なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(2)

以下は、6日の日曜日早朝、この日の礼拝式と説教原稿を教会員他に配信するメールに書いたものです。

 

皆さまへ

 

おはようございます。

最近は説教づくりで徹夜になることはほとんどありませんが、

今日は徹夜になってしまいました。

しかも引用が多くなってしまいました。

ロマ書はなかなか難しそうです。まだ2回目ですが、

途中で断念しないように、

何とか最後までたどり着ければと思っています。

今回引用が多くなりましたが、お許しください。

これから少し寝ます。

新しい週の皆さまお一人お一人の健康と歩みの上に主の支えをお祈りいたします。

                   北村 慈郎

 

6月6日(日)聖霊降臨節第3主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう

(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃美歌    4(世にるかぎりの)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-004.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文    詩編25編1-11節(讃美歌交読詩編26頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書   ローマの信徒への手紙1章2-4節(新約273頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  290(おどり出る姿で)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-290.htm

 

説教     挨拶―その2「この福音は」     北村慈郎牧師

 

  • パウロは手紙の発信人である自らを、「キリスト・イエスの奴隷、使徒として召された(者)、神の福音のために選び出された者」(1節)であると言い表しました。

 

  • 通常の手紙の書き出しの挨拶では、すぐに7節の≪神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ≫と、宛先である受信人が記されます。そして≪わたしたちの主イエス・キリストと父なる神から、恵みと平安があなたがたにあるように≫という祈願の言葉で、挨拶が終わります。これが当時の手紙の挨拶の一般的な三要素(発信人・受信人・祈願)になります。

 

  • ところが、ロマ書では発信人である自らを紹介する言葉(「神の福音のために選び出された者」)の中にある≪神の福音(「神の救いの音ずれ」)≫を受けて、≪これ(神の福音)は、・・・≫と、挨拶としては異例でありますが、福音の内容を説明する言葉が付け加えられているのであります。それが2-4節になります。

 

  • ロマ書は、パウロが未知なる教会であるローマの教会に宛てて書いた手紙です。その手紙を書いた目的は、ローマの教会の人たちと神の福音を共有するとともに、ローマの教会の支援を得て、未開の地イスパニア(スペイン)に神の福音を宣べ伝えるためでした。
  • 神の福音を全世界の人に宣べ伝えることを、パウロ使徒として召された自分の果たすべき責任であると信じていたからです。ロマ書をパウロが書いたときには、パウロは、地中海世界の中でイスパニアにはまだ福音が宣べ伝えられていないと思っていたようです。自分がイスパニアに行って、神の福音を宣べ伝えるのだという熱い思いをもって、未知の教会であるローマの教会の人たちに、このロマ書を書いたのです。

 

  • パウロは挨拶で、自分が選び出された(別たれた)のは福音のためであると言って、福音という言葉が出て来ると、たとえ簡単でも、その内容にふれないではおられなかったのでしょう。なぜなら、一口に福音と言っても、人によってその思い描く福音の内容が異なることがあるからです。パウロは、特にガラテヤの諸教会をはじめ多くのところで、異なる福音との闘いというまことに苦い経験をしているのです。ですから、余計慎重にならざるを得なかったのでしょう。殊に、ローマの教会は、彼がまだ訪ねたことのない教会です。先方も、パウロはどういう人物であろうかと心配しているでしょうし、こちらも誤解されたくないからです。

 

  • さて、福音についての説明はまず、≪この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので≫(2節)あったということであります。これによりパウロは、福音の使信は真に信頼できるということを強調するのであります。福音は僥倖、偶然に生まれた幸運ではありません。聖書(旧約聖書)の中で預言者によって約束されていたものの成就であります。旧約聖書全体がキリストを指し示しているとパウロは理解しているのです。

 

