なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(113)

2月21日受難節第一主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。

                    (イザヤ書55:6,7a)

③ 讃美歌    18(心を高くあげよ!)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-018.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編91編1-16節(讃美歌交読詩編101頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  マタイによる福音書27章11―26節(新約56頁)

    (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  529(主よ、わが身を)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-529.htm

説教 「イエスの沈黙」  北村慈郎牧師

祈祷

 

「イエスの沈黙」 マタイ27:11-26、2021年2月21日(日)礼拝説教

                

  • 今日のマタイによる福音書の箇所は、ローマ総督ピラトによるイエス尋問の場面です。イエスを裁いているピラトについては、面白い絵があります。ルツがそのマタイ註解書の中で紹介しているものです。下の写真をご覧ください。

 

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  • この絵は、1990年にポーランド人画家ピオトル・ナリワイコのピラト像です。このピラト像の絵にルツはこのようにコメントしています。「・・・水盤が置かれた机の背後に、ワイシャツを着てネクタイを締めたピラトが座っている。彼はちょっとむくんだ姿で、横に流し目をしていて、祝福の仕草をしているかのように両手を半分上げている。ピラトは『それ(祝福)については何もできない』役人、官僚、ブルジョワであり、そして彼の両手を洗って身の潔白を主張する」と。

 

  • ピラトについては、偽善的で自分を正しいとする典型的な人物という見方がありますが、このピオトル・ナリワイコのピラト像は、正にそのようなピラトを現代の人間に置き換えて描いているのです。

 

  • 今日のマタイ福音書の箇所では、祭りの時に一人囚人を釈放する習わしをめぐるピラトの振る舞いが描かれています。

 

  • 11節のはじめに「さて、イエスは総督の前に立たされた」とあります。そうすると、ピラトがイエスに「お前はユダヤ人の王なのか」と聞きます。イエスが「ユダヤ人の王である」というのは、馬鹿にしてイエスをもてあそぶ意味で、皆が言っていた嘲りの言葉です。ですから、ピラトはここで「お前はユダヤ人の王なのか」と聞いたのです。しかし、ピラトがそうイエスに聞いた時には、ピラトには「ユダヤ人の王」ということをめぐって、あるイメージがあったと思われます。それはローマ帝国の属国、植民地であるユダヤの王というイメージです。イエスはピラトのその質問に、そうですとも、そうでないとも答えずに、「それは、あなたの言っていることです」と、ピラトに答えています。

 

  • ところが、12節で「祭司長たちや長老たちから訴えられている間、(イエスは)これには何もお答えにならなかった」というのです。「するとピラトは、『あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか』と言った。それでも、どんな訴えにも(イエスが)お答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った」というのです。

 

  • この沈黙がイエス自身の本当の答えなのです。マタイによる福音書の著者は、マルコによる福音書に倣ってこの場面を、イエスの沈黙が響いてくるように描いています。

 

  • もしピラトが「非常に不思議に思った」ことを大切にして、一体イエスのこの沈黙はどこからきているのだろうかと、真剣に問うていたら、ピラトもまた、イエスの生の基盤である命の神そのものによって、自分も生きる人間になることができたかも知れません。しかし、ピラトは、イエスの沈黙を非常に不思議に思ったのですが、沈黙のその向こうに突き進んで自分を問うことをせずに、ローマ総督という自分の地位にある自分に立ち帰ってしまったのです。ですから、ピラトはイエスとの決定的な出会いによる福音に与ることができませんでした。

 

  • 以後のマタイによる福音書のイエス裁判の場面におきますピラトは、イエスの同情者のように描かれています。本当はイエスを許したかったのだが、イエスを殺そうと躍起になっているユダヤの支配者である祭司長たちや長老たちと、彼らに扇動されている群集(「右翼的なユダヤ人大衆」田川訳)の手前、イエスに死刑を宣告せざるを得なかったかのように、です。

 

  • ピラトの妻も、「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました」(19節)と、夫ピラトに伝言したというのです。しかし、ピラトは、大祭司たちや長老たちに扇動されて、バラバではなくイエスを「十字架につけろ」と叫ぶ群衆を恐れて、「『この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ』」と責任を転嫁して、「バラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡し」てしまいます。

 

  • そのように、イエスに同情的であったピラトなのですが、ユダヤ人の暴動を恐れてか、イエスに死刑を宣告してしまいました。ピラトは自分に命を与えてくださった命そのものである神を思うのではなく、人としての当時の最高の権力者であるローマ皇帝を恐れ、彼が治めていたローマの属州ユダヤの支配者たちと群衆が結託して暴動を起こすのを恐れて、イエスに死刑を宣告したのです。

 

  • このようなマタイ福音書のピラトによるイエス尋問の記事からしますと、確かにピラトは「偽善的で自分を正しいとする典型的な人物」のように思われます。ピラトはローマ総督として、ローマ帝国の属州であるユダヤ人の死刑執行権を持っていました。ピラトが判決を下さなければ、イエスを死刑に処することはできません。ですから、ピラトが判決を下し、イエスを十字架刑にしたのです。

 

  • しかし、ピラトは、イエスを十字架刑に処するという自分が下した判決に対する責任を回避します。「俺はイエスを死刑に処したが、そうしなければユダヤ人が暴動を起こしそうだったので、いやいやしたのだ。イエス処刑の責任は自分にではなく、ユダヤ人にあるのだ。俺にはない」(24節から)。そう言ったというのです。

 

  • このピラトの責任回避は、今の日本の政治家、特に政治権力の中枢にある人たちにも通じるように思えてなりません。

 

