なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(23)

10月31(日)降誕前第8主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」          (ローマ5:5)

③ 讃美歌    11(感謝に満ちて)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-011.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編51編3-11節(讃美歌交読詩編55頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙5章3-5節(新約279頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌      511(光と闇とが)

 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-511.htm

⑨ 説  教   「患難を誇る」             北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • 「患難を誇る」とは、常識的には矛盾した言葉です。「患難」は、日常に私たちが経験する苦しみです。苦しみに出会うとき、通常私たちは、「なぜ私がこんな苦しみに会わなければならないのか」と不平をつぶやき、場合によっては、「なぜ神はこのように私を苦しめるのか」と神を呪ったりさえします。その苦しみである「患難を誇る」などということは、通常ではあり得ないことです。

 

  • けれどもパウロは、確かにロマ書5章3節で、≪それだけでなく、患難をも我々は誇っている≫(田川訳)と語っています。≪それだけではなく≫とありますので、5章2節の≪キリストによってまた我々は、我々が今その中に立っている恵みへと導き入れられることを得、また神の栄光の希望をもって誇っている≫(田川訳)の≪神の栄光の希望をもって誇っている≫を受けて、≪患難をも我々は誇っている≫と語られていることが分かります。

 

  • この前後の文脈からしますと、パウロが≪患難をも我々は誇っている≫と言う時には、無前提な我々が患難と向かい合っているわけではありません。信仰による義を与えられて、主イエスにより神との間に平和を得ている者としての我々、≪キリストによってまた我々は、我々が今その中に立っている恵みへと導き入れられることを得、また神の栄光の希望をもって誇っている≫(2節、田川訳)我々です。そういう神によって信仰による義を与えられている我々は、「神の栄光の希望をもって誇っている」だけではなく、「患難をも誇っている」と、パウロは言っているのであります。

 

  • もちろん、信仰を与えられている者にとっても、他の人と同じように患難は患難でなくなるわけではありません。患難は患難であり、その人の苦しみであることに変わりありません。

 

  • パウロも第二コリント7章5節で、≪マケドニア州に着いたとき、わたしの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです≫と、彼が受けた患難の厳しい現実を正直に語っています。けれどもパウロは、すぐ続けて、≪しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、(弟子の)テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました≫(Ⅱコリ7:6)と語っているのであります。

 

  • ここには、患難で苦しむパウロと神の慰めによって力づけられているパウロが、同時に存在していると言えます。患難に苦しむパウロは、神の慰めによって力づけられているパウロなのです。「パウロが≪患難をも我々は誇っている≫と言う時には、無前提な我々が患難と向かい合っているわけではありません」と言ったのは、そういうことです。

 

  • 私たち信仰による義を与えられている者にも、確かに患難はあります。けれども一方で、神との平和、心に注がれる神の愛によって生かされている私たちも確かにあるのです。患難があるからと言って、信仰者に与えられている神との平和や神の愛が失われるわけではないと、パウロは言っているのです。

 

  • ですから、<神の平和の中には、うめきと、つぶやきと、弱さがある。神の平和の中には、苦難と転落と堕落、すなわち破滅がある。神の平和の中には、宗教的世界が不信仰と名付けるもの、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」との叫び声、すなわち、死と地獄の試練のしめる場所もある>(バルト)と言えるのであります。

 

  • パウロが患難に出会って、その苦しみに絶望して、もう駄目だと失望落胆して、人生を投げ出さなかったのは、患難を理不尽なものとしてではなく、そこに神による深い意味と力があることを知ったからではないでしょうか。

 

  • 信仰のない生来の人間には、患難の中に隠された神の深い意味と力を知ることはできません。私たちはそのことをよく知っています。信仰を与えられた者は、私たちが出会う患難において神が何を考えているのか。その神の考えを知りたいと思います。信ずる者は神みの心に従って生きていきたいと祈り、願いつつ生きているからです。

 

  • 患難にも意味と力があるなどと言うと、その意味も力も認められないまま、不条理に苦しむ人を愚弄していると思われるかもしれません。そういう意味では、安易に患難にも意味と力があるなどと言うべきではないのかもしれません。それにも拘わらず、パウロは、神を信じる信仰において、患難⇒忍耐⇒練達⇒希望という道筋があることを語らざるを得なかったのではないでしょうか。

 

  • 「なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを知っているからである」(口語訳)。

 

  • これは口語訳です。≪患難は忍耐を生み出す・・・ことを知っているからである≫と、パウロは言っています。パウロは、彼が誇る根拠・原因としての患難を、人間が経験する苦しみであると共に、神による神の救いを忍耐強く待つことを教えるための訓練の一環としてとらえていたのではないでしょうか。ですから、患難は、神に対する信仰によって受け止められるならば、忍耐を生み出すと、パウロは言うことができたのではないかと思います。

 

  • ここには、苦しみとしての患難が、神によって方向転換をさせられているという事実があるように思われます。苦しみとしての患難の中に、パウロは、見えない神の真実を見ているのではないでしょうか。

 

  • そして≪忍耐は練達を生み出す・・・ことを知っているからである≫と。ここで練達と訳されている言葉は、原語ではドキメーで、直訳すると≪保証≫です。田川さんはこのドキメーという言葉には、練達などと言う意味はないと言っています。

 

  • <要するに、吟味検証(神による最終的な検証)に耐えて、「栄光」に与ることができるだけの「証拠」を持つ、ということ。「証拠」というか、むしろ「証文」といった感じ。あるいは、そのように証明づけられた「資格」ないし「保証」。今現在すでにそれだけの「保証」を持っているのだから、その「保証」が終末において救われる「希望」を作り出すのだ、と言っている>(田川)といのです。

 

