なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

創世記1章から11章による説教(4)

4月25日(日)復活節第4主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう

(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から解き放つ神」。 

    (詩編68:20-21)

③ 讃美歌    224(われらの神 くすしき主よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-224.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   136編1-6節(讃美歌交読詩編149頁)

       (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  創世記2章15―25節(旧約3頁)

    (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  55(人となりたる神のことば)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-055.htm

説教     「助け手が必要な人間」(人間の創造③)  北村慈郎牧師

祈祷

 

  • 今日は、創世記2章のヤㇵウィストによる8節以下のエデンの園の物語から、このエデンの園の物語において、神による人間創造がどのように描かれているかを確かめたいと思います。そしてそこで何が私たちに語られているのかを聞きたいと思います。

 

  • 8節、9節に、土(アダマ)の塵で形づくられ、その鼻に神の命の息を吹き入れられて生きた者となった人(アダム)を、≪主なる神は、東の方のエデンに園を設け、・・・そこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知恵の木を生えいでさせられた≫と言われています。
  • <エデンとは、おそらく「歓喜」とか「喜び」という意味ではないかと言われています。エデンの園と言えば、「喜びの園」「歓喜の園」と言う意味ではないかということです>。9節では、主なる神は、エデンの園を設けて、そこに人(アダム)を置いたとだけしか言われていませんが、15節ではこのように記されています。≪主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた≫と。
  • ここには、この著者が考える、“人間は何のためにつくられたのか”という人間創造の目的が示されています。人間がつくられた目的は、「地を耕し、守ることだ」と言うのです。同時に、人間とは何かが意識されています。「地を」と言ったので「耕す」と訳されるのですが、この「耕す」という言葉は、もともとは「仕える」という意味の言葉です。「地に仕えこれを守ること、それが人間に与えられた務めであり、人間が創造された目的である」と言うのです。地というのは大地であると同時に、自然全体と言ってもよいでしょう。つまり、「人間が自分以外の被造物に仕えこれを守ること、それが人間に神から与えられている務めだ」と言うのです(高柳富夫)。
  • 私が今住んでいるところの近くには、田畑が広がっている田園地帯があります。また、大山をはじめ丹沢山系が見えますし、富士山も丹沢山系の向こうに見えます。自然が豊かです。今草が生えた田んぼを農家の人が耕運機で耕し、田植えの準備をしている風景が見られます。一年の間田んぼに注がれる農家の人の労力は、ただ単に耕すという以上に、「地に仕えこれを守る」姿に感じられます。
  • ビルに囲まれ、アスファルトの道路しか見えないところで生活していますと、大地・自然に仕え、これを守るのが、人間がつくられた目的であるということは、なかなかわからないかも知れません。しかし、今私が住んでいるところでは、農家の方の生きざまを見ていて、そのことを素直に理解することができます。

 

  • エデンの園に置かれた人(アダム)に対して、神は一つの禁止命令を与えます。≪主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪を知る木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」≫(16、17節)と。
  • 高柳富夫さんは、命令と強制との違いに注目しています(『いま、聖書を読む~ジェンダーによる偏見と原理主義の克服をめざして~』)。強制は人(アダム)の側に選択の余地がありません。しかし、命令には、命令を聞く自由と破る自由が人(アダム)の側にあります。神は人(アダム)が自ら選んで、自発的に「善悪を知る木から、決して取って食べない」ことを期待して、この命令を語っているのです。
  • 神は、人間が神からの問いかけ、働きかけに対して、自由に自発的に応答して向き合って生きることを待っている、ということです。無理矢理、いやでもそうさせるというのではありません。そういう神との関係がここで言われているのです。
  • 善悪を知るようになるとは、そのような神との関係を超えて、逸脱して、人間が神のようになることです。すなわち自己を神とし、絶対化することです。自らが小さな神となること、ここでは、このことだけは厳にいましめられているのです。
  • 自分を神とする自己神化をきびしく戒め、神を神とすること、それが人間の自由を真に自由たらしめること、それが真の人間として生きることになるのだと言うのです。己を神とする人間の自己神化、絶対化が、非人間化を生み出すのだと。
  • ≪善悪を知る木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう≫の最大のポイントは、木が何を意味するかということよりも、むしろ神のことばを人間がどううけとめるか、従うのか、背くのかという一点にあるように思われます。神の命令を前にして、自由意志による決断をせまられている人間。意志の自由と決断の問題が、ここに大きくうかびあがってくるのです。神の禁令を守るということは、神を第一義的に意志し、神の言葉をうけとめて自らを規制し、制限することです。禁令を破ることは、神との関りにおいて、むしろ自らを第一義的に意志し、自らのおもいを通すことであります。この「あれか、これか」の前に立つ人間が、そのいずれを意志し、決断するにしても、それは自らの意志においてであり、その決断に責任を負わなければなりません。
  • 3章に繋がる堕罪にいたる物語の展開は、人間の自由が責任と結びついていることを示しています。しかも、神との関係における態度決定について、人はその決定を任されているのです。これが、人間を他のすべての被造物と決定的に区別するところです。神を第一義的に意志すること、そして神の信任にこたえる責任を自覚すること、これが自由を成りたたせるのです。
  • この両刃を欠くとき、人間の自由は、むしろ破滅につながってしまいます。かかる破滅への自由を、ヤハウイストは、罪人となった人間とのかかわりで3章の堕罪のところで語っています。人間は、神の召しを通して人間としての生をうけとるのであり、その意味で応答的存在なのです。

