(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま
しょう(各自黙祷)。
② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
(ヨハネ3:16)
③ 讃美歌 224(われらの神 くすしき主よ)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-224.htm
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編51編12-21節(讃美歌交読詩編56頁)
(当該箇所を黙読する)
⑥ 聖 書 ローマの信徒への手紙7章14-25節(新約283頁)
(当該箇所を黙読する)
⑦ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 300(十字架のもとに)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-300.htm
⑨ 説 教 「自己分裂」 北村慈郎牧師
祈 祷
- たまたま昨日土曜日の朝に開いたローズンゲンという『日々の聖句』のその日の箇所に、第一コリント3章16節がありました。それは、「あなたがたは神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを知らないのですか」という聖句です。
- 実は、ローマの信徒への手紙(以下ローマ書)では、私たちの内に神の霊が住んでいることは、8章1節以下で語られています。説教では次回扱うところですが、8章9節に≪神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません≫(新共同訳)と記されている通りです。
- このことは次回の説教で扱いますが、神の霊の支配下にあるキリスト者であるとしても、私たち信仰者は、肉によって生きることを超越しているわけではありません。その点では他の人と全く変わりません。肉の人でもあります。
- パウロは、復活のイエスにダマスコ途上で出会って、回心して霊の人として生きるようになりましたが、それでも肉の人としての自己が生きていて、霊の人の生き方に反する生き方をして自己分裂に陥ることを、今日のローマ書7章14節から25節で包み隠さずに語っているのであります。
- 私は若い時にこのローマ書7章を読んで、キリスト者であり、ひとりの人間としてのパウロの赤裸々な告白を聞いたように思えて、感動したことを想い出します。当時私が影響を受けたキリスト教界では史的イエスのへの関心が強く、ローマ帝国の国教になってしまう最初期教会の創立者の一人でもあるパウロには批判的でした。その影響を私も受けていましたので、パウロに対して余り快くは思っていませんでした。しかし、このローマ書の今日の箇所だけは、パウロの書いた手紙の中でも特別でした。
- 14節の前半でパウロは、「我々は、律法が霊的なものであると知っている」(田川訳)と言っています。「我々は…知っている」と、ここでは主語は「我々」です。ローマの教会の人々も含めて、キリスト者である我々は「律法が霊的なものである」ということを知っている、とパウロは言っているのです。
- 「律法が霊的なものである」ということは、律法が「神的な真理ということ」(田川)です。それに加えて、クランフィールドは「律法は、律法がそれによって与えられた霊と同じ霊[=神の霊]の助けによってのみ正しく理解され得る、という意味もおそらく含まれていると見るべきである」と言っています。
- 肉によっては律法を正しく理解できないと言っているのです。「律法を真に承認し、また理性によってそれに同意し、加えて律法に真に服従して生き始めることができるのは、霊を持っている人々だけである。霊によって啓発されていない人々はただ文字を摑むに過ぎない」と。
- 14節前半の主語は「我々」ですが、14節後半以降の主語は「私」です。「我々は、律法が霊的なものであると知っている。だが私は肉の人であって、罪のもとへと売り渡されているのだ」(14節、田川訳)。
- この「私」はパウロ自身を指しています。ここからパウロは、イエスを信じるキリスト者であり、かつ同時に肉の人である「不可解な聖人」(バルト)にされた自らが、霊的な律法を罪と死の律法にしてしまう、その失われた状態について、告白的に記しているのです。
- パウロは、まず「私は肉の人であって、罪のもとへと売り渡されているのだ」(14節後半)と言っています。これは、一方ではイエスを信じることによって霊の人とされていながら、他方では今なお肉の人として生きている自分がいる、そして「肉の人」である自分には、罪が自分の主人のように自分を支配している、と言っているのであります。
- その罪の奴隷のような自分を振り返りながら、24節でパウロはこのように嘆いているのです。「みじめな人間なのだ、私は。この死の身体から私を救ってくれるのは誰か」(田川訳)と。
- 15節から24節までの一人称単数(私)による告白調の文章ではじまり、24節の「みじめな人間なのだ、私は」という嘆きのセリフに至るこの個所について、田川建三さんはこのように言っています。少し長くなりますが、紹介させてもらいます。
- <パウロの書いた文章の中でも有名な箇所の一つである。自分はなすべき課題〔神の律法、理性の法〕をわかっているのに、実行できない。自分を超えた強い力が自分を支配していて、自分では望まない悪を自分で行ってしまう。そして、どうしてもその力から自分は逃れることができない‥‥。パウロが真摯に自分の姿を見つめつつ、悩み、嘆いているところ。おそらくこの悩みは、この箇所にとどまらず、パウロがずっと悩みつづけてきたことであり、その故に彼はキリストの「福音」の信仰、つまり絶対他者の救済を信じるようになったのであろう。…(パウロにはいろいろ問題があるが)…なお、根本的なところで、人の心を打つものがあるのは、この他律性の自覚である。宗教的救済について絶対他力を信じるだけでなく、自分の生そのものが自分を超えた力、それも自分に悪を行わせる力、自分では悪とわかっていてもそれを避け難く行わせてしまう力に支配されているという点でも深く他律性を自覚している。この他律性の自覚があるから、宗教的救済に関しても、絶対他力の信仰に至りつくのである>。田川さんはこのように言っているのです。
- その上で、こうも言っています。<この他律性の意識は、たとえ神の存在を想定しないとしても、やはり生きている人間の理解として根本的に重要なものである。人間の行動は、良きにつけ悪しきにつけ、そしてそれも個々の行動だけでなく、全体として、決して自分で百パーセント自分の主人公であって、自分の意志どおりに自分が行動できている、しかもその自分の意志はすべてよく見通した完全なものだ、などというわけにはいかないのである。これは人間理解に関して最も重要な意識であろう>と。そして<この点を抜きにしてパウロ思想をよく理解することはできないのは確かである>と言っているのであります。
