なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(115)

3月7日受難節第三主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。

                    (イザヤ書55:6,7a)

③ 讃美歌    141(主よ、わが助けよ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-141.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編86編5-10節(讃美歌交読詩編94頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  マタイによる福音書27章45-56節(新約58頁)

    (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  474(わが身の望みは)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-474.htm

説教 「「イエスの死」  北村慈郎牧師

祈祷

 

  • 去る3月3日は連れ合いが帰天して一年になりました。この1年間コロナウイルス感染のために予定していたお別れ会もできませんでした。2人の息子もそれぞれ仕事の関係でコロナウイルス感染の危険性がある職場ですので、3月3日には私の所に来なくてよいと言って、娘と二人で連れ合いの帰天一年を偲びました。

 

  • 一年前の連れ合いの死は平安そのものでした。連れ合いは、記念の冊子にも書いておきましたように、「もう充分、感謝」と言って、緩和病棟の病室の一室で静かに眠るように帰天しました。

 

  • 連れ合いの帰天1年が3日で、その次の日曜日である今日7日の礼拝説教のテキストがマタイ福音書のイエスの死の場面の記事です。連れ合いの死とイエスの死とは、その様相からすれば、全く対照的なものだと思われます。イエスの死は、前回触れましたように虐殺による死と言っても過言ではありません。

 

  • 今回私は、連れ合いの帰天1年を迎えて、連れ合いを偲びながら、同時にイエスの死についても思いめぐらす時を経験しました。更にはミャンマーの軍事政権によって、今現在殺されている、現象としてみれば、ある面でイエスと類似した死を死んでいる人々のことも考えざるを得ませんでした。

 

  • さまざまな人間の死がありますが、イエスの死は私たちに何を物語っているのでしょうか。

 

  • エスはこの世の権力によって裁かれ、十字架に架けられ殺されました。それは、イエスの活動の帰結でもあります。マタイ福音書によれば、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4:17)という神の国の宣教と、さまざまな苦しみ抑圧されていた人々を癒し、解放する業に自分を賭けて行動していました。そのことが権力者には目障りだったので、イエスを亡き者にしようとして、イエスを裁判にかけ、十字架刑によって殺したのです。

 

  • マタイによる福音書の「イエスの死」の記事は、マルコによる福音書の並行記事と比べますと、51節以下に黙示録的な終末の描写があり、神格化されて大変ドラマチックになっています。

 

  • エスが十字架上で息を引き取られたとき、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」(51-53節)とあるように、です。

 

  • しかし、イエスの死の記事は、マルコもマタイも、ヘブル語とアラム語の違いはありますが、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びを挙げて、イエスが死んでいったこと。そして、そのイエスの死を見て、ローマの兵隊であった百人隊長たちが、「本当に、この人は神の子だった」と言ったということ。この二つのことはどちらにも共通しています。

 

  • 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と十字架による酷い刑罰による死の間際に、イエスが叫んだということが事実なのかどうかは、分かりません。私は、後の人たちが、このイエスの叫びの言葉が最初に出てくる詩編22編の苦難の義人の叫びを、死の間際におけるイエスの叫びとして描いたと思っています。しかし、こういう詩編22編の言葉を実際にイエスが口に出して叫んだかどうかは分かりませんが、これが、うめきながら十字架上で息をひきとったイエスの心の叫びであることは事実だと私は思っています。

 

  • 人には何も言葉としては発しなくても、その人がそこに存在するときに、その人の「存在の叫び」があるように思います。十字架上で苦しみながら死んでいったイエスの「存在の叫び」に、後の信仰者が詩編22編の苦難の義人の叫びを読み取ったということではないかと思います。

 

  • ちなみに詩編22編2~9節を読んでみたいと思います。

 

  • ≪わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。/なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。/わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。/夜も、黙ることをお許しにならない。//だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。/わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。/助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。//わたしは虫けら、とても人とはいえない。/人間の屑、民の恥。/わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。/「主に頼んで救ってもらうがよい。/ 愛しておられるなら 助けてくださるだろう。」≫。

 

  • ところで、イエスは自分を十字架にかけたピラトをはじめ、ユダヤの大祭司たち、長老・律法学者たち、そしてイエスを裏切った弟子たちや嘲り、罵ったローマの兵士達やユダヤの民衆に向っては、恨みがましいことは何一つ言わなかったのでしょうか。

 

  • ルカによる福音書によれば、イエスは、「父よ、彼らを赦して下さい。彼らは自分が何をしているのか、わからないからです」(23:34)と言われたとあります。もしこの言葉がイエスによって語られたとすれば、イエスは、「自分は何をしているか、わからない」人々によって十字架にかけられたと思っていたことになります。そのように思うということは、何をしているかわからない人々がイエスに向けて行っている十字架による処刑をはじめ、裏切り、嘲笑などの一切を、ご自身の存在と体で受け止めていたということです。けれども、もちろんイエスを十字架に架けたそのような人々の仕打ちを、イエスは認めていたというわけではありません。むしろそれをご自身のからだで受け止めることによって、それに抗っていたのです。

 

  • エスはイエスとして自分らしく生きました。イエスは、父なる神との垂直の関係においてご自分が何者であるか、どう生きるかを、その都度その都度問いつつ、「アバ 父よ」と祈り、「神われらと共に」いましたもうことを信じて、「神の独り子として」自分らしく生きました。他者の痛みを自分の傷みに感じて、共感をベースに、共に苦しみ、共に喜ぶ者として生きてきました。

 

