なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(1)

5月30日(日)聖霊降臨節第2主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう

(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃美歌    2(聖なる神は)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-002.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編99編1-9節(讃美歌交読詩編108頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書   ローマの信徒への手紙1章1節(新約273頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  356(インマヌエルの主イェスこそ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-356.htm

説教      挨拶―その1「パウロの自己規定」      北村慈郎牧師

 

  • 今日からパウロのロマ書(「ローマの信徒への手紙」をこのように呼ばせてもらいます)から語りかけを聞いていきたいと思います。

 

  • みなさんもご存じだと思いますが、ロマ書は、キリスト教の歴史の中でその転換期に宗教改革者ルターにしても現代神学の旗手カール・バルトにしても、大きな役割を演じたパウロの手紙です。ルターはパウロの信仰義認によって、功績主義的な中世カトリックの枠を打ち破って、宗教改革トップランナーになりました。また、カール・バルトは、近代の人間中心的なキリスト教に対して、「人間から神へ」ではなく「神から人間へ」という福音理解の根本的な転換をあきらかにし、それまでのプロテスタントの歴史を根本的に変革しました。どちらもその契機になったのがロマ書でした。そういう意味で、ロマ書は、キリスト教の歴史にとって、聖書の中の諸文書の中でも特に重要な文書ということになっています。

 

  • 前週の礼拝の配信のメールでも書きましたように、1970年前後から歴史的なイエスへの関心が強くなり、それに伴ってキリスト教の教義の元をその手紙で記しているパウロへの批判(パウロ批判乃至はパウロ主義批判)も強くなりました。そういう背景の中で「現実と観念の逆転」(田川建三)ということが言われるようになったのです。キリスト教信仰には、社会的な現実を観念化し、キリスト教の教義が現実だと強弁するところがあり、1970年の安保改定や大阪万博問題という社会の現実の問題にちゃんと向き合わないで逃げているという批判です。そのような教義的なキリスト教信仰の基礎を築いたのがパウロだということで、パウロへの批判が強かったのです。

 

  • 私もその影響を受けて、パウロを敬遠するようになったところがあり、船越教会でも今まではガラテヤの信徒への手紙は説教テキストに取り上げましたが、パウロの代表的な手紙であるロマ書は避けてきました。しかし、私もそう長くはないと思いますので、まだ元気なうちにみなさんと共にロマ書から、今の私たちに何が語りかけられているのかを聞いてみたいと思うようになりました。

 

  • 少し説明が長くなりましたが、これが今日から説教でロマ書を扱うことになりました、私の思いであります。メールでも書きましたように「しっちゃかめっちゃか」になるかも知れませんが、ご了解いただきたいと思います。

 

  • 新共同訳聖書のロマ書1章1節は、≪キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから≫です。新約聖書ギリシャ語で書かれていますから、ギリシャ語のロマ書1章1節を新共同訳聖書の訳者が、このように訳したわけです。ギリシャ語本文と新共同訳聖書の訳文では、「パウロ」が置かれている語順が違います。新共同訳では1章1節の最後にパウロが来ています。≪キリスト・イエスの僕、・・・・パウロから≫というようにです。ところが、ギリシャ語本文では、パウロは語順の最初に出てきます。≪パウロス・ドゥーロス・クリストゥー・イエスー≫(パウロ・奴隷・キリスト・イエスの)、すなわち≪パウロ、キリスト・イエスの奴隷≫です。

 

  • 新共同訳では「僕」と訳されていますドゥーロスは、文字通り「奴隷」です。奴隷というと、私たちはアメリカの黒人の歴史を想い起すのではないでしょうか。アフリカから奴隷商人によってアメリカに売られて、アメリカで奴隷扱いされた人たちです。人権が認められず、所有者の所有物として、所有者の思いのままに家畜のように扱われたのです。1863年にリンカーンによる奴隷解放宣言があり、1960年代にはマルチン・ルーサー・キングの公民権運動が起こり、現在では黒人の人権が認められるようにはなっていますが、今でもアメリカでは、黒人であるがゆえに警察官の暴行によって殺されるような黒人差別事件が起きています。そういうアメリカの黒人の奴隷制を思いますと、「奴隷」という言葉に積極的な意味を見いだすのは、私たちにはなかなかできないのではないでしょうか。

