なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒へ手紙による説教(15)

皆さまへ

 

おはようございます。

今回も配信が遅くなり申し訳ありません。

また、説教もぎりぎりまでまとめられず、

引用が多くなりましたが、ご容赦ください。

ロマ書は難しいです。

新しい一週のみなさまのお一人お一人の歩みの上に

主の支えを祈ります。

                北村 慈郎

 

9月5(日)聖霊降臨節第16主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでH俊江さんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」          (ローマ5:5)

③ 讃美歌      224(われらの神 くすしき主よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-224.htm 

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編147編1-7節(讃美歌交読詩編160頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙3章9-20節(新約276頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   456(わが魂を愛するイエスよ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-456.htm

⑨ 説  教  「全ての人は罪の下にある」        北村慈郎牧師

  祈  祷

  • 人間はみな平等につくられている、と言われます。しかし、実際にはそうは感じられないことが多いのではないでしょうか。民族や生まれによって、私たち人間はみな違っていますし、とても平等とは言えない現実が多いのではないでしょうか。今タリバンが制圧したアフガニスタンに住むアフガニスタン人と私たち日本人とでは、政治的にも、経済的にも大変大きな違いがあるでしょうし、決してアフガニスタン人と日本人は平等であるとは言えないのではないでしょうか。同じ日本人同士におきましても、それぞれの能力の違い、経済力の違いによる不平等な現実が多々あって、決して人間はみな平等につくられているとは言えません。

 

  • ところが、今私たちが説教のテキストにしていますロマ書では、人間の平等論が問題になっているわけではありませんが、パウロは「全ての人は罪人である」と言っているのであります。罪人であることにおいて、人間はみな平等であると言うのです。その点では一人の例外もないと言うのです。特に今日の箇所のロマ書3章9節から20節において、そのことが語られているのであります。

 

  • この3章9-20節は、2章1節以下のユダヤ人の罪について記されている最後の部分になります。

 

  • 9節は直接には3章1節と対応しています。1節で「ではユダヤ人の長所は何か」(田川訳、以下聖書引用は同)とパウロは問いかけ、続く2節では、ユダヤ人の長所は「あらゆる点で、多くある」と述べています。それに対して、ここ9節前半では、「ではどういうことか。我々(ユダヤ人)は優位にあるのか」と問いかけ、「必ずしもそうではない」と答えています。

 

  • ほぼ同じユダヤ人の優位性についての問いに対して、1節では「あらゆる点で、多くある」と答え、9節では「必ずしもそうではない」と答えているのですから、ある面で矛盾しています。この3章1節と9節前半について、川島重成さんは<これは矛盾であって矛盾ではない>と言って、このように述べています。

 

  • パウロの歴史を見る眼はいわば複眼的である。ユダヤ人は救済史の特権を与えられた、何よりも律法を与えられた聖なる民であった。しかし同時に彼らも神によって創られた人類の一員にすぎない>と。

 

  • そして9節前半で言われたことが、9節後半で「すでに我々が非難したように、ユダヤ人もギリシャ人もみな罪のもとにある」と説明されているのであります。

 

  • パウロは、1章18節から32節で異邦人について、また2章ではユダヤ人について、彼らの罪を指摘しました。ですから、ユダヤ人も異邦人も、全ての人がことごとく罪の下にあることを既に指摘したと言っているのであります。

 

  • ユダヤ人と異邦人、人間自体は、すべて罪のもとにある。すなわち彼らは皆、罪の支配のもとにあるものとして、今もこれからも、神の怒りの対象でしかないものである>(バルト『ロマ書新解』)と言うのです。

 

  • この罪の支配下に引き渡され、従って神の怒りの下にあるというのが世界の現実であると言うのです。その人類普遍の現実をパウロは、10節以下18節までで、詩編イザヤ書からのいろいろな成句(七十人訳)を組み合わせた、おそらく原始キリスト教で用いられた成句集から引用することで、明らかにしているのです(川島重成)。

 

  • 10節後半「義人はなし、一人だになし」は主題の呈示であり、9節後半「すでに我々が非難したように、ユダヤ人もギリシャ人もみな罪のもとにある」の内容をそのまま受けついでいます。つづく11節「賢い者はいない。神を探し求める者はいない」と、最後の18節「神の恐れが彼らの眼の前になかったのだ」は、神と人間の関係の破綻を表現し、その中間に神から離れた人間の昔も今も変わらない悲惨な現実、罪の具体的な種々相がなまなましく描かれています。

 

