なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(490)

船越通信、№490  2021年11月7日(日)北村慈郎

・ 31日(日)は礼拝を終えた後、11月7日(日)の永眠者記念礼拝の準備をしました。講壇の前にスチールの机を出し、その上に既に帰天されている船越教会の関係者の写真を並べるのです。その準備を終えて、みなさんが散会した後、私は二階の牧師館に戻り、洗濯をして室内に干し、お昼を食べてから、午後2時過ぎに教会を出て、この日は京急田浦⇒横浜⇒海老名⇒鶴巻温泉のいつものルートで帰りました。

・ 11月2日(火)午後6時から教区常置委員会がありましたが、この日は対面での常置委員会でしたので、私は今まで常置委員会にはほとんど欠席せずに出てきましたが、夜で足の不安があり、教区主事のI先生に連絡し欠席しました。後で出席した方からお聞きしましたが、Zoomでの参加も可能だったようです。私はI先生には足の事は言わす、ただ「所要のために欠席します」とだけ連絡しましたので、I先生は私がZoomでの参加も難しいと思われたのではないかと思います。翌日お願いしていた10月常置委員会議事録をデータで送っていただきました。10月常置委員会で私が免職との関連で発言をしましたので、12月の常置委員会までにその記録の訂正があれば、教区書記まで連絡しなければならないからです。10月常置委員会で私が発言したのは、教団教師委員会からの私の再審請求に対する回答と、教団年金局理事長へ問い合わせた私の質問への回答の中にあった文書です。その二つの内容だけをここに記しておきます。教団教師員会の回答「(再審請求については)既に、『戒規施行細則』第6条(戒規を受けて不服な者は上告でき、常議員会が選んだ審判委員によって最終決定がなされる)において、最終決定されています。問い合わせ案件は、教師委員会の手を離れています。教師委員会が扱えるのは、第8条(処分を受けた者が改悛して復帰を願えば、教師委員会構成員の三分の二以上の同意を得て、復帰させることができる)のみであります」。教団年金局理事長の文章の中の一節は「現在の先生の教団内におけるお立場は無任所とはいえ現職の教師であられますので、・・・」というものです。一方では免職された教師、他方では現職の教師という教団のダブルスタンダートは、私に対する人権侵害以外の何ものでもありません。

  • 永眠者記念礼拝の案内を出しました九州のWさんとKさんからお葉書とお手紙をいただきました。「この度は永眠者記念礼拝のご案内を頂きありがとうございました。皆様とご一緒させて頂きたいと思いながらなかなかかないません。・・・11月7日の日曜日には、福岡からお祈り申し上げます。・・・」(W)。「主の御名を讃美いたします。いつの間にか、今年も晩秋の候となりました。ご無沙汰致しておりますが、其の後、お変わりもなくお元気でいらっしゃいますか。・・・これから増々寒さが加わってまいりますので、北村先生はじめ教会の皆様、何卒お身体ご自愛くださいますよう、お祈りいたしております」(K)。

★ 斉藤幸平『人新生の「資本論」』⑬

・ 斉藤は後期マルクスの研究によって、「1868年以降、マルクスは自然科学やエコロジーの研究に取り組むようになっただけでなく、非西欧や資本主義以前の共同体社会の研究にも大きなエネルギーを割くようになっていったのだ」と指摘している。「古代ゲルマン民族の共同体である『マルク共同体』につて、…ゲルマン民族は、土地を共同で所有し、生産方法にも強い規制をかけていた。マルク共同体においては、土地を共同体の構成員以外にうったりするなど、もってのほかであったという。土地の売買だけでなく、木材、豚、ワインなども共同体の外に出すことも禁じられていた。/そのような強い共同体的規制によって、土地養分の循環は維持され、持続可能な農業が実現していた。そして長期的には、地力の上昇さえももたらしていたというのである」。また、「ゲルマン民族は、土地を共有物として扱っていた。土地は、誰のものでもなかったのだ。だから、自然からの恩恵によって、一部の人が得をしないよう、平等な土地の割り振りを行っていた。富の独占を防ぐことで、構成員のあいだに支配・従属関係が生じないように注意していたのだ。/同時に、土地は誰のものでもなかったがゆえに、所有者による好き勝手な濫用から守られていた。このことが、土地の持続可能性を担保することにもなっていたのである。/このように「持続可能性」と「社会的平等」は密接に関係している。この両者の密接な関係こそが、共同体が資本主義に抗い、コミュニズムを打ち立てることを可能にするのではないか。マルクスはこの可能性を強く意識するようになっていく」。「共同体は、単に『未開』で、『無知』だったから、生産力が低く、貧困に喘いでいたわけではない。共同体においては、もっと長く働いたり、もっと生産力を上げたりできる場合にも、あえてそうしなかったのである。権力関係が発生し、支配・従属関係はと転化することを防ごうとしていたのだ」。「ここでは、経済成長しない共同体社会の安定性が、持続可能で、平等な人間と自然の物質代謝を組織していた、というマルクスの認識が決定的に重要になる」と言うのである。このマルクスの晩年の共同体の研究は、斉藤によれば、「真に自由で平等な、西欧近代社会の将来社会を構想するためにひとつの理論的基盤」であったと言う。「そして、14年にも及ぶ研究の結果、定常型経済に依拠した持続可能性と平等が、資本への抵抗になり、将来社会の基礎になるとマルクスは結論づけたのだ。/この持続可能性と平等こそが、西欧近代社会が資本主義の危機を乗り越えるために、意識的に取り戻さなくてはならないものであり、その物質的条件が定常型経済なのである。/要するに、マルクスが最晩年に目指したコミュニズムとは、平等で持続可能な脱成長型経済なのだ。/資本主義の危機を乗り越えるためには西欧社会は『原古的な類型のより高次の形態である集団的な生産および領有への復帰』しなくてはならないとマルクスが言うとき、彼は定常型経済という共同体の原理を、西欧において高次のレベルで、復興させようとしていたのではないか」と。(続く)