 

  • けれども、パウロは、自らを「キリスト・イエスの僕(奴隷)」と言い表すことによって、「キリスト・イエス」という一人の人格によって決定的に自分の心が動かされていることを証言しているのです。「それは彼自身の人格でもなければ、この手紙の一人一人の読者、または聞き手の人格でもなく、彼の人格や、ローマの教会に結合されている人格を超えた、イエス・キリストの人格のことである。パウロは彼の僕、文字通りには奴隷である。すなわち、パウロは彼に所属するものである。そして、彼は自分自身の人格においてではなく、また自分自身の権利にもとづいてでもなく、ただキリストに所属するものとして語ろうとする」のです。

 

  • 私たちは自分自身を「キリスト者」と言うことがあると思います。「キリスト者」とは、どういう者のことでしょうか。キリスト者とは「キリストの者」「キリストに属する者」を意味する言葉です。その意味では、パウロの「キリスト・イエスの僕(奴隷)」と変わらないのではないでしょうか。「自分自身の人格においてではなく、また自分自身の権利にもとづいてでもなく、ただキリストに所属する者」として語り、生きようとする者、それが「キリスト・イエスの奴隷」であり、また「キリスト者」ではないでしょうか。

 

  • 私は、今回改めて自分がキリスト者であることがどういうことなのかを考えさせられました。本当に自分は「キリストの者」であるのか、「キリストに属する者」なのか。改めて問われた気がしました。日課として私は、ボンフェッファーの『主のよき力に守られて~ボンフェッファーの一日一章~』を読んで、祈る時を持っています。忘れてしまうこともあるのですが。つい最近読んだ5月27日は「われわれのうちに住む神とキリスト」という表題で、ヨハネ福音書14章23-24節に基づいて書かれたものです。そのヨハネ福音書の言葉は≪イエスは彼に答えて言われた、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、父とわたしは、その人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。・・・・」≫です。ボンフェッファーは、【「イエスを愛する」とはどういうことであろうか。それは、<われわれに言葉を与え、われわれを守る方に所属する>ということ、<イエスとの交わりを他の何ものにもまさって追い求める>ということ、<イエスが今、ここにいてくれることを熱望する>ということである。このようにイエスを愛する者は、自分の愛する者の言葉を固く守り、これに固着し、それを離さない。そしてその言葉どおりに生きることが可能な場合には、そのとおりに生きようとする。イエスへのこのような愛は、やがて完全に成就を経験することになるであろう。すなわち、神とイエス・キリストが、「その人のところへ行って、その人と一緒に住む」ことになるであろう。・・・・神とキリストがわれわれのうちに住む時には、われわれの心のさまざまな部分を占めている別の「主」は、すべて退かなければならない。キリストご自身が、われわれのうちに生き、今、われわれを支配するのである。しかしすべてが明らかにそのようになるのは、われわれが主キリストを愛し、その言葉を守る時だけである。みずからの完全な救いをキリストのうちに求め、われわれのうちには求めなくなるその度合いに応じて、すなわちわれわれがキリストを自分の上に立つ主とする度合いに応じて、キリストはわれわれのうちにいまし、ついには完全にわれわれを占有することになるであろう。しかしキリストを愛そうとはせず、自分のみを愛する者、あるいは、喜んでキリストを受け入れようとはするけれども、決して仕えようとはせず、服従しようとはしない者は、キリストの言葉を決して守ろうとはしない。それゆえ、そのような人には、何も起こりはしないだろう】。このボンヘッファーの言葉は、パウロの「キリスト・イエスの奴隷」、また私たちの「キリストの者」が、どのような人間なのかを、よく語っているように思います。

 

  • そのようにパウロは、自分は「キリスト・イエスの僕(奴隷)」だと、このロマ書の冒頭の挨拶でローマの教会の人々に自己紹介をしているのです。パウロの自己紹介はこれだけではなく、自分は「召された使徒」、「神の福音のために選び分かたれた者」でもあると続きます。

 

  • パウロは、自分は教会の迫害をしたのだから、使徒たちの中で最も小さい者でありまったく使徒としての値打ちのない者であることを、自ら認めています(Ⅰコリ15:9)。また、パウロ自身は、イエスの宣教活動や教えの内容を他の使徒たちから聞いてはいたでしょうが、直接触れたことはなかったと思われます。つまり生前のイエスには出会っていなかったのではないでしょうか。

