」イエスを捕まえに来たのです。

 

  • これは、権力者がイエスに暴力で対したことを意味します。その暴力を受動的に全身で受けざるを得なかったのが、イエスの受難です。非暴力抵抗による受難と言えるかも知れません。
  • この世に支配・被支配、抑圧被抑圧、差別・被差別という関係がある限り、そのこの世に神の正義をもたらすイエスの受難と十字架は避けられません。「強盗にでも向うように、剣や棒をもって捕らえにきた」人々と、イエスが向かい合われていることを忘れないようにしたいと思います。

 

  • マイケル・オーランというナウエンの友人が、ナウエンの著作から編集した『ナウエンと福音書を読む』という本があります。その本の「イエスの逮捕」のところで、ナウエはこのように語っています。

 

  • マタイ福音書ではなくヨハネ福音書18章4-8節に基づいてですが、「まさにイエスは受難を引き渡されるとき、ご自分の栄光を顕しました。『誰を捜しているのか。‥‥わたしである』という言葉は、遠い昔のモーセと燃える柴の場面と共鳴します。『わたしはある。わたしはあるという者だ』(出エジプト3:1-6,14参照)。ゲッセマネにおいて、神の栄光が顕れ、人びとは地に倒れました。引き渡されることの中にすでに、私たちに身をまかされた神の栄光が見えます。神の栄光は復活と同様、受難を引き受けたことの中に示されているのです。/‥‥ですから新しい命は、三日目に復活したことだけでなく、すでに受難において、引き渡されることのうちに目に見えるものとなったのです。なぜでしょうか。それは受難において、神の愛の全容が輝き出るからです。それは何にもまして、待ち望む愛であり、支配しない愛です」。

 

  • ナウエンはこのように述べた後に、自分の経験をこのように語っています。「私たちは、いかに周りからなされるままの存在であるかを痛切に感じるとき、気づきもしなかった新しい命に触れるようになります。それは、病んでいる友人と私がいつも話題にした問いでした。病という受難のただ中で、新しい命を味わうことはできるでしょうか。病院のスタッフからなされるままの状態で、すでにそこに備えられた深い愛にきづくことができるでしょうか。それは、すべての治療行為の背後にあって、まだ十二分には味わっていない愛です。ようやく友人と私は、苦難と受難のさなかに、待っていることのただなかですでに、復活を経験できることに気づき始めました」。

 

  • ナウエンはそのように語っているのです。私自身は、「苦難と受難のさなかに」、イエスのように権力の弾圧という形でも、病という形でも置かれた経験はありません。ただ連れ合いの病と死を身近に体験した者として、ナウエンが「ようやく友人と私は、苦難と受難のさなかに、待っていることのただなかですでに、復活を経験できることに気づき始めました」と言っていることに、少しうなずけるようになりました。

 

  • もし苦難と受難のさなかにも、新しい命としての復活を経験できるとするならば、私たちは正義を求めて苦しみを受けることにも、病と死に対しても、ただそれらを忌避するのではなく、真正面から向かい合うことにも、希望が与えられるのではないでしょうか。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。新型コロナウイリス感染拡大が止まりません。そのために、教会で皆が集まってする礼拝はできませんが、このようにメール配信によって共に礼拝にあずかることができ、感謝します。
  • 神さま、私たちすべては「義とされた罪びと」です。他者の暴力によって、苦しみを受け命を奪われる人を生み出さない社会を、未だ私たちは築き得ていません。イエスのように不当な弾圧によって命を奪われる人々が、世界の国々の中には今もいます。また、他者の暴力を恐れて、不正に沈黙を強いられ、それに従っている人も多くいます。真実を明らかにすることによる受難を恐れるからです。私たち自身がその一人かも知れません。神さま、その恐れから私たちを解き放ってください。
  • 恐れと不安が支配する世界ではなく、義と平和と喜びが満ち溢れる世界に、私たちの住むこの世界を変えてください。そのために私たちが少しでも働くことができますようにお導き下さい。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌    392(主の強い御腕よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-392.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

 

これで礼拝は終わります。