3月13日(日)受難節第2主日礼拝(10:30開始)
(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま
しょう(各自黙祷)。
② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。
(イザヤ書55:6,7a)
③ 讃美歌 8(心の底より)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-008.htm
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
(当該箇所を黙読する)
⑥ 聖 書 ローマの信徒への手紙9章1-5節(新約286頁)
(当該箇所を黙読する)
⑦ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 175(わが心は)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-175.htm
⑨ 説 教 「連帯性」 北村慈郎牧師
祈 祷
- 大分春らしくなってきました。暖かな日差しを受けて、堅くなっていた身体が緩んできます。今日も会堂での礼拝はできませんが、ローマの信徒への手紙(以下ローマ書)から、語りかけを聞きたいと思います。
- パウロは、ローマ書1章から8章までで、イエス・キリストにおける神の救いの業につて、即ち<信仰によって義とされた者に、福音において約束される生命について語るべきことは>、すべて語り終えました。その結論としてパウロは、≪高いものも低いものも、ほかのいかなる被造物も、我らの主なるキリスト・イエスにおける神の愛から我々を引き離すことができない、と≫(8:39、田川訳)言っているのであります。
- 今、メディアが伝える悲惨なウクライナの状況を目にしますと、ロシアの軍事侵攻下にあって苦しんでいるウクライナの人々にとっても、この言葉が真実であると言えるのかと、問われる思いがいたします。本当に、「イエス・キリストにおける神の愛から私たちを引き離すものは何もないのだ」言い得るのであろうかと。
- むしろ、そのような神の愛が真実であるならば、神はなぜこの人間の愚かな行為を止めてくださらないのだろうかと、苦難の中でヨブが神を訴えたように、神を訴えたくなってしまします。
- けれども、聖書は、そのように神がオールマイティーとしてこの人間の歴史を支配しているとは語っていません。人間の歴史は、自由を与えられた私たち人間総体によって造り出されるものです。神は、私たちを、神の意のままに動く機械仕掛けの人形をして造られたのでありません。「神は御自分にかたどって創造された」(創世記1:27)と記されていますように、神は、私たち人間を、ご自身の「似姿」に造られたのです。「神のかたち」(似姿)とは、この人間に与えられた自由のことです。この自由をもって、私たち自身から、私たち人間が互いに愛し合うことによって、神の愛に応えることを、神は私たちに期待しているのであります。ただこの自由は、神を信じる自由であると共に、神を信じない自由でもありえます。
- ですから、私たち人間は神に対して、従順にもなり得ますし、不従順にもなり得るのです。パウロがローマ書9章から15章(16章は挨拶と神への賛美で終わる)までで問題にしているのが、まさにこの神(=福音)に対する私たち人間の従順と不従順についてなのです。
- <福音が従順につき当たった時の事情について、パウロは12-15章で理論の形式ではなく、注目すべき仕方で――どうして、従順について、それ以外の仕方で語られうるはずがあろうか――、すなわち一連のはっきりした勧めと指示の形式で叙述している>(バルト)と言われていますように、12章1節に≪こういうわけで、兄弟たち、神の憐みによってあなたがたに勧めます≫と言われていて、勧めと指示の形で、神に従順であるということはどういうことなのかが、12-15章において語られています。従順については、そのところで学びたいと思います。
- <しかし今、同じように注目に価することは、福音に対する不従順の問題が、それにふさわしい一連の非難や告発のような形式で、また悔改めを求める説教の形式で叙述されてはいないという点である>(バルト)と言われていますように、9章から11章までの記述を読みますと、不従順への非難、告発、悔改めを求める説教のような形での記述は一切ありません。
