なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(28)

1月2日(日)降誕節第2主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットで平井俊江さんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。 

                            (ヨハネ3:16)             

③ 讃美歌   431(喜ばしい声ひびかせ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-431.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編89:2-15節(讃美歌交読詩編97頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙6章8-14節(新約281頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     469(善き力にわれかこまれ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-469.htm

⑨ 説  教    「恵みのもとにある」        北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • 今日は2022年の最初の礼拝です。新し年がすべての人にとってよき年となりますように。今年も礼拝ではローマの信徒の手紙から語りかけを聞いていきたいと思います。

 

  • さて、私たちキリスト者は洗礼を受けてキリスト者になり、イエスの仲間である教会の一員に加えられた者であります。洗礼を受けるということは、それまでの自分が洗礼を受けることによって違う自分に変わることを意味します。

 

  • 洗礼を受ける前の自分は、自分が自分の中心にいたのではないでしょうか。その自分が権力やお金の力に最大の価値を認めているとすれば、権力やお金の奴隷のように生きるようにならざるを得ません。自分が大切にしているものに従って生きるのは、ある意味で人間として当然のことだからです。

 

  • そういう価値観をもつ親の下で育った子供は、親と同じ価値観を持つようになるか、親の価値観に反発するようになるか、あるいは親のようにもなれず、親に反発もできずに自分の中に閉じこもるようになるかのどちらかだと思われます。

 

  • 日本の公教育は、未だ子供の自発性に基づいて、一人一人の子供の個性を生かす教育ではなく、押しつけ教育に近いと思われます。国家や企業に都合の良い人間をつくるというか、その人がその人らしく伸びやかに生きていくことの出来る教育とは真反対の教育が、今でも行われているのではないでないかと思われます。不登校ニートと言われる方々が相当数いると言われている日本社会は、個々人にとっては大変抑圧の強い社会と言えるのではないでしょうか。

 

  • 自分が自分の中心に生きている人は、何らかの形で、今申し上げた日本社会の圧力に影響されざるを得ません。その圧力を自分の中に取り入れて、社会で権力側に立って生きていくか、その圧力に負けて権力からはじき出されたところで生きていくか、どちらかということにならざるを得ません。

 

  • けれども、洗礼を受けてキリスト者となった者は、自分の中に自分が中心に居座っているのではなく、イエスを自分の中心に迎えて、イエスに従って生きるように導かれた者なのです。勿論洗礼を受けてキリスト者になった私たちも、生きているところは今の日本の社会ですから、この社会の圧力を受けざるを得ません。しかし、この社会の圧力よりもイエスを大切に生きたいと思っている私たちは、この社会の圧力に負けない命が、イエスの神から与えられることを信じています。ですから、この社会の圧力に抵抗して、イエスの仲間として、すべての人が分け隔てなく、助け合い、支え合って生きていくことができる神の国(神の支配)を信じ、その到来を待ち望みながら生きているのです。

 

  • パウロは、ローマの信徒への手紙6章4節・5節で洗礼について、このように語っていました。田川訳でその個所を読んでみます。

 

  • つまり我々は死へといたる洗礼によって彼とともに葬られたのだ。それは、キリストが父の栄光によって死人の中から甦らされたのと同様に、我々もまた生命の新しさにおいて歩むためである。もし我々が彼の死と同じ状態になったのであれば、我々は復活に関しても同じ状態になるであろう≫と。

 

  • ここには、洗礼を受けることによって、私たちがイエスと共に葬られ、そこで一度古い自分が死んだのだ。≪それは、キリストが父の栄光によって死人の中から甦らされたのと同様に、我々もまた生命の新しさにおいて歩むためである。もし我々が彼の死と同じ状態になったのであれば、我々は復活に関しても同じ状態になるであろう≫と言われているのです。

 

  • 私たちは、洗礼を受けることによって古い自分にイエスと共に死んで、イエスの復活に与って、イエスに従って≪生命の新しさにおいて≫歩んでいるのだと言うのです。その意味で洗礼は、洗礼を受けた者にとっては、決定的な人生の方向転換の時なのです。私たちは、その決定的な人生の方向転換が起こった時を後ろに持っていて、その時の終わり(目標)をめざして、今を生きているのではないでしょうか。

