なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書(114)

2月28日受難節第二主日礼拝(10:30開始)

 (下記に写真の位置がおかしいのがありますが、ご容赦ください。)

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

  

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。

                    (イザヤ書55:6,7a)

③ 讃美歌    19(み栄告げる歌は)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-019.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編130編1-8節(讃美歌交読詩編145頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  マタイによる福音書27章27-44節(新約57頁)

    (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  296(いのちのいのちよ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-296.htm

説教 「嘲りの声の中で」  北村慈郎牧師

祈祷

 

  • 現代の日本においては、人が人びとから嘲られながら殺されていくということは、ほとんど皆無に近いのではないでしょうか。けれども、時代を少し遡れば、この日本においても、嘲られながら人が殺されていくという事例が見られます。

 

  • 時代劇などの映画を見ていて、犯罪人が町中を引き回されて、人びとから嘲られて、処刑されて獄門にかけられるという場面が出てきたりします。おそらく殉教したキリシタンの多くの人たちは、人びとから嘲られながら殺されていったのではないでしょうか。キリシタンの殉教の場面を想像するだけでも、恐れで体が震えてしまいます。

 

  • 今日のマタイによる福音書の記事は、死刑の判決を受けたイエスが、兵士たちから侮辱され、十字架につけられる場面です。この場面で、人びとがイエスにとった共通した態度が、嘲りです。新共同訳では「侮辱した」と訳しています。そういうイエスを嘲った人々の中で、十字架を無理やり担がされたクレネ人シモンだけが、特別な存在です。彼はこの場面の中で唯一イエスを嘲る人々の仲間には加わっていません。

 

  • 「嘲る」というギリシャ語はエムパイゾーという言葉で、「侮辱する」「あざける」「あざ笑う」「愚弄する」「嘲弄する」「ののしる」などと訳されます。

 

  • まず「総督の兵士たち」がイエスにしたことを思い起こしたいと思います。27節から31節に描かれています。もう一度読んでみます。

 

  • 「それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせ、その前にひざまずき、『ダヤ人の王、万歳』言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った」。

 

  • これがもし事実であるとしたら、イエスはこの兵士たちの言葉による嘲りだけでなく、嘲りが残酷になって、虐待も受けたことになります。兵士たちはイエスに「唾をかけ」、「王の標章」としてイエスに持たせた「葦の棒」を取り上げて、その葦の棒で茨の冠をかぶせられたイエスの「頭をたたき続けた」と言うのです。この残酷な虐待をイエスはどのようにして耐えたのでしょうか。

 

  • 兵士たちは出て行くと、通りかかったクレネ人シモンにイエスの十字架(横木)を無理やり担がせます。そして「ゴルゴダという所、すなわち『されこうべの場所』に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうと」しませんでした。「彼らは(イエスを)十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしてい」ました。「イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王イエスである』と書いた罪状書きを掲げ」ました。「折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右に、もう一人は左に、十字架につけられてい」ました(32-38節)。

 

  • そのときそこを通りかかった人々、そしてユダヤ人の最高支配者たちである祭司長たちも律法学者や長老たちと一緒に、さらにはイエスの右と左にイエスと同じように十字架につけられた二人の強盗も、イエスをののしったというのです。何とののしったかと言いますと、「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」と。

 

  • ところで、ここでイエスをののしった総督の兵士たち、そして通行人であるユダヤの民衆や祭司長はじめ律法学者、長老たちのようなユダヤの支配層の人たちは、イエスを嘲ることによって何を失っているのでしょうか。

 

  • ローマ総督の兵士たちは、「ユダヤ人の王、万歳」と言ってイエスを侮辱しました。そしてイエスの頭の上には「これはユダヤ人の王イエスである」という罪状書きを掲げたと言われています。少し荒唐無稽に思われるかもしれませんが、もし本当にイエスユダヤ人の王となったら、権力を持って人びとを支配し搾取するローマ皇帝のような王ではなく、この世の最も小さく貧しい人びとに幸福をもたらす、人々に仕える王となったに違いありません。そしてそういう王様がローマ皇帝に代わって世界の王になったら、ユダヤだけではなく世界中の人びとに幸福がもたらされたことでしょう。けれども、ローマの兵士たちは、ローマ皇帝に逆らうことはできませんでしたので、イエスをののしり十字架につけることによって、総督とローマ皇帝に仕え、イエスが王となる可能性を自ら否定してしまったのではないでしょうか。イエスと共に十字架を負うことをしなかったからです。それはイエスのもとにある私たちにとっての本当の命、命そのものを否定したことを意味します。

 

  • 「神の子なら、十字架から降りてきて、自分を救え」とののしった、通行人のユダヤ人、祭司長、律法学者、長老、二人の強盗たちも同じです。彼らはユダヤ人としてメイアを待望し、メシアが支配する神の国の到来を切に願っていた人たちだったに違いありません。しかし、彼らの想像を超えた形でイエスによってもたらされた神の国の到来を受けいれられず、エルサレムの神殿支配体制を選んだのです。彼らもまた、ローマ総督の兵士たちと同じように、すべての人を幸せにする命そのものを否定してしまったのです。

 

  • 私は、ローマ皇帝を中心とする、こういう兵士たち、ユダヤの民衆や支配者たちがのさばっているこの世において、すべての人を幸せにする命そのものは、十字架という形をとってしか表れないように思えて仕方ありません。現代でも強権的な政治支配が続く国では、民衆の命と生活を護るために立ち上がって闘う人たちが、政治犯として処刑されていっています。

 

  • クレネ人シモンは、無理やりではありますが、イエスの十字架を担がされました。本来ならば、弟子たちが担ぐべき十字架ではなかったかと思います。一番親しい縁の弟子たちはいなくなり、全然縁もゆかりもないといっていいようなクレネ人が、イエスの一番近くで十字架を負って刑場まで歩いていったというのです。