- <むしろ、それは反対に、まさに――言葉の最善の意味における――理論の形式で、すなわち不従順に対しても、真実であることを証しし、また究極的に勝利する、神の――実に福音が証ししている神の――業と道を、礼拝と讃美のうちに考察するという形式で叙述しているのである>(同上)。つまり、パウロは、不従順について、不従順への非難、告発、悔改めを求める説教のような形で語るのではなく、不従順に対する福音の真実における神の勝利の業と道を、神への礼拝と讃美のうちに考察するという形で語っているというのです。
- <もしそのことについて驚くような人があるとすれば、その人は次のように自問すべきであろう。福音自体を、特に最後の8章でなされたように理解し解釈してきた者が、まさに福音に対する不従順に直面した場合、神の業と道をその唯一のテーマによって乗り超えられ、また影に置かれたものとして眺め、また理解するというより以外のことを彼から期待できるであろうかと。キリスト・イエスにある者は、神の愛から離されえないということこそ、われわれが聞いた最後のことであった。このことを自分について敢えて語った者が、この主張の真理を次のことによって証明してはならないはずが、どうしてありえようか。すなわち、このような人はたとえ福音に出会う不従順を見たにしても、神への愛のうちで、狼狽したりせず、むしろ今こそ初めて正しく神の礼拝と讃美に向かっていっそう励まされるだけである。彼はあの主張の真理を証明する場合、この問題の取り扱いをも、いやこの問題の取り扱いこそ、人間の悪しき性質について苦情をのべるというような方向にではなく、神と神の性質に栄光を帰する方向に向かって形成していったのである。それこそ、パウロがこの9-11章でなしたことである。>(同上)。
- また、バルトの引用が長くなりましたのは、人間の不従順を問題にする場合、人間の不従順そのものではなく、その不従順に打ち勝っている、福音が証ししている神の働きから人間の不従順を見ることの大切さ、その視覚の大切さを語るバルトの指摘が重要であると思うからです。なぜなら、人間の不従順は人間自身によって変えられるものではなく、イエス・キリストの福音によってこそ変わり得るものだからです。
- そのことを語るローマ書9章―11章の導入部になるのが、今日のローマ書9章1-5節になります。パウロにとって人間の不従順の問題は、イエス・キリストの復活後も、聖霊がそそがれた後も、福音を拒んでいる大多数のイスラエルの不従順の問題と同じでした。なぜイスラエルであるのかについて、パウロは4-5節でその理由を述べています。
- ≪彼らはイスラエル人である。(神の)養子たることも、栄光も、契約も、律法を立てることも、礼拝も、諸約束も、彼らのものである。父祖たちも、彼らのものなのだ。肉によればその父祖たちからキリストも出て来たのである。キリストは万物の上にいます永遠に誉むべき神であるけれども。アーメン≫(田川訳)。
- イスラエル人は、イエス・キリストの福音にとっても特別な存在です。そのイエス・キリストによる救いは、まずユダヤ(=イスラエル)人にもたらされ、ユダヤ人から来たのです。また神の恵みは、まずユダヤ人に向けられそしてユダヤ人を通して非ユダヤ人(異邦人)にも向けられる恵みなのであります。
- <まさにそれゆえに、イスラエルが福音に対する不従順に関して重大な関係があることは、ここに決定的である。人間の不従順が現実となり、また啓示されるためには、ほかならぬ神の恵みの完全な根源的な現在が必要とされるのである>(同上)。
- この人間の不従順は、福音に対する従順に導かれたキリスト者、教会にとって、憤慨と非難の対象にはなり得ません。この不従順は、不従順な者にとって、<福音のよき業全体から排除されることを意味し、従って神が福音によって人間に関して望んでおられることから排除され、この世において神の栄光をあらわす業に参与することから排除されることを意味する。従って、不従順な者は、その不従順自体によって打たれ罰せられている。すなわち、不従順は、実は彼らに向けられた神の恵みに対し、徹底的に不可解な拒否をすることのなかに成立するゆえに、二重の罰を受けるのである。彼らは非難されるどころか、むしろ悲しまれるべきである。パウロが――イスラエルの愛国者としてではなく、使徒として――彼らについて「大きな悲しみと心に絶えざる痛み」を持っているということこそ、彼が2節で、この事柄における態度決定として告白せねばならぬことである>(同上)
- ちなみに2節は、≪私には苦しみが大きく、私の心には絶えざる痛みがあのだ≫(田川訳)です。