 

  • ですから、パウロは、今日のローマの信徒への手紙6章8節で、このように語っています。≪もしも我々がキリストとともに死んだのであれば、我々はまたキリストとともに生きるであろう、と信じるのである≫(田川訳)と。

 

  • 洗礼を受けることによって、キリストと共に死んだ私たちは、過去の自己中心的な自分が主体として生きるのではなく、自分の中に自分に代わる新しい主体となったイエス(キリスト)が生きるであろうことを信じて生きているのです。「イエス(キリスト)と共に生きることは、「彼の復活に相応しい生であり、かの罪への奉仕から解放された生でしかありえません」。それが8節で語られていることです。

 

  • そのことが確実であるのは、≪キリストは死人の中から甦らされて、もはや死ぬことがない、すなわち死が彼を支配することはない、と我々は知っているから≫(9節、田川訳)なのです。

 

  • 「死人の中より甦らされたキリストが、もはやこれ以上新しい死を自分の前に持たぬことが確実であり、死は彼に対して何の要求も持ちえず、また彼の上に何の力もふるいえぬことが確実であり」ます。「またキリストは罪に対して(10節)――われわれの罪を負わされた者として、われわれの罪を償う者として、われわれの罪の刑罰を甘受する者として――ただ一度死に給うたことが確実であり」ます。「また彼(キリスト)は今や神に、ただ神にのみ向かって生き、決して未来の死に向かって生きることなく、父の右に挙げられた人間の純粋な、無条件の、永遠の生を生きることが確実であるのと同様であ」ります。

 

  • 「彼(キリスト)にあずかる洗礼を受けた人間に対しては、・・・≪同様にあなた方もまた、自分たちが罪に関しては死者であり、神に関してはキリスト・イエスにあって生きる者である、と考えるべきである≫(11節、田川訳)と言われていること以外のどんな自己省察や自己判断が彼に許されたり、また可能なはずがある(と言うの)でしょうか。すなわち、私は罪に対して死んだもの、不在のもの、もはや存在しないもの、私は罪から切り離され、分かたれたものであります。私はもはや、罪のために生きぬゆえに、罪と私の間にこの断絶をなしとげて下さった神に向かって、すなわちイエス・キリストにおいて生きるのです。私はキリストの死と生のあの対照像に属するという、事実に基づき、またその真理の中に生きるのです。そしてまた、彼に起こったことは、私のために起こったのであり、しかもそれは権威と法的力に満ちて起こったので、今後、私から、また私によって、何が起ころうとも、私のために起こったあの出来事により、包み蔽われてしまうばかりか、消し去られてしますほどであるという、事実に基づき、またその真理の中に生きるのです。かくして私は、もはや私自身の責任のもとには立たず、彼の責任のもとに立ち、私自身に属せず、まさに彼(イエス・キリスト)に属するのです」。

 

  • だから、あなた方の死すべき身体において罪が支配して、あなた方がその身体の欲望に従うことのないようにしなさい≫(12節、田川訳)
  • 「すなわち、罪はもはや<われわれの死ぬべき体>において――今ここにおいてなお、イエス・キリストという主体とは異なっている主体としての、われわれの形体である、死すべきものの中において――支配することを許されていないということであります。罪にそれが許されていないのは、そのことがもはや不可能だからであり、われわれはまさにこの形体のままで洗礼を受け、キリストの死と復活の対照像に『合わせられ』、かくして罪に死に、罪から切り離され、罪の支配から遠ざけられているからである。このわれわれの死すべき形体そのものにつきものの欲望は、われわれの従順に対して何ら法的要求を持たない。なぜなら、われわれはすでに、この死すべき形体にありながら、自分自身のものではなく、イエス・キリストのものだからであり、罪に服従させられ、罪に従順であらねばならず、またありえた主体は、今すでにここにおいて、もはや生きていないからであり、われわれはこの死すべき形体にありながらイエス・キリストへの従順における将来とは別の将来を自分の前に持たないからです」。

 

