なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(498)

船越通信、№498 2022年1月9日(日)北村慈郎

・ 2日(日)からの一週間は、娘と一度だけ御殿場に車で出かけただけで、買い物と散歩以外はずっと鶴巻のマンションに閉じこもっていました。

 

★ 斎藤幸平『人新生の「資本論」』⑰

・ 東京新聞夕刊(1月4日~7日)に4回に分けて、川口加奈(19歳でホームレス支援の認定NPO法人「ホームドア」を設立)と斎藤幸平(大阪市立大准教授。『人新生の『資本論』』がベストセラーの新春対談が載っていました。斎藤幸平はテレビ夜の報道番組BS-TBS「報道-1930」にも2度出演しているのを私は見ています。『人新生の「資本論」』も、私が購入して読んだときにはベストセラーになっていませんでしたが、上記の新春対談によれば40万部のベストセラーになっているそうです。この本はしかりとした資料と研究に基づいている学術書に近い新書本で、ベストセラーになるとは思いませんでしたが、気候危機と資本主義社会の閉塞を打開する具体的な「脱成長コミュニズム」という道が示されていますので、多くの人が関心を持って読んでいるのかも知れません。この本の要約を続けたいと思います。

・ 「負債という権力」という表題のもとに斎藤はこのように述べています。<資本がその支配を完成させる、もうひとつの人工的希少性がある。それが「負債」によって引き起こされる貨幣の希少性の増大である。無限に欲望をかきたてる資本主義のもとでの消費の過程で、人々は従順な労働者として、つまり資本主義の駒として使えることを強制される。/その最たる例が、住宅ローンだろう。住宅ローンは、額が大きい分、規律権力としての力が強い。膨大な額の30年にもわたるローンを抱えた人々は、その負債を返すべく、ますます長い時間働かなくてはならない。借金を返すために、人々は資本主義の勤労倫理を内面化していく。残業代を得るために長時間働いて、出世のために家族を犠牲にするのだ。/場合によっては、共働きでも足りずに、昼夜にまたがるダブルワークをしなくてはいけないかもしれない。あるいは、食べたいものを我慢して、もやし炒めや具なしのトマトソース・スパゲッティを食べながら、節約をする。もはや、なんのための生活なのかわからなくなるような人生を送る羽目になる。快適な生活のために家を買ったはずなのに、負債が人間を借金奴隷にし、その生活を破壊していく。/もちろん、労働者が勤勉なのは、資本にとって好都合だ。他方で、長時間労働は、本来必要ではないものの過剰生産につながり、その分だけ環境を破壊していく。長時間労働は家事や修理のための余裕を奪い、生活はますます商品に依存するようになっていく。/このように、資本は「人工的希少性」を生み出しながら発展する。「価値と使用価値の対立」が続く限り、いくら経済成長をしても、その恩恵が社会の隅々にまで浸透することはない。むしろ、人々の生活の質や満足度は下がっていく。これこそまさに、私たちが日々経験している事態なのである」。正しくその通りではないでしょうか。

・ 次に「ブランド化と広告が生む相対的希少性」という表題のもとで、<さらに、生活の質や満足度を下げる希少性は、消費の次元にもある。人々を無限の労働に駆り立てたら、大量の商品ができる。だから今度は、人々を無限の消費に駆り立てねばならない。/無限の消費に駆り立てるひとつの方法は、ブランド化だ。広告やロゴやブランドイメージに特別な意味を付与し、人々に必要のないものに本来の価値以上の値段をつけて買わせようとするのである。/その結果、実質的な「使用価値」(有用性)にはまったく違いのない商品に、ブランド化によって新規性が付け加えられていく。そして、ありふれた物が唯一無二の「魅力的な」商品に変貌する。これこそ、似たような商品が必要以上に溢れている時代に、希少性を人工的に生み出す方法である。/希少性という観点から見れば、ブランド化は「相対的希少性」を作り出すといってもいい。差異化することで、他人よりも高い社会的ステータスを得ようとするのである。/例えば、みんながフェラーリやロレックスを持っていたら、スズキの軽自動車やカシオの時計と変わらなくなってしまう。フェラーリの社会的ステータスは、他人が持っていないという希少性にすぎないのだ。逆にいえば、時計としての「使用価値」は、ロレックスもカシオもまったく変わらないということである。/ところが、相対的希少性は終わりなき競争を生む。自分より良いものを持っている人はインスタグラムを開けばいくらでもいるし、買ったものもすぐに新モデルの発売によって古びてしまう。消費者の理想はけっして実現されない。私たちの欲望や感性も資本によって包摂され、変容させられてしまうのである。/こうして、人々は、理想の姿、夢、憧れを得ようと、モノを絶えず購入するために労働へと駆り立てられ、また消費する。その過程に終わりはない。消費主義社会は、商品が約束する理想が失敗することを織り込むことによってのみ、人々をたえざる消費に駆り立てることができる。「満たされない」という希少性の感覚こそが、資本主義の原動力なのである。だが、それでは、人々は一向に幸せになれない。/しかも、この無意味なブランド化や広告にかかるコストはとてつもなく大きい。マーケティング産業は、食料とエネルギーに次いで世界第三の産業になっている。商品価格に占めるパッケージングの費用は10~40%といわれており、化粧品の場合、商品そのものを作るよりも、三倍もの費用をかけている場合もあるという。そして、魅力的なパッケージ・デザインのために、大量のプラスチックが使い捨てられる。だが、商品そのものの「使用価値」は、結局、なにも変わらないのである。/果たして、この悪循環から逃れる道はないのだろうか。この悪循環は希少性のせいである。だから、資本主義の人工的希少性に抗する、潤沢な社会を創造する必要がある。それがマルクスの脱成長コミュニズムなのだ>。この斎藤の記述によって、消費社会でもある現代の高度資本主義社会のからくりが見事に解明されています。大量生産・大量消費が潤沢な社会をもたらすのではなく、人間の必要に見合った生産と公平な分配によって潤沢な社会が、私たちにもたらされるのではないでしょうか。そのような社会を斎藤は「脱成長コミュニズム」と言っているのだと思います。