- そしてこうも言っているのです。<ところが、この箇所は神学者の間では評判が悪い。従って彼らは、この文はパウロの自己告白ではなく、ほかの人間のことを言っているにちがいない、と解説して下さる。(この辺から田川さん特有の口調になりますが)彼らがそのように考える理由は非常にはっきりしている。はっきりと、ちゃちである。理由は唯一、聖なる使徒パウロがこんな悩みをお持ちになるはずがない! そして、救われたはずのキリスト信者にこんな悩みがあるわけがない! 溜息がでるほどちゃちである。あなた方キリスト教の説教者さんたちも、御自分のことをお考えになれば、こんなせりふを言えるわけがない、ということぐらいすぐおわかりになるだろうに。いや、あなた方のことは置いておいても、こういう具合に「聖パウロ」を神棚の上にまつりあげて、聖パウロにはいかなる欠点もありえません。完全無欠、純粋無垢、この上もなく完璧な倫理の鏡です、なんぞというちゃちな偶像崇拝がいかにくだらないか、どうしてすぐにお気づきにならないのだろうか。そのパウロ自身が、あれほど深刻に、いかなる人間も神の前にあって、罪人であることをまぬがれることはできない、と再三再四くり返し強調しているのに。彼がこういうことを言う場合には、もちろん、自分だけは例外です、などと呑気なことを言っているわけではない。むしろパウロのこの種の言辞は、自分自身の姿を深く反省している、その反省が色濃くにじみ出ている>。その通りではないでしょうか。
- ローマ書7章15節から24節までを田川訳でもう一度読んでみたいと思います。
- 「私は自分が働きだしていることが、わからない。自分が欲することを実行せず、自分が嫌っていることをしている。もし自分が欲していないことをなしているのであれば、律法が良いものであると同意していることになる。だが、それを働き出しているのは決して私自身ではない。私の中に住んでいる罪が働いているのである。つまり私の中には、というのは私の肉の中にということであるが、善が住んでいない、ということを私は知っている。善を欲することが私にあるけれども、善の働き出すことは私にはないのだ。つまり、私は自分が欲している善をなすことなく、まさに欲していない悪を実行しているのである。もしも自分が欲していないことを自分でなしているのであれば、それを働き出しているのは決して私ではない。私の中に住んでいる罪が働き出しているのだ。従って、善をなすことを欲している私のところに悪がいる、という法があることがわかる。つまり、内なる人に関しては私は神の法を喜んでいるのだが、私の肢体の中には別の律法があって、私の理性の法に逆らって闘い、私の肢体の中にある罪の法の中に私を虜にしているのである。みじめな人間なのだ、私は。この死の身体から私を救ってくれるのは誰か」。
- <この引き裂かれた状態から救い出してくれるものは誰か?…キリスト教的な「私」もまた、否、キリスト教的な「私」こそ、この注目すべき25節(「我らの主イエス・キリストによって神に感謝。すなわち、私自身は理性においては神の法に仕えているのだが、肉においては罪の法に仕えているのである」(田川訳))が示しているように、解放者としてのイエス・キリストを告白することにより、自分自身の幽閉状態、あらゆる形における分裂状態を告白せねばならぬし、また事実告白するであろう。…
- 私で始まりながら何らかの方法で救いや自由に終るような線は決してない。しかし、1-6節で示されたように、イエスで始まるほかの線があり、この線の上では、まさに、かの律法に束縛されている人間が殺され、しかも彼自身の死においてではなく、イエス・キリストの死において殺されたのである。すなわち、殺され、従って自分自身から解放され、今や死人の中から蘇らされた他者に対して生き(4節)、このように解放された者として、この他者の私〔イエス・キリスト〕に、すなわち神のみ子に徹底的に従属し、霊の新しい存在において(6節)神の律法に(25節)仕えるに至るのである>(バルト)。
- 私で始まる線からは罪の支配からの解放されることはあり得ない。けれどももう一つ別の線であるイエスから始まる線上では、肉の人として罪の支配さから解放されて、霊の人として私たちは生きることができるのだと言うのです。
- 振り返って私たちは、パウロと同じように、罪によって奴隷化されている肉の人としての自分の惨めさをどれだけ深刻に感じているでしょうか。自分の惨めさを深く感じていればいるほど、それだけ強く「この死の身体から私を救ってくれるのは誰か」と、神に向かって自分の救済を真剣に祈らざるを得ないようになるのではないでしょうか。その時に私たちは肉の人でありながら、肉の支配から解放されて、霊の人としてイエスから始まる線上を生きていくことができるのです。
祈ります。
- 神さま、今日はまた、コロナウイルス感染拡大により、会堂での礼拝を持てませんが、メール配信による自宅分散礼拝を持てますことを心から感謝します。
- 神さま、あなたは私たちの罪を裁き、裁くことによって私たちを罪から解放してくださる方です。私たちはあなたを信じることによって、私たち自身の罪の深刻さに気づかされました。あなたを信じなければ、私たちは自己中心的で罪を犯している自分の惨めさにも気づかずに、平然と生きていたに違いありません。あなたはイエスを私たちの所に送り、罪人としての惨めさに気づかせてくださり、罪から解放されて、イエスに従ってあなたの子どもとして生きる道を与えて下さっています。そのことを心から感謝して、霊の人として生きていくことが出来ますように、私たち一人一人をお導き下さい。
- 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
- 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
- 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
- この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン
⑩ 讃 美 歌 10(今こそ人みな)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-010.htm
⑪ 献 金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)
⑫ 頌 栄 28(各自歌う)
讃美歌21 28(み栄えあれや)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。