  • 「12:すべての人が(道から)はずれて、役立たずになっている。良いことをなす者はいない。ただ一人だにいない。13:彼らの喉は開いた墓。彼らはその舌で人を欺いた。彼らの唇の奥には蛇の毒。14:その口は呪いと苦みに満ち、15;その足は血を流すのに速く、16:破壊と悲惨がその道にある。17:そしてかれらは平和の道を知らない」(12-17節、)。

 

  • 13節、14節は、「喉」「舌」「口」とありますように、いずれも口に関係する言葉ばかりです。それに続く15節、16節、17節は、「足」「道」などで、こちらは足に関係があることです。つまり、ここでは、口と足のこと、語ることと歩くことだけが書いてあるわけです。人間の罪は、人間の生活のどこにでもあるかぎり、どこにでもあるはずですが、ここでは、代表的なおおきなことを、二つが取り上げられたのでしょう。人間の生活は、ある意味でこの二つによって代表されていると言えます。それにしても、口と足との生活が、墓とか、血を流すとか、破壊と悲惨という最大級の恐ろしいことが、われわれの最も日常的なこと、口と足との生活と結びつけられているのであります。

 

  • まず第一に口の生活であります。口の生活は、どんなにでも変えることができるのが、その特徴です。何かを言っても、口を拭って、知らん顔をしていることもできます。そういう不信は、口の生活が代表している人間の生活の特徴であるかも知れません。しかも、風のようにつかまえどころのない息を用いながら、舌は、どんな武器よりも、強力に働くのであります。口はわざわいの元であります。それは、口が不幸を招くことを言うのでしょうが、また、口は、不幸を撒き散らすものであります。世界の平和を語る口の下から、その同じ口で、同僚の悪口を言い、他の人を中傷することは、何とも思っていないのであります。「わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている」のであると言って、ヤコブの手紙は、口の恐ろしさを語っています(3:1-12)。そこでパウロも、それを、開いた墓のようだ、と言うのです。開けっ放しになっている墓は、見るに耐えないような無残なものでありましょう。そこからは、臭気が、相次いで出て来るでしょう。ひとつのことを言う前に、自分のことを考えてみれば、言わないですむことなのに、臭気がたちのぼるように、後から後から出て来るのではないでしょうか。

 

  • 口から出て来ることは、悪口ばかりとは限りません。われわれの口は、平気で、心にもないお世辞が言えるのであります。お世辞は人を陥れるようなことはないと、言えるかも知れません。しかし、お世辞であるかぎり、その裏には、まむしの毒のようなおそろしいものがあるわけであります。心の中とは全く違ったものが出て来るという、鼻もちならない事情が起こるのであります。われわれは、小さな一つの中傷の言葉、心なき悪罵、無責任な放言のために、幾度、眠りがたい夜を過ごしたことでしょう。しかも、同じことを他の人に対してしながら、少しも気が付かないで過ごしていることも、どんなに多いか分からないのであります。われわれはそんなことをするつもりは、少しもないように思っているのであります。しかし、われわれの中に腐った心があって、弁解しようもない事態を造り出しているのであります。

 

  • 次に、足であります。われわれの足は血を流すに早く、その行くところ破壊と悲惨とがあり、平和の道を知らない、というのです。これは、少し大げさな言い方でしょうか。人間の進ところには、もっと輝かしい、香り高い生活もあるのではないでしょうか。少なくとも、この見方は、一面的に過ぎないでしょうか。しかし、口でさえ、先ほど見たとおりの状態であります。また、口では凄いことを言っても、行動はそうではないとも言えるかも知れません。しかし、もしそうであれば、足は、口で言うほどの善いこともできない、ということもできましょう。足は、少なくとも、この舌をのせて、到るところに歩いて行くというのが真相ではないでしょうか。足は、口と手と頭と体とを運んでいって、恐ろしい生活を展開させると言えるのであります。

        (口と足については竹森満佐一による)

 

  • ここまで読んで、10節にかえると、その意味がはっきりしてくるのであります。「義人はなし、一人だになし」というのが、ここでの一切の結論であります。ユダヤ人もギリシャ人も、誰も区別はない、義人は一人もいない、というのであります。

 

  • 19節~20節は、2章1節以下全体の締めくくりになります。

 

  • まず19節前半「我々は知っている、律法は律法の中にいる者たちに対してものを言っているのである」は、10節~18節の律法としての聖書の告発が、律法の下にいる人々(ユダヤ人)に向けられたものであることを確認します。ユダヤ人が律法の支配領域の中に生きる場所を与えられた特別な宗教的人間、敬虔な人間であることを改めて確認しているのです。

 

  • 19節後半「すなわち、すべての口がふさがれ、全世界が神に対して裁きに服するのである」は、その律法による告発の背後にある神の目的を示しています。「つまり律法が直接に語っていたのはユダヤ人に向かってでありますが、ユダヤ人を介して全世界が神のまなざしの下に収められていたことがここで言われているのであります。

 

  • ユダヤ人はその宗教性において全人類の代表なのです。宗教的人間としてのユダヤ人の罪は、神から与えられた律法のゆえに自己を誇り、他を裁くことでありました。このユダヤ人を典型とする宗教的人間の問題性とは、自己を世界の中心に位置づけようとするところにあります。

 

  • 19節後半は全世界が口をふさいで神の義の支配に服すること、つまり飽くなき自己追求の苦しみから解放されて、全世界が創造主なる神との関係で本来の人間の位置を回復することが、律法を介して示された意図であったと言われているのです。

 

  • この19節後半の目的からして、20節前半「だから、律法の業績からではいかなる人間も神の前で義とされることがない」の言明は不可避となります。20節前半のうち「いかなる人間も神の前で義とされることがない」は詩編143篇2節からの引用であります。それにパウロは決定的な語句「律法の業績からでは」を付け加えたのであります。

 

  • ユダヤパウロがこのように徹底して律法の業による救いを否定しえたのは、今彼が律法とは相容れないイエス・キリストの福音にあって、かつてのユダヤ教時代の自分の誇り高きありよう、律法への熱心、それによる自己の義の追求の姿を「塵あくたと見なしてい」る(フィリピ書3章8節~9節)からであります(川島重成)。

 

  • それでは律法の機能は何だったのでしょうか。20節後半でパウロはそれを「罪の認識」をもたらすことだけだと言うのです。「律法によって生じるのは罪の認識だからである」と。律法は罪を罪としてあらわにするだけで、すべての人が罪を犯したと言われる、その誰をも救う力はない。かくして「キリスト以前の、かつキリストの外なる敬虔な者たちの道そのもが絶望的であることが明らかに」されるのであります。

 

  • バルトは、「神とその律法の前に義とされて立つものがあるとすれば、それは別の人間性、根本的に更新された人間性でなければならぬであろう」と言って、「パウロは2:14-15と2:26-29でそのような新しい人間性が存在していること、またどこでそれが見いだされるかということをすでに暗示した」と言っています。

 

  • 「もしも律法を持たない異邦人がおのずと律法のことを行なうのであれば、律法を持たなくても自分が自分にとって律法なのである。彼らは律法の業が自分たちの心に記されているということを示している。そのことを彼らの良心が証言する。互いに告発したり弁護したりする彼らの議論もまたそのことを証言する」(2:14-15)。

 

  • 「だが、無割礼(の者)が律法の義の規定を守るならば、その者の無割礼は割礼へと算入されるのではなかろうか。そして、生まれながら無割礼で律法を全うしている者が、文字と割礼に依りながら律法の違反者となっているあなたを裁くことになる。すなわち、表面においてユダヤ人である者が(ユダヤ人)であるわけではなく、表面における、肉における割礼が(割礼)であるわけでもない。隠れたユダヤ人こそが(ユダヤ人)であり、文字における(割礼)でなく、霊における心の割礼こそが(割礼なの)である。それが誉められているのは人間によってではなく、神によってなのだ」(2:26-29)。

 

  • 「義人はなし、一人だになし」。「全ての人は罪人である」。その罪人である私たちが、神の怒りの下に、「この、神の断罪の啓示に身をゆだねることが、われわれの救いのために命じられており、われわれの豊かな慰めのために許されているのである」(バルト)。

 

  • そのことによって、罪人である私たちが、神による新しい人間性(キリストを着る)へと変えられることに希望を見いだしたいと思います。

祈ります。

  • 神さま、新型コロナウイルス感染拡大が収まりません。今日も教会で皆が集まって礼拝をすることができません。メール配信による自宅での分散礼拝になりますが、それぞれ礼拝をもって新しい週の歩みに向かうことができますようにお導き下さい。
  • 神さま、私たちが罪人であることを、聖霊をもって、どうぞ私たちに示してください。私たちはこの真理を十分に受け止められないまま、古き自己中心の己の死に、あなたが給うイエス・キリストの兄弟姉妹性を身に着けることが、中途半端になっているように思えてなりません。
  • 「みじめな人間なのだ、私は。この死の身体から私を救ってくれるのは誰か。我らの主イエス・キリストによって神に感謝」(田川訳、ロマ7:24,25)と、パウロと共に言えるように、私たちをお導きください。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌      559(見よ、世はすべて)

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。