 

  • もう一つ、ヤㇵウィストの人間創造物語の中で重要な点は、18節以下に記されています。≪主なる神は言われた。「人が独りでいるのはよくない。彼に合う助ける者を造ろう」≫(18節)。<神は、決し神との関係にのみとじこもる孤独な応答的存在として、人をつくったのではありません。神は≪人が独りであるのはよくない≫と言われたというのです。だから≪彼に会う助ける者を造ろう≫と。
  • 新共同訳聖書で≪彼に合う助ける者≫と訳されている言葉は、ヘブル語の「エーゼル ケネグドー」です。≪彼に合う≫というと、「彼にふさわしい」とか「彼のために」という意味になります。しかし、ヘブル語の「ケネグドー」は「彼の前にあるものとして」とか「彼と向き合う者としての」という意味です。ですから、月本昭男さんは岩波の創世記でこのところを「彼と向き合うような助け手」と訳しています。「エーゼル」も確かに「助け手」という意味もありますが、「仲間」「連れ」「相棒」という意味にも訳せるそうです。

 

  • 19節以下では、≪主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところに持って来て、人がそれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった≫(19,20節)と言われています。獣や鳥の生き物は人間の助け手にはなれませんでした。そこで神は、神は人の孤独をみて、この人の肋骨から女をつくられたというのです(21-23節)。アダムのあばら骨から造られた女は、人(アダム)である男の「彼と向き合うような助け手」「仲間」「連れ」「相棒」として対等な関係にあると言えます。
  • ボンフェッファーはこのように言っています。<なぜ神の保護のもとに生きる人間がなおも助け手を必要とするのか。人間の助け手、援助者は、聖書の多くの箇所によれば、ただひとりの神だけである。したがって、ここでこのように「女」について語られているのは、何か特別なことが考えられているからにほかならない>と言って、その<何か特別なこと>について、このように記しています。<われわれは創造の出来事の全体との関連から、「男」の上に置かれている人間としての限界を共に担うことによって、「女」は「男」の助け手となったのだと理解することができる。他の人間そのものが、神が私に置いた限界である。すなわち、他の人間とは、神が私にもたらした「私を限界づける者」である。しかし、私はこの者を愛することができ、その愛のゆえにこの限界を踏み越えないでいることができる。被造物(神に限界づけた者)でありつつ自由であること(他者に対して自由であること)は、他の人間の創造によって初めてその人間を愛するということによって可能になる>と。
  • 神に限界づけられた被造物としての人間が、その限界をわきまえつつ自由に生きることができるために、神は私たち人間に共に生きるパートナーを与えて下さった。そのパートナーと愛し合うことによって、神に限界づけられた被造物としての人間として自由に私たち人間は生きることができるのだと言うのです。
  • ボンフェッファーは、さらにこのように続けます。<このことからひとつの事柄が確かになる。すなわち、他者に対する愛が破綻をきたすと、人間は自分が限界づけられていることを(他者を自分の思うままにすることができないということを)憎むようになるということである。その場合、人間はそれでも他者を所有しようとむなしく望むか、絶望のあまり相手をどこまでも滅ぼそうとするかのどちらかである。なぜなら、他者に対する愛を失った彼は、今や自分の権利のみを訴えるようになるからである。それまでは謙虚に受けたものを、今は誇りと反逆の理由となるからである。これがわれわれの世界である。われわれの助け手である他者は、われわれの限界を共に担ってくれる時には恩寵となるのだが、その恩寵が今や呪いとなる。助け手がわれわれの神に対する憎しみをいっそう激烈なものとする。彼のためにわれわれはもはや神の前に生きることができなくなり、彼がわれわれを滅びに定めることになる≫と。
  • 何という深い、また現実に即した人間理解ではないでしょうか。神と隣人である他者との関係を生きることが、祝福である人間の姿と、それが呪いになる高慢な人間の姿を、見事に描いているのです。

