なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(26)

12月5日(日)待降節第2主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。」

詩編100:1-2)

③ 讃美歌   208(主なる神よ、夜は去りぬ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-208.htm 

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編19編8-11節(讃美歌交読詩編21頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙5章15-21節(新約280頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     226(輝く日を仰ぐとき)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-226.htm

⑨ 説  教   「新しい世界―その2」          北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • ロマ書5章12節以下の「アダムとキリスト」について語られているところは、イエス・キリストによって恵みの賜物として私たちに与えられた、神と人間の和解と平和を、全人類的な展望において、パウロが語っているところではないかと思います。

 

  • パウロは、まず5章の前半で(5:1-11)神と人間の和解と平和に基づいた「新しい人」とはどのような人間なのかについて述べました。前回の説教でも触れましたが、もう一度思い起こしておきたいと思います。パウロが5章1-11節で記した「新しい人」とは、イエス・キリストによって神の恵みに信仰によって導き入れられており、≪神の栄光にあずかる≫将来に対する≪希望を誇りとして≫おり、現実に起こる≪苦難をも誇りにして≫いる人間のことです。≪それだけではなく、(神の愛が聖霊によってその人の心に注がれているがゆえに)、神を誇りとして≫いる人間なのです。希望と苦難と神を誇る人、それがイエス・キリストへの信仰によって与えられる新しい人であると、パウロは語っているのであります。

 

  • この新しい人の生きる新しい世界とは、どういう世界なのでしょうか。それが、ロマ書5章12節以下の「アダムとキリスト」の記事で語られているのであります。

 

  • まずみなさんは、現在私たちが生きている世界をどのように捉えているでしょうか。日本の現在の状況は、社会的な弱者が大変厳しい状況に置かれています。毎日きちんと食事をし、安心して寝ることの出来る場所を確保できていない人が大変多くなっています。若い世代が将来に希望を持てなくて、捨て鉢になって起こす殺傷事件も頻発しています。高齢者は高齢者で自分が動けなくなった時に、安心して介護を受けられるかと不安を抱えている人も多いと思われます。また、働く人の職場で人権が保証されているかと言えば、ブラックな企業も多くなっていると言われます。かつての日本の侵略戦争の敗戦によって、二度と再び戦争はしてはならないとの決意を持って、日本の国は戦後再出発したのですが、現在は防衛費の増額や日米軍事同盟の強化により、再び戦争に加担する危険性が増大しています。

 

  • 世界的・地球的に見ても、気候温暖化の危機がありますし、民主的な国家よりも専制的な国家の方が多くなっている状況があります。気候温暖化による人類滅亡の危機と共に平和がどんどん遠のいて、争いが頻発する世界にどんどん落ち込んでしまう危険性を、現在の世界は抱えていると思われます。

 

  • パウロやイエスの生きた古代世界と違って、今はすごい技術の力を人類は獲得していますので、その技術の力を悪用すれば、とんでもない非人間的なことも可能になっています。その意味で、現在の世界は大変危機的な状況にあると言えるのではないでしょうか。

 

  • 民主的な価値観、平和と人権を大切にする人は、このような世界の、或いは私たち人間の危機的な状況を憂慮して、自分の関わる課題を担って、この危機的な状況に抗って生きていこうとするでしょうし、そうしている人も多くいらっしゃるのではないでしょうか。私たちもキリスト者として、そのような人々の働きの一端を担っている人もいるでしょう。

 

  • この人間の、個々人としても人類としても危機的な状況を、どのように捉えたらいいのでしょうか。政治的・社会的な視覚から、船越通信でも連載しています、『人新生の資本論』で主張している斎藤幸平の「脱成長コミュニズム」は、気候危機を乗り越える社会のあり様を示しているものです。私はこの斎藤の「脱成長コミュニズム」に共感しましたので、みなさんにもぜひ知ってもらいたいと思い、船越通信で連載しています。しかし、この斉藤の世界の現実把握と将来展望のスケッチは、聖書の信仰によるものではありません。聖書の信仰によるこの世界の現実把握と将来展望については、パウロが、「アダムとキリスト」において神がどのようにこの世界の現実に関わっておられるのかを、このロマ書の箇所で語っているのであります。