 

  • パウロが「キリスト・イエスの僕(奴隷)」として、(十字架にかけられて殺されたイエスが高く挙げられキリストである)「主に属するものになったのは、主によって召され、これまでの環境から、しかしまた、これまでの彼自身の内面的・外面的生活状態から呼び出され、その意味では、選び別たれて、使徒となったことによるのである。彼はこの主から使徒のつとめという恵み(5節)、すなわち主によって全権を与えられて遣わされたもののつとめという恵みを受けた。このつとめが、彼に福音・よき音信の宣教を委任するのである。/かくてパウロはこの世にあるいっさいのものから分たれ、ひとすら福音に結びつけられ、福音のために選び分かたれた」のです。

 

  • パウロ、キリスト・イエスの僕、召された使徒。神の福音のために選び分かたれた者。≫(田川訳)。これがロマ書1章1節です。キリストは旧約の民が待ち望んだメシア(油注がれた者)=救い主であり、そのキリストこそがイエスであること。パウロは、自分はそのキリスト・イエスの僕=奴隷であり、神に召されて使徒となり、神の福音を宣べ伝えるために神によって選び分かたれた者なのだと、このロマ書1章1節で自らを手紙の宛先であるローマの教会の人々に紹介しているのであります。

 

  • このことによって、パウロは復活の主イエスとの出会いによって自分は生まれ変わり、自分自身の中心に、富でも名誉でも自分自身でもなく、キリスト・イエスを迎え入れ、神に召されて使徒となり、神の福音のために神に選び出された者として、この手紙を書いているのだと言っているのです。

 

  • この自分自身は何者であるのかというパウロの自己規定は、何らかの意味でキリスト者である私たち一人ひとりにも当てはまるものではないでしょうか。否、当てはまらなければならないのではないでしょうか。そうでなければ、私たちがキリスト者であるとは言えないのではないでしょうか。イエスは、神と富という二人の主人に同時に仕えることはできないと言われました。しかし、どちらも捨てがたいと、あいまいにして、二人の主人を同時に求めているところが、私たちの中にはないでしょうか。

 

  • パウロ、キリスト・イエスの僕、召された使徒。神の福音のために選び分かたれた者。≫(田川訳)というパウロの自己規定は、牧師と信徒ではその働きの違いはあったとしても、私たちキリスト者すべての自己規定でもあるのではないでしょうか。

 

  • このロマ書1章1節から、そのようなことを思わされました。キリスト者として自分がこの世の中でどう生きるかということは、もちろん大切な課題です。しかし、同時に、キリスト者とはどんな人間なのかを、神とイエス・キリストと自分との関係において吟味検討し、その豊かな関係において自分自身が何者であるのかを深く理解することも大切なことではないかと思うのです。パウロの信仰者としての自己紹介に表わされているパウロの自己規定を通して、キリスト者である私たち一人ひとりが、神とイエス・キリストとの関係において自分は何者なのかを、もう一度深くとらえなおすことができれば幸いに思います。

 

祈祷

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も教会で皆が集まってする礼拝はできませんが、このようにメール配信によって共に礼拝にあずかることができ、感謝します。
  • 神さま、私たちは己自身を自分の中心に据えて生きているように思われます。かつて私たちは聖書の告げるイエスに出会い、「わたしに従いなさい」というイエスの招きに応えて、キリスト者として生きるようなった者たちです。その私たち自身のアイデンティティティーを、今日はロマ書の1章1節のパウロの自己紹介の言葉を通して、改めて問われた思いがします。
  • 神さま、どうか私たちに、私たち自身がキリストの者であることをより明確に自覚できるようにさせてください。そのことによって、ただ社会の現実を嘆くだけではなく、互いに助け合い、支え合う、あなたの望みたもう社会の構成員の一人として生きることができるように、私たちを導いて下さい。
  • 神さま、新型コロナウイルス感染がなかなか収まりません。そのために苦しむ人を支えてください。また、このウイルスと私たちは今後長く共存しながら生きていかなければならないと思われます。その道を切り開くことができるようにお導き下さい。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌   418(キリストのしもべたちよ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-418.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。