 

  • 最後に24節、25節の≪こういうわけで、男は父母を離れて女を結ばれ、二人は一体となる。人と妻とは二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった≫に触れて終わりたいと思います。
  • 古代の強固な家父長制、父権制社会のなかでこの物語の著者ヤㇵウィストが、親子の関係よりも、一対一の夫婦としての関わりの方を優先していることは、注目に値します。≪父母を離れて≫とありますが、この≪離れて≫というヘブライ語は、直訳すると「見放す」とか「見捨てる」になります。イエスが十字架上で叫んだと言われる「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになるのですか」は詩編22編の引用と言われますが、この「お見捨てになるのですか」と、ここでの「離れて」とは、全く同じ言葉なのです。ですから、ただ父母を離れるのではなく、父母を見捨てて二人は一体となるのです。それほどに、この男女の結びつきは父母との自然の結びつきを超える関係であり、互いに向き合う関係であることを、著者は示そうとしているのです(高柳富夫)。
  • ≪人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった≫。ここもボンフェッファーの言葉に耳を傾けたいと思います。<人間が「恥ずかしい」と思うようになるのは、人間が自分の分裂を知る時である。世界全体の分裂について、あるいはまた自分自身の内部の分裂について知るときである。「恥ずかしい」と思うようになるのは、相手をもはや神の賜物としてありのままに受け入れようとしない時である。あるいは相手のありのままの姿に満足できずに相手に無理なことを要求する時であり、また、相手に対して、<私と結びつくことで不満を感じているのではないか、それゆえ私に無理なことを要求してくるのではないか>と思う時である。恥とは、私と相手の悪のゆえに、すなわちわれわれの間に入ってきた分裂のゆえに、私自身を相手の前で隠すということである。一方が他方を、神が与えた助け手として受け入れるところでは、人間は恥じることがない。その助け手の前で自分が「相手から出た者」であり、「相手へと向かう者」であり、しかも自分が「相手に属する者」であるという理解に立つなら、人間は恥じることがない。お互いに相手に対して従順であるところでは、人間は人間の前で裸であり、おおいなしであり、肉体としてまた精神として赤裸々である。そしてそのことを決して恥ずかしいとは思わないのである。矛盾した世界において初めて恥が生じる>。

 

  • 今回もボンヘッファーの言葉の引用が多くなりました。私たちは「助け手が必要な人間」なのです。自らの人間としての限界を受け入れつつ、その中で「助け手」、「仲間」「連れ」「相棒」としての他者と共に愛し合う豊かな自由を生きていきたいと願います。

 

祈ります。

  • 神さま、今日も礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。新型コロナウイリス感染再拡大のために、また教会で皆が集まってする礼拝はできませんが、このようにメール配信によって共に礼拝にあずかることができ、感謝します。
  • 神さま、他者に対する愛が破綻をきたすと、私たちは自分の権利のみを主張し、共に生きるべき他者を支配しようとしたり、傷つけようとするものです。残念ながら今のこの社会の現実はそのような悪しき人間の姿が露呈しているように思われます。
  • 神さま、あなたとの関係においてはじめて一人の人間として、人間本来の互いに愛し合う豊かさを生きることができることに、私たち一人一人を気づかせてください。
  • 神さま、変異株による新型コロナウイルス感染拡大でまたその地域に緊急事態宣言が今日から発出しました。緊急事態宣言を繰り返さざるを得ない国や自治体の新型コロナウイルス感染拡大に対する対応に疑問を感ぜざるを得ませんが、今大変な状況にある医療の現場を担う方々、コロナに感染して苦しんでいる方々、その対処のために病を抱えていながら適切な医療を受けられないでいる方々を支えてください。
  • ミャンマーをはじめ強権的な政治の犠牲になっている方々を、その犠牲から解放してください。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     102(全き愛 与える主よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-102.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。