なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒へ手紙による説教(8)

 日曜日の説教ではローマの信徒への手紙をテキストにしています。パウロの手紙はガラテヤの信徒への手紙以来久しぶりですが、悪戦苦闘しています。バルトの引用が多くなっていますが、ご容赦ください。一週遅れになりますが、18日(日)の礼拝式と説教原稿を掲載します。

 

7月18日(日)聖霊降臨節第8主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」          (ローマ5:5)

③ 讃美歌     12(とうときわが神よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-012.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編102編16-23節(讃美歌交読詩編110頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙1章22-32節(新約274頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  51(愛するイェスよ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-051.htm

⑨ 説  教   「人類の罪 その結果」  北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • 前回と今回の説教題は「人類の罪、その原因」「人類の罪、その結果」としましたが、「人類の罪」というところは、新共同訳聖書の表題を安易に借用してしまいました。ローマの信徒への手紙のこの部分は「人類の罪」ではなく「異邦人の罪」が記されているところでありますので、「人類の罪」を「異邦人の罪」に訂正させていただきます。ただ異邦人の問題は、異邦人だけの問題ではありません。人間そのものの問題でもありますので、その点は踏まえておきたいと思います。

 

  • エレミヤ書2章5節にこのように語られています。≪主はこう言われる。/お前たちの先祖は/わたしにどんなおちどがあったので/遠く離れて行ったのか。/彼らは空しいものの後を追い/空しいものとなってしまった。≫と。

 

  • これは預言者エレミヤがイスラエルの民に語った言葉ですが、パウロがロマ書1章18節から32節までで語っている異邦人についても同じことが言えるのであります。そしてまた、今日のわれわれの時代の人間についても同じように言えるのではないでしょうか。神から遠く離れ、空しいものを追い求め、空しいものになってしまっていると。

 

  • パウロはロマ書1章18節以下で、異邦人の罪の原因を、神の怒りの下に明らかとなっている神への不敬虔(不信)と不服従(不義)であることを示し、21節で、≪なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです≫と語りました。さらに<彼らは智者であると称しながら、自己を愚か者とし、また、愚か者とし続けている>(22節)と、異邦人の人間として倒錯した罪の現実を語っているのであります。

 

  • その倒錯した人間の罪を最もはっきりと現わしているのが、神でないものを神として拝む偶像崇拝であります。≪滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです≫(23節)。

 

  • さきほどのエレミヤ書のもう少し先を読みますと、こう書いてあります。≪一体、どこの国が/神々を取り替えたことがあろうか/しかも、神でないものと。/ところが、わが民はおのが栄光を/助けにならぬものと取り替えた。/天よ、驚け、このことを/大いに、震えおののけ、と主は言われる。まことに、わが民は二つの悪を行った。/生ける水の源であるわたしを捨てて/無用の水溜めを掘った。/水をためることのできない/こわれた水溜を。≫(2:11-13)。

 

  • エレミヤの時代と、パウロの時代と、今日のわれわれ時代との間には、何もちがいがないようです。パウロは、まるで、エレミヤの言葉にならって、書いたように見えます。自らの知恵を過信し、神を軽蔑する者は、神を、神でないものと取り替えてしまう、というのであります。

 

  • クランフィールドも、23節の偶像崇拝の箇所のところで、<ますます醜い姿〔形〕で次々と現れる偶像崇拝が、現代世界のすべての先進諸国民の生の著しい特徴であることは、おそらく改めて言うまでもない>と言っています。

 

  • 日本を含めた現代の世界の先進国の中で、「ますます醜い姿〔形〕で次々に現れる偶像崇拝」とは、グローバル・サウス(「途上国」)の人々からの搾取の上に先進国の人間が求める豊かさであるさまざまな物や資本(金)を意味していると言えます。物や資本を神の如くに崇拝する偶像崇拝が、現代の先進諸国民の生の著しい特徴であることは、改めて言うまでもないと、クランフィールドは言っているのです。しかし、福音の光によって自らを省みることなく過ごしている人々が、自分たちの生の著しい特徴が偶像崇拝であると自覚できるでしょうか。自覚しないまま偶像崇拝に陥っているのではないでしょうか。