  • 神があらかじめはっきりと定め、一つの目的をもって貫かれたものであるということです。福音は、何よりも動かない確かさを持っているのであります。なぜならば、それは、神の長い計画によるものだからであります。それが成就されたものが、福音であるからであります。
  • 3節aでは、2節を超えて、1節の「神の福音」が「御子に関するものです」と言われています。≪この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです≫。「福音は、聖書にあらかじめ語られている、その聖書の内容は、理論や説明や教理ではなくて、一つの事実」であるイエス・キリストという人物のこと、その十字架の死と復活という事実のことであります。それゆえ、福音について語ると言うことは、御子について語ることになるのです。ですから福音を知りたいと思えば、この人物を知らなければなりません。一人の人物を知るということは、その人を愛すること、あるいはその人に愛されることであります。

 

  • 事実、パウロは、キリストに愛せられキリストを愛し、目に見えない主をいっそう愛する生活をしている、と確信していたのであります。『生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしが今肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである』(ガラテヤ2;20)と言うはずであります。パウロは、フィリピの信徒へ手紙に、自分の本当の願いを言えというなら、『この世を去ってキリストと共にいること』であって、『実は、その方がはるかに望ましい』(1:23)と言っています。これは神の御子に対する愛がなみなみならぬことを、示しています。言い換えれば、彼が、どんなに強烈に、御子をこそ、自分の真の福音であると思っているか、ということが分かるのであります。

 

  • この「御子」は、4節末尾で「この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」と言い表されます。

 

  • 「わたしたちの主イエス・キリスト」。バルトは、「それが救いの音ずれである。それが歴史の意味である。この名において二つの世界が出会い、わかれる。既知と未知の二つの平面が交わる。既知の平面とは、神によってつくられたが、その根源的な神との一致から脱落し、そのために救いを必要とする『肉』の世界、人間と時間と事物の世界、つまりわれわれの世界である。この既知の世界が、もう一つ別な未知の平面によって、父の世界、すなわち根源的な創造と究極的な救いの世界によって切断されているのである。しかし、われわれと神との、この世界と神の世界とのこの関係は認識されることを求める。両者の切断線を見ることは、自明のことではない。・・・見られるはずの、また現に見られる切断線上の一点が、イエスである。ナザレのイエス、「歴史的」イエス、『肉に依ればダビデの子孫から生まれた』イエスである。歴史的規定としての『イエス』とは、われわれにとって既知の世界と未知の世界との間にある断絶点を意味する・・・」と、『ローマ書講解』の中で記しています。

 

  • 難しい言い方かも知れませんが、要するに人として生まれたイエスは、「神によってつくられたが、その根源的な神との一致から脱落し、そのために救いを必要とする『肉』の世界、人間と時間と事物の世界、つまりわれわれの世界」で、われわれと同じ人間として生きて、神の国の宣教と病者の癒しを通して、「この既知の世界が、もう一つ別な未知の平面によって、父の世界、すなわち根源的な創造と究極的な救いの世界によって切断されている」断絶点であるというのです。この断絶点であるイエスを通して、私たちは無自覚にこの現実社会を生きるのではなく、この現実社会がいかに的を外しているかにに気づき、神の救いを希求して生きる者へと導かれるのです。

 

  • 「イエスは『かれの死人からの復活により、その力をもって神の子と定められた』。かれがこのように定められたということがイエスの真の意味であるが、もちろんそれをそのまま、まったく歴史的に規定することはできない。キリストすなわちメシアとしてのイエスは、時のおわりである。・・・キリストとしてのイエスは、われわれにとって既知の平面を、上から垂直に切断するわれわれにとっての未知の平面である。・・・キリストとしてのイエスは、歴史的可視性の範囲内ではわれわれはなにも知りえず、なにかを知ることもないであろう父の世界をもたらす。・・・しかし死人からの復活は、転回点であり、上からあの一点を『定めること』であり、それと対応した下からの洞察である。復活は啓示であり、キリストとしてのイエスの発見であり、かれにおける神の出現と神の認識であり、神に栄光を帰し、イエスにおいて未知の者、見えざる者を予期する必然性の生起、イエスを時の終わりとして、逆説として、原歴史として、勝利者として承認する必然性の生起である。復活において、聖霊の新しい世界が肉の世界と接触する。しかしそれはまさに、接線が円に接するように、接触することなしに接する。まさに接触しないことによって、その限界として、新しい世界として接する。・・・むしろ、われわれに接触しないことによって、キリストであるイエスにおいてわれわれに接するのは、創造者、救済者である神の国である。この国は現実的なものとなった。この国は近づいた(3:21以下)。・・・このようなイエス・キリストが「われわれの主」である。世界とわれわれの生の中にかれが現臨することによって、われわれは人間としては廃棄され、神の中に基礎づけられ、かれを仰ぎみることによって静止しまた動かされ、待ちこがれる者である。かれがパウロとローマ人たちの上に主として立つからこそ、「神」はローマ書においては空虚な言葉ではないのである」(バルト)。