- <パウロは彼のこの痛みを、1節によれば最も厳かな方法で彼の宣教の対象とした。彼は、この事柄において、「キリストにある真理(真実)」を語る。彼は、ここで語らねばならぬことに対してこそ、聖霊の証しに訴える。彼は、大部分異邦人から成り立っているローマの教会、この信者たち、この従順な人たちを、3章の長きにわたって不従順の問題、イスラエルの問題に取り組ませ、しかもこのような意味で取り組ませ、彼らに、彼の痛みにあずかるように呼びかけることがやりがいのあることであり、また必要なことであると考える。いや、彼は彼らにそれ以上のことを語る。彼は3節で、その不従順なイスラエルの兄弟のためならば、キリストから呪われてもいとわないと敢えて述べるのである。/それが不遜な誇張でないとすれば、この言葉が語っていることは次のごとくである。従順になった者としての彼、イエス・キリストの使徒としての彼はいかなる場合にも、またいかなる仕方でも、イスラエルの不従順と排除という事実に満足することはできないのだ。彼は従順な者であればこそ、不従順な者が不従順にとどまらないという事実によって立ちも倒れもする。もし彼らが不従順にとどまるなら、彼もまた福音から、その栄光から、神の栄光をあらわす奉仕から、閉め出されることを欲しもし、また事実閉め出されるであろう。さらに言えば、ここで語られているのは、決して何か人間的な真実なのではない。事柄自身が、福音が、従順な者と不従順な者との間の完全に無条件な連帯性を要求するのだ。なぜなら、それはパウロの私事ではなく、彼がローマのキリスト者たちに、彼にも彼らにも同様に力を持つ、「キリストにある真理」として宣べ伝えていることであるからである>(同上)。
- ≪私には苦しみが大きく、私の心には絶えざる痛みがあのだ。実際、私の肉による同族の兄弟たちのためなら、私自身は呪われた者となってキリストから離されてもよい、と願ったほどである≫(2,3節、田川訳)。
- このパウロの告白は、「事柄自身が、福音が、従順な者と不従順な者との間の完全に無条件な連帯性を要求する」ことを示していると言うのです。私たちは、福音の下にあるこの従順な者と不従順な者との連帯性を、キリスト者として意識して、生きてきたでしょうか。圧倒的に少数者であるキリスト者としての私たちは、自分の信仰に踏みとどまることに精一杯で、不従順な者との連帯性にまで思いを馳せることが出来なかったか、出来たとしても、余りにも弱かったのではないでしょうか。
- かつて日本の太平洋戦争における戦時下の教会やキリスト者のように、「従順な者と不従順な者との間の完全に無条件な連帯性を要求する」福音を証言できずに、神に逆らい、暴力をもって人の命を奪う戦争を遂行する国家とその国家を主導する人々の神への不従順に妥協・容認する過ちを、私たちは再び犯してはなりません。今実際に行われているウクライナにおけるロシア軍の軍事侵攻の日々伝えられる悲惨な現実を目にする時に、改めてそのことを強く思わざるを得ません。主がその福音によって、私たち人間の不従順の愚かさから私たちを解放して下さいますように!
祈ります。
- 神さま、今日もまた、コロナウイルス感染拡大により、会堂での礼拝を持てませんが、メール配信による自宅分散礼拝を持てますことを心から感謝します。
- 神さま、私たち人間はあなたによって、あなたの似姿に造られた者たちであります。何ものによっても私たちを引き離すことの出来ないあなたの愛に応えて、私たちも互いに愛し合う者さとしてください。私たち人間の歴史に長く続く国家や民族による分断を超えて、人と人とが世界大の連帯に生きる道を、どうかあなたが切り拓いて下さいますように。今も国家や民族の分断によって苦しむ人々をあなたが支えてください。
- 東日本大震災が起こって11年が経ちました。東電福島第一原発の事故をはじめ、被災し、避難した人々の悲しみや苦しみを思う時に、まだこの大震災は終息していません。どうか今も被災の中にある方々を支えて下さいますように。
- 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
- 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
- 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
- この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン
⑩ 讃 美 歌 151(主をほめたたえよ)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-151.htm
⑪ 献 金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)
⑫ 頌 栄 28(各自歌う)
讃美歌21 28(み栄えあれや)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。