 

  • 25節では、このような偶像崇拝をする者(異邦人)に対して、≪神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです≫と言っています。このような偶像崇拝者を、エレミヤは痛烈に批判して、先ほど引用したところで、彼らのしていることは、生ける水の源を捨てて、自分で水溜を掘って、そこに水をためておくようなものである、と言っているのであります。しかも、その水溜は、壊れていて、水を溜めておくことのできないような状態にあると言うのです。愚かしいと言えば、これほど愚かしいことはありません。

 

  • しかし、頼むべからざるものを頼み、信ずべからざるものを信じ、礼拝すべからざるものを礼拝している者は、このような逆立ちした生活にならざるを得ないということも事実です。自覚しないまま偶像崇拝に陥っている者の危機的な状況が、「生ける水の源を捨てて、自分で水溜を掘って、そこに水をためておくようなものである」と言われているのです。

 

  • 神ならざるものを神として生きる者の具体的な生きざまを、パウロは24節から32節で詳しく述べています。この個所には3度、神が何々に「引き渡した」という、パレドーケンという動詞が出てきます。24節、26節、28節です。新共同訳では、24節、26節では「任せられ」たと訳し、28節では「渡され」と訳していが、原語は三つとも同じパレドーケンです。田川建三さんは三か所とも「引きわたした」と訳しています。

 

  • 24節は田川訳ではこのようになっています。≪それゆえに神は、自分たちの心の欲望のうちに〔捕らわれた〕彼らを穢れへと引き渡し、彼らのからだを互いに辱めるがままにされた≫。

 

  • 26,27節も田川訳で読んでみたいと思います。≪このことの故に神は彼らを恥ずべき情へと引きわたした。だから彼らの女たちは自然な用い方を変えて自然に逆らうものとなし、男たちもまた同様に女の自然な用い方を捨てて、男どうしに対する情欲の中で燃えさかった。男は男に対してみっともないことをはたらき、その過ちにふさわしい報酬をみずから手にしたのである≫。

 

  • 24節、26節の二つの「引き渡し」によって生じる人間の罪は、人間の性の問題として記されています。24節の≪彼らのからだを互いに辱めるがままにされた≫とは、倒錯した性行為を意味しているものと思われます。倒錯した性行為は、現代のように写真とかビデオという媒介をもたない古代人にとっては、直接にお互いのからだを辱め合う形を取らざるを得なかったということでしょうか。

 

  • 26節、27節は、<24節で指摘された倒錯した性の乱れを具体的に述べたもので、異教世界における同性愛の慣習に触れています>。川島重成さんは、<同性愛をギリシャ文化の内側から見るとこのように一概に否定できないものであると、わたしとしては認めざるを得ない>と言い、<かのプラトンの『饗宴』においてソクラテスが解き明かす美のイデアを求めて高く上昇していくエロースの道も、同性愛と切り離しては考えられない>言っています。

 

  • けれども<ヘレニズム文化の生活様式を即座に嫌悪するユダヤ教の伝統にまったく依存している>(ヴィルケンス)、<極度な同性愛嫌悪者である>(田川建三パウロは、ここで、同性愛を自然の関係に反することとして糾弾しているのであります。

 

  • このような同性愛を性的倒錯の代表例のように見るパウロのこの見方は、現代の私たちには受け入れることはできません。ですから、この聖書のパウロの同性愛観を、聖書に書かれているからと言って絶対化することは避けなければなりません。ただパウロは同性愛を性的倒錯の代表例として見ていたということは、このロマ書の箇所から否定できません。

 

  • 三番目の「引き渡し」は28節です。ここも田川訳で読んでみます。≪そして、吟味検証して神をしっかり認識することをしなかったから、神は彼らを検証されていない精神へと引きわたした。その結果彼らはふさわしからぬことをなすようになったのである≫。そして29節から31節までに、≪ふさわしからぬこと≫が列挙されているのであります。

 

