なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

創世記1章から11章による説教(5)

5月2日(日)復活節第5主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう

(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から解き放つ神」。 

    (詩編68:20-21)

③ 讃美歌    358(子羊をばほめたたえよ!)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-358.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編98編1-9節(讃美歌交読詩編107頁)

       (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  創世記2章15―25節(旧約3頁)

    (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  58(み言葉をください)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-058.htm

説教     「楽園追放」    北村慈郎牧師

祈祷

 

  • 私は小さいころよく蛇をみました。青大将かヤマカガシですが、ヤマカガシはまれでほとんどは青大将でした。余談になりますが、私の小さな頃にはヤマカガシには毒性はないと考えられていましたが、インターネットでヤマカガシを調べてみましたら、1974年にヤマカガシには毒性があるとされているようです。
  • その頃私の住んでいた家は、裏は山で、道路からは階段を10数段上ったところに一軒だけありました。裏山の崖には戦時中父親が掘った防空壕があり、そこから山からの湧水があり、裏山の崖の下は池のようになっていました。道路からの階段のレンガの壁には一部亀裂が入っていました。小さいころに、冬から春に季節が移行する頃から夏にかけて、その亀裂から青大将が出たり入ったりするのをよく見ることがあり、蛇は恐いと思うようになりました。私の干支は蛇なのですが、蛇は好きになれません。
  • 蛇を好んで飼って、手で持ったり、自分の首に巻いたりしている人がいますが、私にはとてもその人の気持ちが理解できません。

 

  • 創世記3章は、最初の人間アダム男と女が罪を犯す堕罪物語ですが、この物語では蛇が大きな役割を演じています。1節に≪主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった≫と言われています。この賢い(アールーム)という語は、「ずる賢い、狡猾である」と否定的にも、「賢明である、思慮深い」と肯定的にも用いられ、この両面性が「賢さ」の特徴であります。事実創世記3章の「賢い」蛇の女に向けられた語りかけは実に巧妙であります。月本昭男さんはこのように語っています。<読者は(そして蛇も)、神が最初の人間に「園のあらゆる樹から取って食べてよい」(2:16)と語った言葉を承知している。蛇の問いかけは、「善と悪を知る樹」に言及せずに、神のこの言葉を逆転させる。園のどの樹からも取って食べてはならない、と神に命じられたあなたがたはお気の毒なことだ、とささやくのだ。あなたがたには自由が全く与えられていないのだってね、と>。

 

  • ≪女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない。死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」≫(2,3節)。

 

  • 実は神が人に命じたのは、≪「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると死んでしまう」≫(2:16、17)でした。しかし、蛇に答えた女の言葉は、神が人に命じた言葉が微妙に変えられています。一つは「善悪の知識の木」が「園の中央に生えている木」になっています。また神が人に命じた言葉にはない「触れてはいけない」が加わっています。この「触れてはいけない」が加わっているのは、女は神の戒めを増幅して受け止めていたということでしょうか。この神の戒めは、人間が善と悪を知るようになってはいけない、それによって「死」を自らに招いてはならないということが中心になっています。ところが女の言葉では、「善悪の知識の木」が「園の中央に生えている木」に変わっていて、人間が神の戒めを守るかどうかということに焦点がずらされているように思われます。

 

  • そこに蛇はつけこんで、女に言います。蛇は、≪善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると死んでしまう」≫(2:17))という神の言葉を逆転して、≪決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」≫(4,5節)と。

 

  • 女(妻)も男(夫)も、この蛇の誘惑に対抗できませんでした。二人は蛇の誘惑に負けて、神が死ぬから食べてはいけないと戒めた「善悪の知識の木」の果実を食べてしまったのです。≪女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた≫(6節)。3章22節には、≪主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。・・・」≫と言われています。人が善悪の知識の木からその果実を食べることによって神のようになったと言うのです。

 

  • 何が善で何が悪であるかは、そう簡単には決めることができません。それにも拘わらず、私たち人間は善か悪か、美しいか醜いか、幸か不幸か、快か不快かという二分法によって、物事を差異化し、分類し、位置づけています。それによって、自らをとりまく世界に秩序を与えて、自分の理解できる意味の世界を成り立たせているのです。それが私たちが生きている伝統的な意味世界と言えるでしょう。無秩序な世界では人間は生きていけないからです。<ところが、人間の側の尺度としての「善・悪」二分法が対象それ自体の属性的価値として実体化されるとき、そこに、優劣による世界の差別化、序列化がもたらされます。こうして、「善と悪を知る(=支配する)」人間は、差別化、序列化された世界に「神のように」君臨することになるのです(3:22)。そして、自らをも優劣によって差別化し、より高い序列位置に自らを置こうとする(しばしばこれは「自己実現」などと呼ばれるが)。物語は、「善と悪を知る」内実をこのようにとらえ、一方では、それによって世界を差別化、序列化せざるを得ない人間の宿命を語りつつ、他方で、それが神の戒めを破った結果であって、人間本来のありかたの逸脱もしくは疎外形態に他ならないと指摘しているのではないか」。月本昭男さんはそのように語っています。

 

  • 人間は事の重大性に気づかず、しかし自分の意志で神のことばに背いてしまいます。心をこめての神への応答に生きるものとして神が与えた自由を、人は蛇の甘言によって逆用してしまったのです。この自由の逆用は、言い逃れようのない人間の責任です。人間はこの罪の責任を負わなければなりません。秋田稔さんは、「これはもはや単なる神話物語ではない。問題の提起である。大胆な言い方をするならば、神の誠実に対して、全くいいのがれの出来ないきびしい人間の不誠実が、ここでは人間の実存をそそぎ出しての神への懺悔あるいは告白として語られているのである。ここにある現実は、矛盾の現実ではなく、罪の現実である」と言っています。