 

  • 滝沢克己さんは、「こういうこともイエスの姿、イエスの身近につかえていたことが、決してそれで安心、そこに居座って良いということではない。或いはそれを誇るということが、人間にはできないものだということです。しかし同時に他方では、おれは縁がないということのできる人は、その人がなんと思おうと事実上はどこにもいない。イエスの十字架に無関係だと言う人は、ありようがない。そういうことは弟子達との対照で、クレネ人・シモンがここでイエスの十字架を負ったということに、非常によく出ているのではないかと思うのです」と言っています。

 

  • エスの十字架を負うということは、命そのものである神につながって私たちが歩むことです。クレネ人・シモンのように、だれがイエスの十字架を負わされ、負って生きているかは、私たちには分かりません。

 

  • ただ十字架を前にして、逃げ去ってしまった弟子のようにではなく、また、イエスをののしり、嘲る人びとのようにでもなく、そういう自分自身があることを十分踏まえた上で、それにも拘らず、クレネ人・シモンのように、黙黙とイエスの十字架を担いでイエスと共に、最後まで歩ませていただけるように、聖霊のとりなしを祈り、願いたいと思います。

 

  • さて、このマタイ福音書のイエスの嘲りの場面についても、ルツは、その註解書の該当箇所でいくつかのキリスト教の美術を紹介しています。最後にそれを紹介して終わりたいと思います。ルツによりますと、「古代教会においては、キリストの十字架への道は第一に受難と死とは理解されず、むしろ高く挙げられた者〔たるキリスト〕の勝利への道と理解された」というのです。それを示すものとして下記のモザイクを挙げています。
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  • この「ラヴェンナのサンタポロナーレ・ヌオーヴォのモザイクに描かれたゴルゴダへの道の描写(520-526年)は、散歩のように見える。中心人物はイエスで、威厳に満ちてそこへと歩いている。彼の右手に、キュレネのシモンが十字架を担いでいるが、軽い荷よりも気楽そうである」(ルツ)。

 

  • しかし、このモザイクが描かれた「900年後に、1437年の、ハンス・ムルチャーによるヴルツァハの祭壇の描写では、屈み込んで苦悶するキリストが中心に立っている(下の絵)。
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  • 彼の顔は鑑賞者の方を向いており、彼の眼差しが鑑賞者を捉える。ここでは、シモンは民衆の中の、年老いた単純な男である。彼は十字架を担いではいない。彼はむしろ、ルカ23:26に従って、『イエスの後ろ』を進み、ただ全く控えめの、十字架の『共通の重荷』を共に担うだけである。イエスの後ろを婦人たちが従うが、皆に先立ってマリアが弟子のヨハネと従っている。イエスは人の群れに取り囲まれている。粗野で嘲笑的な兵士たち、不気味な目つきした祭司たち。あらゆる細部が見て取れる。道に髑髏が横たわっている。子供たちがイエスに石を投げる」(ルツ)。 

  • 下記の同時代の絵画(カールスルーエの十字架への釘付け)は、「細部において信じられないような残酷な」ものです。
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  • ルツは、「十字架と磔刑への道」(27:32-38)についての註解の総括で、イエスの苦難と神の計画の一致を旧約聖書の苦難の詩編が証言していることに触れた上で、次のように述べています。「イエスは、神が彼の言葉を通して彼に予め示していた道を進む。神は彼の義人を決して一人ぼっちにさせない。苦難の闇のただ中にも、神はいる。深い闇の中における神のこの足跡こそ最も重要なものであり、それをテクストは指し示そうとするのである」と。そして続けて、この聖書本文を解釈して、拡大したり変えらたりして描かれる種々の画像を直接的に評価することを慎みたいとした上で、「しかし、私はイースター的な、十字架の勝ち誇った栄光の光を経て、またイエスの拷問の残酷さを経て、このテクストがただつましく控え目に暗示しているにすぎない、聖書によって証言された、苦難のただ中に見出される『神の足跡』が失われてしまわないようにと思う」と述べているのです。

 

  • 私たちは、神を全知全能というその強さにおいて信じてはいないでしょうか。イエスの苦難をはじめあらゆる人の「苦難のただ中に見出される『神の足跡』」を見ないとするならば、私たちは自分を強めてくれる偶像の神を信じているのであって、「苦難のただ中に見出される『神の足跡』を歩む生ける神を信じているとは言えません。

 

祈ります。

  • 神さま、今日も礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。緊急事態宣言がそろそろ解除されようとしていますが、新型コロナウイルス感染拡大がまだ終息してはいません。そのために、教会で皆が集まってする礼拝はできませんが、このようにメール配信によって共に礼拝にあずかることができ、感謝します。
  • 神さま、今日は、マタイ福音書のイエスの嘲りと十字架と磔刑への道についての記事から、イエスと共に私たち人間の「苦難のただ中に見出される『神の足跡』」について教えられました。
  • 私たちはともしますと、あなたを天の高みに据えて、そこから差し伸べられるあなたの助けを求めてしまいます。けれども、あなたはイエスの苦難のただ中に、そして私たち人間の苦しみのどん底に、その足跡を残しておられる方です。そしてあなたは私たちを、苦難を共に担う者へと招いておられます。
  • 神さま、どうか私たちをイエスの十字架を共に担いで生きる者としてください。そのことを通して私たちを苦しみの再生産から解放してください。
  • もいうすぐ3・11、東日本大震災から10年になろうとしています。原発事故をはじめ大津波によって亡くなった多くの方々、被災者の苦しみを風化させずに憶えていくことができますように。今も支援の必要な方々に支援の手が差し伸べられますように。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌    311(血しおしたたる)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-311.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。