  • ≪すなわちあらゆる不義や邪悪や貪欲や悪に満ちあふれ、妬みや殺人や争いや謀りや悪辣でいっぱいになり、中傷し、そしり、神を憎み、増長し、思い上がり、好き勝手で、悪をねつ造し、親に逆らう≫(田川訳)。

 

  • クランフィールドは、この「引き渡し」における<パウロの趣旨は、神は—―人間が神の真理に背を向けた生の空しさを憎むことを学ぶべく――故意に彼らに自分たち自身の道を行かせた〔「引き渡した」〕という点にある。これは、癒すために撃つ(イザヤ19:22)神の裁きと憐れみの行為であった。彼らが神を見捨てているその間、神は絶え間なく彼らに関心を抱きかかわりを持ち続けている>と言っています。

 

  • またバルトの長い引用をもって終わりたいと思います。<これらの節の暗示全体を、次の本質的命題の実に驚くべき例証として理解してほしい――しかしもとより例証にしかすぎないのだが――。その本質命題とは、異邦人が神に対する畏敬を失い、また叛逆的であり、それゆえに神の怒りのもとにあるのは、彼らが真理を抑圧しているからであり、真理を虚偽ととりかえたからであり、創造者と被造物との間のかの交換を自分に許し、また行ったからであり――その愚かさにおいてではなく、その賢さにおいて、悪意においてではなく、彼らが可能な最善なものにおいて、また最善なものによって、その人間性の低さにおいてではなく、高さにおいて――神の王座に手をかけることを行ったからにほかならぬということである。彼らがこれらのことをなすゆえに、そこから必然的に――神ご自身の反動に基づいて必然的に――、ほかのすべてのこと、すなわち概念の平易な意味における罪やさまざまの罪も生じて来るのである。すなわち、彼らが創造者を創造者として実際的には否定し涜(けがす)すことによって、自分でも、その無にしか価せず、死にしか価しないことを知っているすべてのことが生じ、また、それにもかかわらず自分にも、他人にも、許し、認めざるをえないすべての悪が生じて来るのである(32節)。/注意せよ。パウロは「異邦人」とか「ギリシャ人」、「ローマ」という言葉を、これらの文脈の中で決して語っていない。だが実際彼がその方向を注目していたということは、先の方を読むと分かる。そこでは、こことは対照的に、はっきりと、ユダヤ人について語り、そこから1:18-32をふり返っている。かくして、ここで事実上、特に彼の眼前に置かれているものは異邦人にほかならない。だが異邦人においてさえ、問題は端的に人間そのものなのである。福音に直面させられる場合、人間について第一に語られるべきことが、ここで語られていることなのである。人はここから出発してもう一度、パウロが福音を恥とる必要がないということを理解するであろう>。

 

祈ります。

  • 神さま、今日も教会で皆が集まって礼拝をすることができ、感謝します。
  • 神さま、今日はロマ書から、あなたを神として崇めず、己を神とする、私たち人間の倒錯が、さまざまな悪と道徳的腐敗を生みだしている、私たち人間の現実を、突き付けられた思いがします。けれども、その倒錯した私たちの現実のただ中に、イエスが来られ、十字架にかけられて殺されたこと、そして復活したことも、同時に思わざるを得ません。パウロと共に、その福音を恥としないで生きていくことができますように、私たち一人一人をお導き下さい。
  • 神さま、新型コロナウイルス感染が再拡大しています。ワクチン接種も、日本では、まだ高齢者だけで、若い人々にまでは及んでいません。その中でオリンピックがもうすぐ強引に開催されようとしています。1年半にわたる新型コロナウイルス感染防止の取り組みの中で、人に行動の抑制を促す、人流を抑える施策だけでは、新型コロナウイルス感染拡大が抑えられない状況にあります。どうか国も自治体も、科学的知見に基づいた施策を実行できますように、お導き下さい。
  • 新型コロナウイルス感染拡大で苦しんでいる方々に、また、豪雨による被害で苦しむ人々に、しかりとした支援の手が差し伸べられますように、お導き下さい。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌   306(あなたもそこにいたのか)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-306.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。