なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(481)

船越通信、№481    2021年3月28日 北村慈郎

・  本通信は、昨年12月末の日曜日と新年の1月3日の日曜日を急遽会堂礼拝はなしにして、メース配信自宅礼拝にしましたが、1月10日(日)は会堂礼拝ができると思って、1月10日の週報用に書いたものです。そのまま掲載します。

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・  厳しい年明けになり、新春の賀詞をわだかまりなく言えない状況かもしれませんが、それでも、地球が全滅して人類が滅亡することなく、新しい年が与えられたことは、喜ぶべきことであり、神に感謝しなければならないと思います。そのような思いを込めて、新年おめでとうございます。

・  昨年12月20日のクリスマス礼拝までは、船越教会の礼拝堂で礼拝を共にすることができました。けれども、その後新型コロナウイリス感染拡大が続き、急遽12月27日(日)と1月3日(日)の礼拝は、会堂での礼拝はお休みし、メール配信による各自の自宅礼拝のみにすることにしました。

・  1月3日(日)は私の冬期休暇で、礼拝説教は12月13日(日)の礼拝説教を礼拝出席者に文書で配り、それをみんなが読んで話し合うことにしていました。しかし、会堂での礼拝はお休みにしましたので、話し合いがないので、ただ既にした説教原稿をメール配信するだけではと思い、1月3日(日)の礼拝説教も私が担当することにしました。

・  コロナ感染拡大が止まらず、お正月に入ってからも急激に増えていますので、首都圏の1都3県の知事から政府に緊急事態宣言発令が要請され、1月7日に菅首相によって首都圏に緊急事態宣言が出ました。期限は2月7日(日)ということですので、船越教会の日曜日の会堂での礼拝も2月7日(日)まではお休みにしました。ただ今の状況では、2月7日に緊急事態宣言が解除される可能性は低いと思われます。感染拡大を抑え込まないと、緊急事態宣言の解除は難しいからです。2月7日までに抑え込めるとは、今の状況ではとても思えないからです。ですから、日曜日の会堂での礼拝中止は、さらに長引くかもしれません。2月7日(日)以降のことが、後日改めてご連絡するようにします。

・  3日(日)と10日(日)のメール配信は午前2時ごろにしましたが、受信される方がスマホの場合には、受信したときに音が出るので、夜中にスマホの受信音が鳴って、何事かとびっくりされる方もあったかもしれません。私はそのことに気づきませんでした。申し訳ありませんでした。17日(日)からは、日曜日の朝7時ごろに発信するようにいたします。

・  年末年始、私自身は比較的平穏に過ごすことができました。ただ昨年の年末に、鶴巻に千賀を見舞ってくれた彼女の従兄弟たちとの会食があったことや、教区のセクシュアル・ハラスメントの委員会を鶴巻で開いてくれて、委員の人たちとの会食があったことなどを想い出しました。この二つの会食が、彼女が食事作りをした最後でした。1月3日で千賀が亡くなって10か月が経ちました。千賀のいないお正月は、1967年4月に彼女と結婚してはじめてでした。

  • 斎藤幸平『人新生の「資本論」』⑥

▼犠牲に基づく帝国的生活様式:・ドイツの社会学ウルリッヒ・ボラントとマルクス・ヴィッセンは、グローバル・サウスからの資源やエネルギーの収奪に基づいた先進国のライフスタイルを「帝国的生活様式」(impeiale Lebensweise)と呼んでいる(p.27-p.28)。/・問題は、このような収奪や代償の転嫁なしには、帝国的生活様式は維持できないということだ。グローバル・サウスの人々の生活条件の悪化は、資本主義の前提条件であり、南北の支配従属関係は、例外的事態ではなく、平常運転なのである(p.28)。/▼犠牲を不可視化する外部化社会:・ミュンヘン大学社会学者シュテファン・レーセニッヒは、このようにして、代償を遠くに転嫁して、不可視化してしまうことが、先進国社会の「豊かさ」には不可欠だと指摘する。これを「外部化社会」と彼は呼び、批判するのだ(P.30)。/・先進国は、グローバル・サウスを犠牲にして、「豊かな」生活を享受している。そして、「今日だけでなく、明日も、未来も」この特権的な地位を維持しようとしているとレーセニッヒは断罪する。「外部化社会」は、絶えず外部性を作り出し、そこにさまざまな負担を転嫁してきた。私たちの社会は、そうすることでのみ、繁栄してきたのである(p.30)。  (以上引用、続く)

  • 江戸時代の鎖国していた時の日本は、ごく一部外国との交易の窓口はあったとしても、経済的にはほぼ内需だけで成り立っていた社会でした。ですから、その時の日本社会は、上記に指摘されている「帝国的生活様式」も、「犠牲を不可視化する外部社会」も、無関係だったと言えるかも知れません。ところが、現代資本制社会では、特に先進国と言われる国々は経済活動が世界大に広がっていて、GDP世界第三位の日本に生きている私たちは、「帝国的生活様式」によって生活し、「犠牲を不可視化する外部社会」を作り出してしまっているのです。私たちの豊かな生活は、他者への抑圧と搾取という、他者の犠牲の上に成り立っているということです。この現実を、私たちは直視しなければならないと思います。ではどうしたらよいのか? 上記斎藤の著書を読み進んでいくと、その解答が与えられます。少しお待ちください。
  • さて、この問題に対して吉本隆明も、どの本で書いていたのかは忘れてしまいましたが、「贈与経済」ということを言っていたように思います。先進国とグローバル・サウスの国とにある搾取を、先進国がグローバル・サウスから労働力と資源を得た分に見合った経済的贈与を、先進国がグローバル・サウスの国にするというものだったと思います。それを吉本は「贈与経済」と言っていたように思います。その背景には、グローバル・サウスの国が先進国と同じように経済発展をめざすことは、実際には不可能で、例え可能であったとしても、そうしたら地球が持たなくなるので、先進国によるグローバル・サウスの国へのそれに見合った経済的贈与が現実的ではないかということだったように思います。一つの考え方だと思いますが、富裕層と政治が結託した今の国家体制の中では、難しいのではないかと思われます。ドイツの首相メルケルさんのように、一人一人の人権を大切にした民主的な社会に呼応する国家像を描いている政治家が多ければ、贈与経済も可能だと思いますが・・・。先進国と言っても、民主的な市民社会と国政が呼応している国は、ほとんど見当たらないのが現状です。