 

  • アダムは、ご存じのように聖書に出てくる最初の人間です。アダムは創世記3章で、食べてはならないと神に命じられた善悪を知る木の実を食べて、神に背き罪を犯してしまいます。このアダムについて5章12節では「この故に、一人の人によって罪が此の世に入って来て、罪によって死が入って来たように、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人にしみ通ってしまったのである」(田川訳)と言われていました。

 

  • 一人の人によって罪がこの世に入り、また罪によって死が、かくして死の蔓延が全人類に及んだと言うのです。この罪の現実は、まさに先ほど言いました現代世界の状況とも重なっていると言えるのではないでしょうか。それがアダムの現実であり、私たちの現実であると言うのです。もしこのアダムの現実が変わらないとすれば、私たちは罪と死の悲惨な現実の重圧のために絶望する以外にありません。

 

  • 事実ナチズムによる強制収容所の中では、多くの人が絶望して死を早めたと言われています。私たちのこの世界の現実が、アダムの罪の現実であり、罪による強制収容所であるとすれば、私たちは絶望するほかないでしょう。

 

  • しかし、パウロは、確かにアダムの罪の現実が私たちの中にありますが、それに優ってキリストにある神の恵みによる現実が私たちの中にはあると言うのです。それが今日の5章15節以下で語られているのであります。15節から17節までを田川訳でもう一度読んでみたいと思います。

 

  • 「しかし罪過の場合と恵みの賜物の場合は異なっている。つまり、もしも一人の人の罪過によって多くの人が死んだのであるとすれば、ならばますます、神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物とが、多くの人に対して豊かに与えられたのである。また、その賜物は一人の罪を犯した人による場合とは異なる、何故なら、裁きは一人の人から断罪へといたるのであるが、恵みの賜物は多くの罪過から義認へといたるのである。つまり、もしも一人の人の罪過によって、その一人の人を通して死が支配するにいたったのであるとすれば、ならばますます、豊かな恵みと義の賜物を受ける者たちは、一人の人イエス・キリストを通して生命において王となるであろう」(下線筆者)。

 

  • アダムによる罪の現実は確かに私たちの中にあるが、それ以上に(ならばますます)キリストによる神の恵みの現実が私たちの中にあるのだと、パウロは言っているのであります。

 

  • このことをバルトはこのように言っています。今日の引用は『ローマ書講解』ではなく『ローマ書新解』からです。

 

  • 「注意せよ。パウロはアダムとキリスト、一方のすべての人と、また他方のすべての人の場合を、同じ価値と同じ重さを持つ指標と要因として、また同じぐらいの重要な規定を担うものとして、単純に並列させているのではない。アダムと彼につく多くの人は単純に比喩として、キリストと彼につく多くの人のそばに立っているにすぎない。ただ影と(前)型としてのみ、アダムはキリストの前を走るにすぎない。彼が第一の者であるのは、ただ見かけ上にすぎない。第一の者、現実の所有者はキリストであるーーかのアダムはこの現実をただ、模倣することができるだけであり、しかもまったく違った風にしか模倣できない。従ってここでは、力が力に逆らい、義が義に逆らっているのではなく、いわんや、神が神に逆らっているのではない。ここでは神が人間に味方するがゆえに、人間に逆らって立つのである。従って、ここでは義が不義に逆らい、真理が偽りに逆らい、力が無力さに逆らって立っているーーしかしそれは、まさに不義が義に対して、偽りが真理に対し、無力さが力に対し、罪人が恵み深い神に対し、証しをせねばならぬような仕方で起こり、また人間に味方する神とその行為が、人間が神に逆らって欲し、またなしたことの中にも映し出され、啓示されるような仕方で起こるのである。 ここで神の義と愛は、人間の不義と敵意の型と比喩の中に見られるようにされ、照らし出されていることによって、かえって勝利しているのである。パウロがこのように考えていることは、15-17節で明瞭である」。

 