  • エスがそのように生き始めたのは、バプテスマのヨハネの運動に触れて、悔い改めのバプテスマを受けたときからでしょう。その時、「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、“霊”が鳩のようにご自分に降ってくるのを、ご覧になった、すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(マルコ1:10,11)と言われます。神の最愛の子どもとして生きる。それはイエスの公生涯を貫いたイエスの生き様でした。

 

  • そして、そのようなイエスが十字架上でも、神の最愛の子どもとしての己を貫いたということではないでしょうか。自分を十字架にかけた人々には恨みがましいことはひと言も言わずに、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、神に向って叫んで、死んでいったのです。

 

  • 一方イエスを十字架につけた人々はどうでしょうか。彼ら・彼女らは与えられた命を、神から与えれた賜物、祝福として、大切に自分らしく生きていたでしょうか。ピラトをはじめイエスを十字架につけた人々は、それぞれ自分らしく存在していたのでしょうか。ピラトなどは、神から与えられた命を生きる自分らしさを捨てて、権力を血肉化した己として、そこにあったのではないでしょうか。つまり本当の自分を抑圧して、自分を殺して権力の奴隷として周りの人々に合わせて生きてきたのではないか。それはピラトだけではなく、イエスを十字架に架けたすべての人たちに言えるように思われます。

 

  • そういう人々の視線を受けて、最後まで神の最愛の子どもとして十字架上に息絶えたイエスを見て、百卒長たちは、「本当に、この人は神の子であった」と言わざるを得なかったのでしょう。

 

  • エスの十字架が、人間の高慢な罪に対する勝利であることを、復活のイエスとの出会いを通して知らされた弟子たちは、自分の犯した過ちを悔い、ただ嘆いているだけではありませんでした。また、イエスを裏切ってしまった自分自身に、「自分はそういう人間なんだから仕方ないじゃないか」と居直って、古いままの自分で生き続けることもできませんでした。復活のイエスの招きに応えて、新しい自分になって、改めてイエスに従って歩み出したのではないでしょうか。

 

  • そういう意味では、イエスは十字架の死を遂げることによって、人々の中にある気づきを与えたことになります。何よりも神に愛された神の子どもとして自分が存在していること。この世のしがらみの中で自分の存在を神以外の神々(権力や資本)に売り渡してきた己に気づかされ、もう一度神に命与えられ、祝福して生まれてきた本来の自分自身に立ち返って、神を神として生きる者となっていく。そういう気づきです。

 

  • そういう者たちが集まって、イエスを真ん中にした交わりが生み出されていったのが教会ではないでしょうか。イエスの姉妹兄弟団です。私たちの教会も、一人一人神の最愛の子としての己を取り戻すお互いの出会いの場となっていくことを願い、そのような場にしていきたいと思います。

 

  • 己を神とする人間の高慢は、高度な技術を獲得することによって、イエス時代よりも遥かに深い暗闇を私たちの現代の社会にもたらしているかに思われます。対面による暗殺ではなく、ドローンを使った暗殺が国家の名のもとに行われたと言われています。政治家も資本家も「神を愛し、自分の如く隣人を愛する」という神の定めを無視して、自分の力による支配をもくろんでいます。各地で民主化を求める人々の叫びや行動が権力によって抑え込まれています。それでも、人権の確立と平和を求めて立ち上がる人々が後を絶ちません。

 

  • エスの十字架は、一見人間の高慢による神の敗北のように思われるかもしれませんが、聖書はイエスの復活を通して、イエスの十字架の勝利を宣言しています。イエスの十字架は、イエスを十字架に架けた高慢な者たちが勝利しているのではありません。

 

  • 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、最愛の神の子どもとして、神に向かって叫んで死んだイエス。「父よ、彼らを赦して下さい。彼らは自分が何をしているのか、わからないからです」(ルカ23:34)と言って、恨みがまし言葉を一言も発せずに、自分を十字架に架けた人間の高慢な罪を一身に受け止めて死んでいったイエスこそが、真の勝利者なのです。

 

  • 私たちは、この人間の罪に対する神の勝利を示す十字架のイエスを証言していきたいと思います。そのために、私たちは自分自身のアイデンティティーを、神に愛された神の子どもであるということに見出したいと思います。そして「神を愛し、己の如く隣人を愛する」者として、イエスの証人でありたいと思います。

 

  • 主がそのように私たちを導いてくださいますように。

 

祈ります。

  • 神さま、今日も礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。緊急事態宣言が更に2週間延長されました。そのために、教会で皆が集まってする礼拝はできませんが、このようにメール配信によって共に礼拝にあずかることができ、感謝します。
  • 神さま、今日はマタイ福音書のイエスの死を記す個所から、イエスの十字架死がどんな出来事なのかを思いめぐらすことができました。
  • 神さま、私たちは今もイエスを十字架に架けている存在であります。あなたを蔑ろにして、自らを神であるかのごとくに生きる自己中心性にとらわれ、イエスと同じあなたの愛子としての自らの賜物に逆らって生きている罪びとに過ぎません。
  • どうかイエスの死後、復活されたイエスに出会って、自らの罪を悔い、罪赦され、あなたの子どもとして、イエスの姉妹兄弟として歩んでいった弟子たちのように、私たちも生きていくことができますようにお導き下さい。
  • エスの十字架による私たち人間の高慢の罪からの解放というあなたの勝利が、正に私たち人間の高ぶりの極みに思えるこの現代社会において、高らかに響き渡りますように。そしてそのあなたの福音に気づいて、「あなたを愛し、己の如く隣人を愛して」生きる人々を起こしてください。そのために私たちがあなたの福音の証人として生きることができますようにお導き下さい。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌    讃 美 歌  298(ああ主は誰がため)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-298.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります