なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(17)

皆さまへ

 

おはようございます。

今回は徹夜を回避し、昨夜はよく眠れました。

ただロマ書の説教が難産であることは変わりません。

みなさまコロナのことで、いつも気分が晴れないと

思いますが、くれぐれも一日一生を大切に

お過ごしください。

 

新しい一週の皆さまお一人お一人の歩みの上に

主の支えをお祈りいたします。

 

             北村 慈郎

 

9月19(日)聖霊降臨節第18主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」          (ローマ5:5)

③ 讃美歌      432(重荷を負う者)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-432.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編119篇33-40節(讃美歌交読詩編133頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙3章27―31節(新約277頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   390(主は教会の基となり)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-390.htm

⑨ 説  教  「信による義」         北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • 私たち人間が誇りを持つことは、そんなに悪いことではないように思われます。キリスト教界で「あの人は敬虔なクリスチャンだ」と言われる場合、尊敬を込めて言われていることが多いように思うのです。しかし、誇りを持つことによって、自分は正しい人間、立派な人間で、他の人とは違うのだという自己義認に陥ることもあります。

 

  • パウロの時代のユダヤ人は誇りをもつことによって自己義認に陥っていたと思われます。回心以前のパウロ自身がそうでした。前回も引用しましたが、フィリピの信徒への手紙3章で、パウロユダヤ教徒時代の自らを振り返って語っているところが、パウロの自己義認を物語っています。もう一度引用しておきます。

 

  • ≪わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤ民族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした≫(3:5,6)

 

  • ユダヤ教徒時代のパウロは、自己義認をもって他者であるキリスト者を迫害していたと言うのです。このような自己義認による人間の生き方は、自分の正義から外れている他者を裁き、場合によっては抹殺するという、恐ろしい行為を生み出します。

 

  • 古くはヨーロッパ列強による植民地支配によるアジア、アフリカ、南米の人びとへの仕打ち、日本では、関東大震災の時の朝鮮人虐殺、日本の侵略戦争時代の天皇制絶対主義によるアジアの人びとへの仕打ち、アメリカでも、白人による黒人差別、戦後のアメリカが仕掛けた戦争による犠牲者たち。これらの歴史的事象は、皆国家の自己義認によって生まれた悲劇と言えます。

 

  • 個々人の場合も同じです。自己義認による他者に対する抑圧差別は、身近な人間関係において至る所で起きていると言っても過言ではありません。場合によっては、殺人に結びつくこともあります。残念ながら、命が金銭で計られる価値観が蔓延している現代の社会では、生まれた子供が邪魔だから殺すということも起こり得るのでしょう。

 

  • たまたま9月17日にボンヘッファーの一日一章『主のよき力に導かれて』の当該箇所を読みましたが、そこにも自己義認について書かれていました。ボンヘッファーのこの文章の中では、もちろん自己義認を肯定しているのではなく、否定的に書いています。その文章を紹介させていただきます。

 

  • ボンフェッファーはこの文章でキリスト者の交わりについて書いています。最初に人間同士の相違についてこのように書いています。「強さや弱さ、賢さや愚かさ、才能の有無、敬虔や不敬虔などのような個々の人間のあらゆる相違は、真の交わりにおいて、決して、議論や、非難や、裁きを生み出すものではなく、それゆえにまた自己義認を生み出すものでもない。それらの相違はむしろ、お互いに喜びをもたらし、お互いに仕え合うことをもたらすものである」。

 

  • その交わりの中で、誰もがある定まった場所をもっていて、「その場所とは、一人一人の人間が最も効果的に自己主張することができる場所ではなく、最もよく奉仕をすることのできる場所である。・・・・キリスト者の交わりに属する者は、弱い者が強い者を必要とするだけではなく、強い者も弱い者なしには存在しえないということを知らなければならない。弱い者を排除することは、その交わりに死をもたらすことを意味する。自己義認――そこから暴力による支配が生じる――ではなく、恵みによる義認――そこから奉仕が生じる――が、キリスト者の交わりを支配しなければならないのである」。

 

  • このようにボンフェッファーは述べているのです。

 

  • 人間の誇りは、人間同士の相違において、才能があるとか、出自がいいとか、宗教者であるとかという自分の優位性を認めて、それを誇ることになるわけです。広辞苑では、誇りは「ほこること。自慢に思うこと。また、その心。」とあり、その用例として「誇りを持つ」「誇りを傷つけられる」とあります。

 

  • 誇りを持つ人は、その誇りが傷つけられると怒り、場合によってはその人に暴力を振るうこともあります。

 

  • 今日のロマ書の3章27節前半では、≪ではどこに誇りがあるのか。誇りはしめ出された≫(田川訳)と言われています。「しめ出された」は、「その可能性は排除された」ということであって、「人が誇る可能性は排除された」、つまり人が誇るということはあり得ないことなのだ、と言っているのです。

 

  • バルトは、『ロマ書新解』でこの27節前半をこのように解説しています。「27節a。誇りはどこに残されているのか。すなわち、自分は神の義の決断の届かぬところにいるのだ、と考えたい人間の誇りはどこに残されているのか。答え。それは排除されてしまっている。人間の栄光はイエス・キリストにおいて正当に回復されているものであるゆえ、イエス・キリストを離れて眺められた人間自体は、神の前に誇りうるようないかなる栄光も、したがって何ものも持たぬということは決定的である(23節)」。

 

  • 23節・バルト訳「すなわちかれらはみな罪を犯した、そして神の栄光をもたない」)」。

 

  • ここで、バルトは、「神の義の決断の届かぬところにいるのだ、と考えたい人間」とか「イエス・キリストを離れて眺められる人間」という言い方をしています。そのような人間が誇りを持っていると考えるのではないでしょうか。

 

  • けれども、罪人を義と宣する、イエス・キリストによる神の義という神の主体的行動の前に立つ者は、自分が誇りを持つなどということは考えられません。イエスの十字架において裏切り、否認し、逃亡した弟子たちが誇りを持てる人間だとは、到底考えられないからです。私たちは、イエスの前に自己中心的な自分のあり様を暴かれてしまいます。

 

  • 讃美歌306番「あなたもそこにいたのか」という黒人霊歌で歌われていますように、「あなたもそこにいたのか、主が十字架についたとき。ああ、いま思いだすと深い深い罪にわたしはふるえてくる」と、私たちは言わざるを得ない人間です。そんな人間である私たちは、自分のどこに誇りがあるでしょうか。どこにもありません。私たちには、誇りなどというものは「しめ出されており」、そもそも「人が誇る可能性は排除され」てしまっているのです。

 

  • そのことを受けて、27節後半でパウロは、自問自答しています。≪いかなる法によってか。業績の法か。否。信の法によってある≫(田川訳)と。ここで「法」と訳されているのはギリシャ語では「律法」と同じノモスです。「ノモスの語は法則、規則、秩序、規範、習慣など多義的に用いられてい」ます。

 

  • このところをバルトは、このように訳しています。≪いかなる律法によってか。行為の律法によってか。否、神の真実の律法によってである≫と。

 

  • 人が誇る可能性が排除されたのは、「信の法」=「神の真実の律法」によってであると、

パウロは言っているのであります。21節以下で語られた、イエス・キリストの生涯と死(十字架)によって、私たち人間の歴史に介入した神の主体的な行動としての神の義が、「信の法」=「神の真実の律法」であることが、28節で反復されています。≪すなわち我々が考えるには、人間は律法の業績なしで、信によって。義とされる。≫(田川訳)、≪なぜなら、われわれはこうおもうからである。人間が義と宣せられるのは律法の行為とは別に神の真実によってである≫(バルト訳)。

 

  • 田川さんは「人間は・・・信(この信はイエスの信です)によって、義とされる」と、バルトは「人間が義と宣せられるのは・・・神の真実によってである」と訳しています。

 

  • 先ほどボンフェッファーの一日一章からの文章を引用させていただきましたが、その中に、自己義認に対して「恵みによる義認」について記されています。このようにです。「・・・自己義認――そこから暴力による支配が生じる――ではなく、恵みによる義認――そこから奉仕が生じる――が、キリスト者の交わりを支配しなければならないのである」。

 

  • 28節の「信による義認」、「神の真実によって義と宣せられること」は、ボンフェッファーによれば「恵みによる義認」を意味します。そして恵みによる義認を生きる者には、そこから自己主張ではなく奉仕が生まれると言うのです。それぞれに与えられている違った賜物をもって、互いに仕え合うところに交わり、人間同士の連帯が生まれるというのです。それがキリスト者の交わりであり、キリストの体という全人的な共同体です。

 

  • 29節~30節は、27節~28節とやや違った角度から、しかし同じように律法の業績による義ではなく、信による義について語っています。その際、パウロユダヤ人の誇りとする唯一神論に基づいて、彼らの思い違いに反駁を加えているのであります。

 

  • 「あるいは、神はユダヤ人だけの神か。異邦人の神でもあるのではないか。異邦人の神でもあるのだ。もし神が本当に唯一であるなら。だから神は割礼(の者)を信から義とし、無割礼(の者)を信によって義とするのである」(29,30節、田川訳)。

 

  • 当時のユダヤ人は次のように考えていました。<神は唯一の神であり、万物の創造者であり、世界の支配者である。それゆえに確かにユダヤ人だけではなく、諸民族の神でもある。しかし自分たちユダヤ人は神と特別な関係を許されている。その意味では偶像崇拝者の神ではなく自分たちの名前と結びつけられて「イスラエルの神」と呼ばれる神である、と。この選民意識においては、「世界に代わって敬虔な宗教性の場が神の領域となる」(ケーゼマン)。パウロユダヤ教唯一神信仰を根拠に、救いを敬虔な者たちの特権としてしまう彼らの律法理解を打ちのめす。世界の創造者なる神は、異邦人の神でもあり、それは不敬虔な者、生来神なき者を救う神である。信仰は唯一の神を告白し、神のみがすべてを成し給うことを自己の救いの唯一の拠り所とする。それゆえ人間の自己賞賛を誘発する律法の業を救いの根拠とすることはありえない。信仰はユダヤ人と異邦人を分けていた律法、とりわけ割礼の有無を相対化し、絶対的だと思われていた民族の隔ての垣を克服したのである>(川島重成)。

 

  • <このことは言うまでもなく、現代のキリスト者への明確なメッセージを含んでいる。キリスト教会あるいはキリスト者は、イスラエルに代わり、非キリスト教的世界に対して自己を選ばれた者たちの集団として理解するようなことは断じてあってはならない。むしろイエス・キリストにあってだけ義とされた罪人、不敬虔な者として、同じ神に創られた者たる非キリスト教世界と連帯的であり、この世界が直面しているさまざまな問題に対して開かれた者でなければならない>(同上)。

 

  • 31節は30節までを受けて、≪では我々は信によって律法を無効にするのか。まさか、そんなことはない。律法を確立するのである≫(田川訳)と言っています。信による義は律法を無効とするのではなく、確立すると。

 

  • エスの信による義、神の真実による義に生きる者は、神がかく生きよという律法を満たすことができるのです。「恵みによる義認――そこから奉仕が生じる――」(ボンフェッファー)と言われていますように。

 

  • <信仰のあるところ神の真実がある。「誇り」がやむところに、「とりえ」(3:1)が始まる。そこに罪の赦し、救い、新しい創造がある>。ただそれは、私たちにとっては未知の可能性であって、バルトが言うように、<くりかえし――いつもくりかえし――ただ信じられうるだけなのであります>。

 

  • そのことを見失って、あたかも信仰を自分の所有物であるかのように思うならば、私たちはいつでも裁き主イエスによって裁かれる罪人に戻ってしまうでしょう。くりかえし、くりかえし信じることによって、私たちははじめて「赦された罪人」として、「イエスの信」「神の真実」「恵みによる義認」を生きることができるのではないでしょうか。

 

  • 神よ、私たちが赦された罪人として生きることができるために、日々命の霊である聖霊の風を私たちに送って下さい。アーメン。

 

祈ります。

  • 神さま、新型コロナウイルス感染状況がだんだん落ち着いてきてはいますが、今日も教会で皆が集まって礼拝をすることができません。メール配信による自宅での分散礼拝になりますが、それぞれ礼拝をもって新しい週の歩みに向かうことができますようにお導き下さい。
  • 神さま、今の時代、誇りをもって自己主張を貫く人間が目立って、そうでない人間はなかなか生きにくい社会であります。あなたの真実、あなたが私たちに派遣して下さったイエスの信によって生きることは、至難に思われます。けれどもあなたは奇蹟を起こしてくださる方です。私たちにイエスの信、神の真実、あなたの恵みを受け入れる信仰をお与えください。そしてすべての人の尊厳を大切にして、互いに仕え合っていく、イエスの切り拓いて下さった道を生きることができますように、私たち一人一人をお導き下さい。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌        505(歩ませてください)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-505.htm

 

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。