  • 「したがって、そのような自己省察や自己判断から、≪あるいはまた、自分の肢体を不義の武器として罪にささげるのではなく≫という禁止命令と、また≪死人の中から生きている者として自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。≫(13節、田川訳)という誡めが続くのです。初めのことをするな、なぜなら、あなたがたにそれをすることはできないから! あとのことをなせ、なぜならこのことだけが唯一の可能なことであり、罪はあなたがたを支配していないのだから」。

 

  • 何故なら、罪があなた方を支配することがあってはならないからである。あなた方は罪のもとにあるのではなく、恵みのもとにあるのだから≫(14節、田川訳)。

 

  • 「罪は、たとえあなた方が初めのことをなし、あとのことをしないようなことがあるとしても、決して、またいかなる事情があろうと、あなた方の上に、主権、現実的な力をふるうことはないであろう。あなた方、洗礼を受けた人間には、どのような意味でも、罪の土台が存在することは問題になりえない。まさにあなた方においてそのようなことはありえない! なぜなら、あなた方は、もう一度あなた方の罪を告発し、あなたがたが罪人であることを確証する、律法のもとに立っているのではなく、あなた方が罪から解放されていることを宣言する、恵みの下に立っているからである。また、実に裁き主自身があなたがたに逆らってではなく、あなた方に味方して語り、まさにそれゆえにあなた方に下される神の義の決断を、言い表わし、またすでにあなた方に向かって遂行されたからである。あなた方の聖化は、あなた方の良い、または悪い意志とは関係なく出来事となっているがゆえに、また罪の否定と、罪から離され神に向けられた新しい生に対する肯定が、あなた方にとって決定的であり、またそれゆえに、すでに今ここにおいて、決定的に確立しているがゆえに、あなた方はもはや古い人間の生を生きるのではなく、新しい生の中を歩まねばならず、また歩むべきである。あなた方はほかのいかなる生ももたない! あなた方はただ、罪を、まさにあなた方の罪をご自分の身に負い、運び去った方、そして今や、まったくただ神との生のみをご自分の前に持つ方、との交わりにおける生のみを持っているのである。」(以上、バルト『ローマ書新解』による)。

 

  • 律法のもとにではなく、神の恵みの下に生きるとは、どういうことなのか。イエスの死(十字架)と復活によって私たちに開かれている、イエス(キリスト)と共に神に向かって生きる道を、洗礼を受けることによってイエスの死と復活に与っている私たちは、しっかり信じて生きていきたいと願います。そのために、≪もしも我々がキリストとともに死んだのであれば、我々はまたキリストとともに生きるであろう、と信じるのである≫(田川訳)という信仰に基づく「自己省察、自己判断」をしっかりと持ち、≪だから、あなた方の死すべき身体において罪が支配して、あなた方がその身体の欲望に従うことのないようにしなさい。あるいはまた、自分の肢体を不義の武器として罪にささげるのではなく、死人の中から生きている者として自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい≫(12,13節、田川訳)との勧告に従って生きていきたいと願います。

 

  • 主がこの「キリストと共に生きる」者へと私たちを導いて下さいますように!。

 

祈ります。

  • 神さま、新しい年を迎えることができ、心から感謝いたします。今日は1月2日です。会堂での礼拝はなく、メール配信による自宅分散礼拝で礼拝を守っています。
  • 新型コロナウイルス感染拡大が起こって2年が過ぎようとしています。この2年間、私たちは今まで経験したことのないパンデミックに翻弄されてきました。経済活動も停滞し、仕事を失い、経済的困窮に陥っている人も多くなっています。困難の中にある人々をあなたが支えて下さい。また、どうかこのような状況の中でも、互いに助け合い、支え合って、この困難を乗り越えていく力を、私たちに与えて下さい。新しい年がすべての人にとって希望の時となりますように。
  • 今日は、ロマ書を通して、私たちがあなたの恵みの下に生かされていることを示されました。私たちは、あなたなしに、現実の厳しさに圧倒され、自分を護るだけになりがちですが、この厳しい現実の中にも、十字架の死を経験し、復活してあなたの永遠の命に生きるイエス・キリストがい給うことを信じ、「死人の中から生きている者として自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげる」ことができますように」お導き下さい。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     402(いともとうとき)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-402.htm 

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。