 

  • この物語では、このような人の神への背きが、人間関係の根本的な破壊につながることを示しています。女は、蛇の巧みな誘惑にそそのかされて実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べました。すると、二人の目は開け、自分たちが裸であることを知って、いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとしたというのです(6,7節)。2章25節には、≪人と妻とは二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった≫と言われていましたのに、神の命令に対する違反の結果、二人は裸であることを恥ずかしいと思うようになり、お互いに隠し合って、率直に向き合う関係を保つことができなくなったのです。

 

  • 彼らは自らの裸を恥じるだけでなく、園の中を歩く神の足音を聞いて、神の顔を避けて、園の木の間に隠れました。≪主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか」。」彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」≫(9,10節)。そこで、さらに神が≪「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか」≫(11節)と問いただすと、アダムは≪「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」≫(12節)と言って、自分の違反の罪の責任を女に転嫁します。女に向かって神が、≪「何ということをしたのか」≫(13節)と言うと、女は答えて、≪「蛇がだましたので、食べてしまいました」≫と蛇に責任転嫁をします。

 

  • <他人に責任を転嫁して自分は安閑としている冷酷さが、かれらの心を占めたのである。神から独立して自らの自由を謳歌する筈の人間、その人間は神の前に昂然として胸をはるどころか、恐れおののき、問いつめられて責任逃れをし、結局はその責任を神の方向にもってゆく。恐れつつも神への秘かな反抗が、かれらの心をいよいよむしばみ、ついにその最愛の妻、「わが肉の肉、わが骨の骨」を神の前に突き放してしまう。かくして、かれは自らまねいた孤独に陥ってしまうのである」(秋田稔)。

 

  • しかし、アダムは、神からの問いかけに責任転嫁をした≪女を、エバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである≫(20節)と言われています。また21節では≪主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた≫とも言われています。

 

  • ここには自らの責任転嫁によって女との関係を失い、孤独に陥ったアダムが、その孤独からの解放をもう一度女に求めているように思われます。また、神の戒めを破ったアダムと女を、そのまま神は放置するのではなく、二人に皮の衣を作って着せられたことによって、背いた二人に対する神からの働きかけ、保護が続けられていることが示されています。神は背いた人を裁くと共に保護するというのです。<神は裁いて追放し、あとは知らない、というのではないのです。人間に対して、神はどこまでも人格関係に立とうとしているのです。人間は神の顔を避けて神から逃走しようとし、神と向き合う人格関係から身を引いてしまいます。それに対して、神はエデンからの追放という裁きを行いますが、「皮の衣を作って着せ」て、保護をしたうえで追放するのです。関係を切らないわけです。それが(この物語の)著者(ヤㇵウィスト)の理解です>。

 

  • この堕罪物語に語られています、神に背いて、神のようになろうとする、自分を中心に置く人間の高慢による罪の現実は、現代世界を見渡すときに、今も克服されていない私たちの現実の姿ではないでしょうか。そしてまた、その人間の高慢の結果、私たちがお互いを「助け手」として協力して生きていくことも破壊されているのですが、それもまた私たちの現実ではないでしょうか。

 

  • 高柳富夫さんは、この堕罪物語の著者<ヤㇵウィストが考えているのは、関係における率直さではないか>と言っています。そして<人間は神からの呼びかけに対して、「私はここにいます。あなたが食べてはいけないと言われた戒めを破って食べてしまいました。おゆるしください」と答えることを期待されていたのです。それが人格的な応答関係というものです。神は「間違いを絶対に犯すな。間違えば決してゆるしはしない」などと言ってはいないのです。間違ったら率直に謝るという関係に生きることを期待している、というのが著者の理解です。/人間は間違うのです。しかし、間違いに気づいたら、「私は間違いを犯しました。おゆるしください」と告白をする。これが神との、また人間同士が互いの人格的応答関係に生きるということです。そこに、神からのゆるしがあり、お互いにゆるし合うことがあるのです>と言っています。

 

  • その通りではないでしょうか。自分を絶対化し、正当化する私たちの高慢が、神との関係の崩壊と共に、他者である隣人との関係の崩壊としての死をもたらすのです。堕罪物語において著者ヤㇵウィストはそのことの深刻さを語ることによって、神との、また人間同士が互いの人格的応答関係に生きることの大切さを語っているのです。そのメッセージに現代を生きる私たちも真剣に耳を傾けるべきではないでしょうか。

 

祈ります。

  • 神さま、今日も礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。新型コロナウイリス感染再拡大のために、また教会で皆が集まってする礼拝はできませんが、このようにメール配信によって共に礼拝にあずかることができ、感謝します。
  • 今日は創世記3章の堕罪物語から、神との、また人間同士の関係の崩壊という罪の現実について考えさせられました。現代の私たちが生きています社会においても、私たちは、関係の豊かさの中で、自分が裸であることを恥じないで、互いが助け合い協力して生きているとは言えません。むしろその反対に、分断と序列化の中で孤立を強いられて、孤独に苦しんでいる人も多くいます。また、己を絶対化し、自己正当化する誘惑に陥っている人も多くいます。
  • 神さま、あなたと、また他者である隣人と、人格的応答関係を私たちが忍耐強く生きてい行くことができますように、私たち一人一人をお導き下さい。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     530(主よ、こころみ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-530.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。