なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(503)

船越通信、№503 2022年2月13日(日)北村慈郎

・ 6日(日)は朝6時過ぎに礼拝式と説教原稿他をメール配信し、先週のように受信したメールの添付書類を開けられない人がいないか、メール配信の時に一言書きましたので、すぐにNさんから「開けられた」という携帯メールが送られてきて安心しました。その後一寝したところ、目を覚ましたのが9時半でした。朝食を取り、自宅分散礼拝をしましたら、12時近くになりました。この日は午後2時半から元住吉教会で川崎・鶴見地区の2・11集会がありました。この集会で私の戒規免職問題が取り上げられました。メインスピーカーは生田教会牧師のIさんですが、私にも発言してほしいと言われていました。娘が車で送り迎えをしてくれるというので、12時半頃鶴巻の自宅を出て、元住吉教会に向かいました。午後2時15分ごろに元住吉教会に着きました。

  • 午後2時半から集会が始まりました。元住吉教会礼拝堂講壇の前にある机に発言者のIさんが座り、マイクで司会者として最初に祈り、そしてこの日の発言をしました。途中ユーチューブ配信をしている元住吉教会の方が、ユーチューブを見ている人から声が小さいという連絡があったので、もっとマイクを近づけてくださいと、Iさんに伝えるというハップニングもありましたが、Iさんは2種類の資料に基づいて発言しました。一つは、戦時下以降の教団の歴史的出来事とそれに並行して私の経歴と問題意識を記したものと、も一つは、2010年に教団教師委員会による私の免職の手続き上のおかしな経過を記したものです。Iさんが話した後、補足的に私が話すように言われていましたので、私は、先ずIさんの私に関する話の中で明らかに間違っている数点を指摘し、なぜ川崎・鶴見地区の2・11集会で私の戒規免職問題が取り上げられたのか、聞いたときは意外に思っていましたが、私の免職問題のベースには日本基督教団の教会としてのあり方の問題、特に教団成立に関わる戦時下の国家への迎合の問題をどう考えるか、それは戦責告白への評価にも関わる問題で二分化している教団の現実があるわけで、そのことを考えると、私の戒規免職問題を2・11集会で取り上げるのも、あながちおかしなことでもないかもしれないと申し上げました。その後Iさんと私との間でのやり取りがあり、フロアーからも質問や意見が出て、予定の午後4時に集会を終えました。報告ではユーチューブ参加者が20数名、会場には10名前後の参加者がありました。集会後娘の運転する車で、途中海老名のパーキングでトイレ休憩をして、午後6時前には鶴巻のマンションに帰りました。
  • 7日(月)は午後2時から前立腺で3か月に一回通院している秦野日赤の泌尿器科に行き、1月半ばに撮ったMRIの結果を聴き、組織を取って調べる検査入院(3回目で3月半ば)の予約をしてきました。2泊3日の検査入院なのですが、この日血液検査のための血液の採取をし、胸のレントゲンを撮り、心電図も撮りました。また、入院のための説明や書類の記入などいろいろあり、午後1時半に病院に入りましたが、病院を出たのは午後4時半を過ぎていて、その後薬局に寄り薬をもらって、日赤病院から秦野駅まで歩き、改札前のスーパーで食材を買い求めて帰ってきました。家に着いた時には午後6時が過ぎていました。
  • 8日(火)午後6時半からオンライン(Zoom)による支援会の世話人・事務局会がありました。諸報告の中でK・HさんとK・M先生が2月7日(月)、8日(火)に行われた常議員会(一部Zoomによる)に陪席しての報告をしてくれました。その中で西中国教区議長のOさんが私のことで発言してくれたそうですが、通常の対面での常議員会だと、要請陪席の教区議長は議長団から遠くなので、その発言が全体に伝わりにくい感じだが、Zoomだと聞く側は真剣に聞かざるを得ないので、対面の常議員会とは違うように思えたと、K・M先生はおっしゃっていました。確かにそういう面がZoomの場合にはあるのかも知れないと、私自身も思いました。この世話人会・事務局会では、4月2日(土)に開催予定の支援会第9回総会の準備と通信第27号の編集発行がメインの議題でした。総会準備は大体できていましたが、メインのスピーカーが決まっていませんでした。6日の日曜日にあった川崎・鶴見地区2・11集会でも発言し、神奈川教区総会議長時代に私の戒規免職撤回議案を教区総会にかけるために努力して下さったり、常議員会でも聞く耳を持たない常議員かほとんどの中で、私の戒規免職の不当性を主張してくださった元住吉教会牧師のM・Nさんにお願いしようということになりました。その場で私が電話でお願いしたところ、M・N先生は快く引き受けてくださいました。通信第27号の編集発行の件では、殆どの原稿は既にそろっていますが、上記の常議員会報告も通信に載せる予定ですので、をK・HさんとK・M先生にできる限り早く原稿にしてもらうことにしました。その上で通信の原稿を編集作業をしてくれるS・Kさんに送り、2月末にはプリントパックから船越教会に印刷された通信第27号が届くように準備することにしました。発送作業は私の都合で2,3日かけて行なうようにし、コロナのこともあるので発送予定日が決まったら、一応皆さんに連絡することにしますが、無理しないようにしてもらうことにしました。
  • 2月11日は、ちょうど2年前のこの日の早朝、帰天した連れ合いの千賀がストーマから出血して、救急車を呼んで、治療を受けていた伊勢原東海大学附属病院に緊急入院した日でした。その前日10日には、自分の死の近さを感じたのか、千賀は、自分の葬儀の司式のことを心配していましたので、関田先生にお願いしたところ、先生は13日にわざわざ千賀が入院している病室まで来てくださり、お祈りをしてくださいました。けれども、その後新型コロナウイルス感染拡大のために、3月3日に帰天した千賀のお別れ会もできないまま、昨年11月には千賀の両親が埋葬されている紅葉坂教会の墓地に千賀の納骨をさせてもらいました。千賀は「もう充分、感謝」と言って、この世を去って行きましたが、私の中には53年の結婚生活を振り返って、受けるばかりで、もっと彼女を喜ばせてあげられなかったかと悔いが残っています。