 

  • バルトの『ローマ署講解』からの引用が長くなりましたが、お許しいただきたいと思います。ロマ書1章の2-4節の個所でパウロが何を言いたかったのかを、聖書を何回も読んで自分なりに考え、またいろいろなロマ書の註解や講解を読んでみましたが、表現は少し難しいかも知れませんが、この個所のバルトの『ローマ書講解』が一番私の心に響きました。たまたま今はコロナウイルス感染防止のために、会堂での話し言葉による説教ではなく、メール配信による文字原稿による説教ですので、バルトの引用は難解かも知れませんが、何度か読み直して少しでも理解していただけたら幸いに思います。

 

  • 神の福音のよき音ずれは、「わたしたちの主イエス・キリスト」(4節)であるということを、改めて心に留めたいと思います。「主」とはギリシャ語でキュリオスです。「わたしたちの主イエス・キリスト」という告白定型句の背景には、ヘレニズム的神秘宗教における主(キュリオス)礼拝があったと言われています。原始キリスト教団はこのキュリオス礼拝を取り入れたと考えられています。具体的には礼拝において福音の告知に応えて「イエスはキュリオスである」という歓呼の叫びを挙げたというのです。この「イエスはキュリオス」の歓呼は、礼拝において現在し給う「キュリオス」を崇拝するというニュアンスが強いのです。他方それとは独立に、初代教会には最初からアラム語の「マラナ・タ」(主よ、来たり給え)という祈りがありました。これは来るべき人の子、世界の裁き主として到来する主への祈りです。パウロが「主」(キュリオス)と言うとき、この両方が含まれます。・・・この「現在」と「将来」の緊張があってこそ、パウロの言う「主」キュリオスは、単なる現在的なキリスト教的祭儀神になり終わりませんでした。むしろパウロは、キリスト教会の主を異教世界の諸々の主と対立させ、宇宙の支配者として明示しました(ケーゼマン)。第一コリントの手紙8章5-6節で、パウロは次のように言っています。

 

  • 「現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです」。

 

  • この福音のよき音ずれを大切にして、主でないものを主とすることのないように、「わたしたちの主イエス・キリスト」を信じて生きていきたいと思います。

 

祈ります。

  • 神さま、今日も教会で皆が集まってする礼拝はできませんが、このようにメール配信によって共に礼拝にあずかることができ、感謝します。
  • 今日は、あなたから私たちすべてに与えられています、あなたのよき音ずれである福音についてのパウロの説明から、あなたの語りかけを聞きました。端的に言えば、あなたの福音は「わたしたちの主イエス・キリスト」です。
  • 私たちはこの福音について聞いていますが、もしかしたら右の耳から左の耳へ抜けていくような仕方で聞いてしまっているのかも知れません。パウロが、「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである」と言っていますが、それほどのイエス・キリストとの一体化が、私たちの中にあるとは思えません。
  • 神さま、どうか私たちがイエス・キリストを通して示されているあなたの真実に向かい合って生きることができますように、私たち一人一人をお導き下さい。
  • 長引く新型コロナウイルス感染の恐れと不安の中で、命と生活が脅かされている人々も多くなっています。どうかその一人一人が支えられますように。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌   271(喜びはむねに)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-271.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。