  • ピラトにはローマ総督として、ローマ皇帝への恐れと共に属州の人たちの反乱・暴動への恐れが強くあったと思われます。しかし神(真実)への畏敬は、福音書の描くピラトからはほとんど感じられません。

 

  • マタイ福音書ではありませんが、ヨハネ福音書のピラト尋問の記事には、イエスとピラトの真理をめぐる問答があります。イエスユダヤ人の王であるかどうかという問答に続いて、イエスが「・・・わたしは真理について証をするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」と言います。すると「ピラトは言った。『真理とは何か。』」(ヨハネ18:37,38)と。

 

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  • 上記のピオトル・ナリワイコの描く現代人に置きかえられたピラト像にも、人間として最も大切な「真理(神)に属する」という自覚が欠落しているのではないでしょうか。自分の上位にある同じ人間である権力者や自分の目の前にいる人であるイエス以外の彼を取り囲んでいる様々な人々への恐れはあっても、神への畏敬と隣人への敬愛は、このピラトの姿からは見受けられません。

 

  • そのことは、ピラトにイエスを処刑することを迫ったユダヤの大祭司たちや長老たち、そして彼らの扇動によってイエスを十字架につけろと叫んだ「右翼的なユダヤ人大衆」(田川)も同じです。ピラトと違って彼らユダヤ人はユダヤ教を信じていたわけですから、形の上では神への信仰をもっていたに違いありません。しかしその信仰は形骸化していて、(神の)真理に従って日常を生きる生きた信仰は失われていたのではないかと思われます。

 

  • エスが、神の国の宣教活動において、インマヌエル(神我らと共に)の現実に基づいて、弱くされ、病み苦しんでいる隣人の一人一人を大切に活動を始めると、彼らはイエスを律法違反者とし、ついには神を冒涜したと言って、断罪したのです。

 

  • ですから、ユダヤ人である彼らも、ピラトとその本質においては全く変わりませんでした。生ける神への畏敬と隣人への敬愛を欠いていたのです。

 

  • 下の絵は、上の絵と共にルツのマタイ註解書の中に出ているものです。この絵を通してイエスの沈黙を、ルツはこのように述べています。この絵のルツの解説になりますが、それを紹介したいと思います。

 

 

  • 「片方に、ピラトが座っている――13世紀の領主の形姿をして。彼の顔つきにはユダヤ人の聞いたこともない要求に対する彼の驚きが映っている。左手にユダヤ人が立っている。一人はイエスの腕をつかみ、ピラトの前でいわくありげな身振りで彼を告訴している。ピラトは玉座に座り、確かにユダヤ人たちの方を向いているのだが、しかし、すべての動きと彼の右手は、彼が左手を洗っている右の方を指し示している。そのようにして、ピラトとイエスの間に延びる場面の中央に深い溝が生じている。イエスが中心であり、劇的描写のやすらぎの極である。彼だけが、(この絵を見ている私たち)男女の観察者を直接見つめている。彼の顔は無限の穏やかさを放っている。ピラトとユダヤ人たちが互いに取引していることは、彼には関係していないように見える」。

 

  • この絵のイエスについて、ルツは「ピラトとユダヤ人たちが互いに取引していることは、彼には関係ないように見える」と言っていますが、そこにイエスの沈黙の理由があるように思われます。すねわち、イエスは、目の前のピラトやユダヤ人たちを超えて、滝沢克己の言う「インマヌエルの現実」、神我らと共にの現実にしかりと足を付けて立っているのです。命の神によって生かされている。そこにイエスの沈黙の静寂の理由があるのではないでしょうか。

 

  • ボンフェッファーが獄中にあって、最後まで同じ獄中にある仲間を励まし続けることができたのも、イエスと同じように獄中にありながら、「インマヌエルの現実」「神我らと共にの現実」に生きることができたからではないでしょうか。「神を待ち望み、祈りつつ、正義を行う」、余計なことに惑わされることなく、そのことに徹することができたのでしょう。

 

  • 私たちは、今日のマタイ福音書のピラトによるイエス尋問の記事から、イエスの沈黙を通して、権力者を代表するローマ総督のピラト、イエスを訴えているユダヤの支配層である「祭司長たちや長老たち」たち、そして群集としてこの場面に登場してくるユダヤの一般民衆が、根本的に人間としてイエスとどこが違うのかということを学ぶことができれば幸いに思います。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。新型コロナウイルス感染拡大がまだ終息していません。そのために、教会で皆が集まってする礼拝はできませんが、このようにメール配信によって共に礼拝にあずかることができ、感謝します。
  • 神さま、今日はピラトのイエス尋問の記事を通して、イエスの沈黙について考えました。人間の営みとしての歴史社会の中で生きる私たちは、その中で起こる出来事に一喜一憂してしまいます。そして自らの生きる根拠を見失い、流れの中に巻き込まれて、何もできずに慌てふためくだけになってしまいがちです。
  • 神さま、私たちをインマヌエルの現実に生きることができますようにお導き下さい。

あなたによって大切にされ、生かされているインマヌエルの現実を自分自身の生きる根拠にして、この厳しい現実社会を生き抜いていけますように。

  • 神さま、過日福島沖で大きな地震が起こり、10年前の3・11東日本大震災で甚大な被害を受けた福島、宮城を中心に被害が出ています。今回の地震で、10年前のことがよみがえって、大変な恐怖に襲われた方も多かったのではないかと思われます。速やかな復旧と被災にあった方々に平安が与えられますように。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌    288(恵みにかがやき)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-288.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

 

これで礼拝は終わります。