  • ですから、この所を田川さんは、≪また忍耐が保証を、保証が希望を≫と訳しています。

 

  • 「希望は恥に終わることはない。なぜなら、われわれに賜っている聖霊によって、神の愛がわれわれの心に注がれているからである」。

 

  • ここで今日もバルトを、一部私の言葉にしていますが、引用させてもらいたいと思います。バルトは、<…疑いもなく、われわれが自分たちの忍耐と練達(保証)と希望とをあげて、それを人間的なものとして私たちに与えられたものとするならば、ただちにそれを、ふたたび抹殺し、放棄しなければならない。なぜなら、忍耐づよく、練達(保証)と希望をもつ人間もまた、事実、かれの患難を誇ることはできないであろう。かれが人間としてある現実、かれが人間としてもつものは、ありのままいえば、つねに患難であろう。しかしわれわれの希望は、信仰の希望である。それはけっして、われわれの希望の存立と倒壊とともに、立ちもし、倒れもするようなものではない。信仰と同様、その希望の生命の中枢は、人間のなかにある状態にあるのではなく、神によって提示された目標と、それとともに与えられた内容にある。すべての希望にあふれたものが恥に終わってしまうとしても、目標と内容としての希望は、「恥に終わることはない」(詩編22:5,6,25:20)。

 

  • <われわれが忍耐しないとしても、この希望は忍耐する。われわれが練達(保証)しないとしても、この希望は練達(保証)を得る。そしてそれだからこそ、われわれは希望を「誇る」のである(5:2)。というのは、この希望は、われわれの被造物としての霊の行為に基礎づけられているのではなく、聖霊の行為に、すなわち、われわれに与えられた聖霊が神への愛をわれわれの心に注ぎ込むその行為に基礎づけられている。

 

  • 聖霊」とは、信仰における神の業であり、天国の創造と救いの力であって、この天国は近づいて、信仰において人間とその世界に触れ、時を告げる鐘のようにひびきわたるのである。この聖霊が永遠の然りであって、時間内でかんがえれば、ただ否定として、ただ空洞としてしかあらわされない信仰の内容となるものである。この聖霊が信仰における奇蹟的なもの、原初的なもの、創造的なものであり、神と同身分ならしめるものであって、それがあるからこそ神は信仰者に義を与える。

 

  • この聖霊心理的に見える人間の主体とのあらゆる連続性の彼岸に立てられる見えない新しい主体であり、神の前に立ち、またそれに耐えうる人間の自我であり、「宗教的体験」の中でいつも目ざされ、いつも求められていながら、決して見出されるはずのない信仰の「われわれ」であって、それとのかかわりにおいて「われわれ」は神との平和を得ており、恵みに導き入れられているとか、「われわれ」は神の栄光にあずかる希望を誇っているとかの、理解を絶した発言がなされるのである(5:1,2)。

 

  • この聖霊は、そのために「与えられる」、すなわち神から与えられるのであり、すべての人間に与えられたものに先立って・与えられ、われわれからすれば、ただ与えられ=ないものとしてだけ見えるものとなり、理解可能となる。「聖霊、すなわち聖なる生活の活動の根拠は、本来はわれわれの中にはなかった。しかしいまや、この聖霊によって神への愛がわれわれの心の中にある」(ホフマン)>。

 

  • <…神への愛とは不可能なことである。それゆえ、被造物がその創造者を愛し、裁かれた者がその裁く者を愛し、征服された者、殺された者がその敵を愛し、犠牲にされた者がその犠牲にした者を愛するのは、ただ、後者がそのようなあらゆるものであり、そのようなあらゆることをしながらも――なお神であり、その神を愛さないことは、もっと不可能だからである。人間が「事実あるもの」として絶対に奪いとり、自分の所有としえないこの事実、いつもただ、いつも新たにただ上から「注入」としてだけ受け取りうるこの事実に、この神に対する愛に(その愛は神自身の業であり、もし神がまずわれわれを愛さなかったらありえないものであるが!(5:8)、見えないものを見るこの直視に(この直視は、「われわれのもの」でないかぎりにおいてのみ、われわれのものなのであるが)、我々の希望のゆるがぬ地盤である。

 

  • それが、われわれの忍耐の中にある忍耐強さであり、われわれの練達(保証)の中にある練達(保証)させる力であり、われわれの希望の中にある希望にみちたものである。その力によって、希望は恥に終わることはないのである。その力によって、われわれは希望を誇るのであり、患難を誇るのである。その力によって、われわれは神との平和を得ているのであり、われわれはわれわれが現にないところのもの、すなわち新しい人である。「このようなことがわれわれに起こり、われわれの中ではじまった以上、どうして神の栄光にあずかる希望が、われわれを恥に甘んじさせることがあるだろうか」(ホフマン)>。

 

祈ります。

  • 神さま、今日も会堂に集まって礼拝をすることができ、心から感謝いたします。
  • 神さま、私たちは信仰を告白していながら、自分の思惑だけで生きていることが多く

心からあなたを信頼して生きているか、怪しいところを持っている者です。けれども、

パウロは、あなたへの絶対的な信頼によって、患難⇒忍耐⇒保証⇒希望という信仰の見えない現実を、実際に一人の人間として生きたことを、今日のロマ書の個所が語っています。私たちもまた、あなたとの太いパイプを与えられて、聖霊によって私たちの心に注がれるあなたの豊かな愛を受けて生きる者としてください。

  • 今日は衆議院選挙の日です。み心ならば、正義と公正と愛にあふれた政治を実践する

人が多く選ばれ、この国と世界に平和をもたらすことができますように。

  • 争いや貧困や政治的圧迫という苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     425(こすずめも、くじらも)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-425.htm  

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。