  • バルトによれば、この5章15―17節でパウロは、アダムの罪の現実はそれ自身キリストによる神の恵みの現実と並行して存在するものではないと言っているのです。それが15節から17節の中で「ならばますます」と言われている意味です。キリストにおける神の恵みの現実が現れることによって、アダムの罪の現実はその影、比喩、前型になったのだと言うのです。ですから、アダムの罪の現実は、キリストにおける神の恵みの現実を照らしだすものとなり、キリストにおける神の恵みの勝利を指し示しているのだと言うのです。

 

  • 5章15-17節で、パウロは、「再三再四、いかにこの双方のパートナー〔アダムとキリスト〕とその業が、すべての人、多くの人に対し、実際まったく違った姿をして相対しているかを指し示している。すなわち神の恵みと人間の罪および刑罰(15節)、神の恵みと神の裁き(16節)、生の支配と死の支配(17節)はいかに均衡を保っておらず、現実の性格を同じように備えておらず、第一の者は第二の者によって事実上、相殺され、廃棄され、乗り越えられ、過ぎ去られ、打ち勝たれ、そして道から片づけられているかを彼は指し示している。従って、実にこのような不平等さにおいて、これらのパートナーおよび、すべての人、多くの人に対する両者の仕事は、眺められ、理解されることを望むものである」(同上)。

 

  • 「このアダムの現実全体が、イエス・キリストに直面し、イエス・キリストにおいて計られ、またイエス・キリストから眺められる場合、そのことが起こる。アダムの現実が、イエス・キリストと事実、直面させられているということ、またそれゆえアダムの現実は、われわれの神との和解、われわれが事実持っている神との平和を、決しておわらせたりすることはできず、むしろただ、確かなものとすることができるだけということ、そのことこそ、パウロがここで語ったことの前提である。われわれがイエス・キリストにおいてなされた決断と、イエス・キリストへの信仰のみに固執する場合、これ以外の前提はありえないし、アダムとアダムの現実全体についても、それ以外の結論はありえない」(同上)。

 

  • 「罪が増したところでは、恵みがそれを越えて更に増すことになろう」(5:20、田川訳)。

 

  • ボンフェッファーは強制収容所の中で、このキリストにおける神の恵みがすべての人に及んでいるという確信の下に、聖書によって強制収容所の中にいる仲間や看守を慰め、励ましつづけたのでしょう。ボンフェッファーはヒットラーによって獄中で処刑されてしまいます。アダムの罪を体現したヒットラーによって、キリストにおける神の恵みの現実を信じて生きたボンフェッファーが処刑されたということは、ボンフェッファーの敗北なのでしょうか。アダムの罪の現実によるキリストにおける神の恵みの現実の敗北であり、否定なのでしょうか。そうではありません。ヒットラーはアダムの罪の現実を体現して、自ら自死して、今も犯罪人として裁かれているのではないでしょうか。一方ボンフェッファーは、獄中で処刑されましたが、キリストにおける神の恵みの現実を信じ、他者を愛し、永遠の生命(永遠に意味ある生)を生きた証人として、今も私たちの中に生きているのではないでしょうか。

 

  • 私たちも罪と死の悲惨さを増しているかに思われる現在のこの世界で、イエス・キリストによる神の恵みが支配する新しい世界を信じ、ボンフェッファーのようにはなれなくとも、私たちなりにその証人として生きていきたいと願います。

 

  • 主が私たちをそのような道に導いてくださいますように。

 

祈ります。

  • 神さま、今日も会堂に集まって礼拝をすることができ、心から感謝いたします。
  • 神さま、私たちはこの世界の悲惨さにおののき、無力な自分自身を嘆いて、この現実を容認して生きてしまいがちです。あなたは、イエス・キリストをとおして、この悲惨な世界をあなたの恵みが支配するところに変えてくださいました。そのあなたの御業を信じて生きていくことができますように、私たち一人一人を導いてください。
  • 今年も、もうすぐ主の降誕を祝うクリスマスがやってきます。イエスの誕生は「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(マタイ4:16)と言われる出来事です。心から光の到来としてのクリスマスを祝い、喜び、それにふさわしく生きることができますように。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     425(こすずめも、くじらも)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-425.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。