なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(39)

3月20日(日)受難節第3主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。

                    (イザヤ書55:6,7a)

③ 讃美歌   11(感謝に満ちて)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-011.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編31編8-14節(讃美歌交読詩編32頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙9章6-13節(新約286頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌      433(あるがままわれを)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-433.htm

⑨ 説  教    「神の選び」     北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • ウクライナで行なわれている戦争で、日々命を落としている人が多くなり、大変な苦しみの中にある人々のことを思う時に、私たち人間がこの戦争を止めることができないことに、無力さと共に憤りさえ持ってしまいます。ただ、このような現実の中で、難民に壁を作って拒否するのではなく、国境を開いて受け入れる国々があること、多くのNGO、ボランティアの人々が、ウクライナのこの戦争による被害者を支えようとして力を尽くしていること、ロシアに住む人の中からも反戦の声を挙げ、行動する人が出てきているということなどは、私たちに希望を与えてくれています。このロシア軍のウクライナ軍事侵攻という現実の中で、私たちができることをよく考え、行動していくことができればと願っています。

 

  • そのような現在の状況の中で、ローマの信徒への手紙(以下ローマ書)からどのようなメッセージを与えられるのか。その問いを持って、自分自身このローマ書からアップトゥデイトなメッセージを読みとれるだろうかとの思いをもちながら、毎週日曜日の説教に取り組んでいます。
  • さて、今日はローマ書9章6節―13節から、私たちへの語りかけを聞きたいと思います。
  • パウロは、9章1-5節で、自分もその一員であるイスラエル人の神への不従順を、自分自身の「大きな悲しみと絶えない痛み」(2節、クランフィールト訳)でると告白し、≪実際、私の肉による同族の兄弟たちのためなら、私自身は呪われた者となってキリストから離されてもよい、と願ったほどである≫(3節、田川訳)と述べていました。

 

  • そのようにパウロが同胞イスラエルの不従順に対する彼自身の思いを語った後、9章6節以下でパウロイスラエルの不従順の問題について、11章までの3章に渡って諄々と語っていきます。

 

  • イスラエルは神によって選ばれた民です。その民が神に対して不従順であるわけです。ならば、神の選びはどうなるか。イスラエルを選んだのは神ご自身ではなかったか。神のこの決断は間違いだったのか。当然イスラエルの不従順から、そのような神への問いが生じます。
  • それに対して、パウロは、先ず6節前半で、≪決して、あたかも神の言葉が失墜した(新共同訳は「効力を失った」、口語訳は「無効になった」)などということはない≫(田川訳)。つまり、イスラエルを選んだ神の選びという神の言葉は、イスラエルの不従順によって無効になったなどということはない、とパウロは断言しているのであります。

 

  • 9章6節後半以降、パウロイスラエルにおける神の選びについて、アブラハムとサラ、イサクとリベカ、ヤコブエサウの物語を引き合いに出して語り、11節、12節ではこのように述べています。
  • ≪まだ子らが生れる前に、つまり(その子らによって)何らかの善や悪がなされる前に、(すでに)選びによる神の予定が(定められていて、それが)実現するようにと、リベカに対して「長子が次子に仕えることになろう」と言われたのである。その選びは業績の結果生じることではなく(人を)召し給う神から生じる≫(田川訳)。

 

  • ここでは、このようなことが述べられているのではないかと思います。つまり、神が、兄のエサウではなく、弟のヤコブを選んだのは、二人の母親のリベカがまだ二人を出生する前であった。そのことは、神の選びは、「業績の結果生じることではなく(人を)召し給う神から生じる」と。

 

  • ですから、イスラエルの不従順は否定的な人間の業績と言えますから、もし神の選びが「業績の結果生じる」ならば、イスラエルの不従順によって神の選びも無効になってしまうことになります。パウロは、そうではなく、神の選びは、「業績の結果生じることではなく(人を)召し給う神から生じる」と言っているのであります。

 

  • バルトは、『ローマ書講解』(いつも長い引用をしているのは、『ローマ書新解』からですが)の今日の箇所のところで、シュラッターの言葉を引用してこのように言っています。<「神はあなたのためにあなたを助けるのではなく、神みずからのために助ける」(シュラッター)。かれがこれとちがった目的のためにあなたを助けるなら、それはあなたを全然助けているのではない。あなたを助けているのは断じて神でない>。

 

  • 私はこの言葉を読んだとき、最初何を言っているのか、すぐには理解できませんでした。私たちにとって助けとは、私たち自身のための助けであるという前提で、バルトの言葉を読んでいたからです。けれどもバルトの言葉は、そうではなく、神は神自らのために私たちを助けるのだと言っているのです。そして、そのような助けこそ、私たちの本当の助けになるのだと言っているのだと思います。

 

  • 少し横道にそれてしまったかも知れませんが、≪決して、あたかも神の言葉が失墜した(新共同訳は「効力を失った」、口語訳は「無効になった」)などということはない≫(田川訳)に戻りたいと思います。

 

  • ここでもまた、バルトの言葉を紹介したいと思います。『ローマ書新解』によりますが、このローマ書の「神の言葉」について、バルトはこのように述べているのです。<…神の言葉、イスラエルにも与えられ、いや根源的にそして真先に、まさしくイスラエルにこそ与えられた福音(バルトは「神の言葉」を「福音」に置き換えています)は、福音に対するイスラエルの不従順によって消滅したり、宙にういてしまったり、力がなくなってしまうのではなく、むしろ福音は、この不従順な者が存在することにおいても、それなりのやり方で、強化されていくのである>(下線北村)。

 

  • 上記下線部分を、くり返し確認していただきたいと思います。そしてバルトは「不従順ということの意味」について、このように述べているのであります。<不従順ということの意味は、‥‥不従順な人間が、福音における神のよき業から排除されているように、また福音によって人間に向けられている、神の讃美に積極的にあずかるということからも排除されているということである。しかしそのような排除は、神の言葉の成就、福音の業に属する>。人間の不従順は神の言葉である福音の業から排除されていることによって、福音の業に属しているというのです。

 

  • 例えば今ウクライナに軍事侵攻しているプーチンのような福音に不従順な人間には、福音における神のよき業から排除されていることが、彼に語りかけられている福音なのだと言うのです。ただテレビでプーチンが十字を切っている所作をしているのを見たことがあります。彼はロシア正教会員であるようですが、現在のロシアのロシア正教は体制とべったりの関係にあるようで、イエス・キリストの福音を人間の都合の良い安価なものにしていると思われます。聖書の語る福音は、「神はあなたのためにあなたを助けるのではなく、神みずからのために助ける」(シュラッター)ものですから、その福音からすれば、プーチンは福音に不従順な人間としか言いようがありません。もちろん、私たちも不従順な人間であります。

 

  • バルトはこう述べています。<われわれが1-8章で実にはっきり聞いてきたように、福音は人間を全面的に神から排除する。すなわち、福音は人間を全面的に不従順な者として特徴づけ、さらにそのようなものとして彼を中に引き入れ、また肯定し、そのようなものとしての彼に、神の賜物と課題を示すのである>と。そして<彼がイエス・キリストにおいて殺され、またイエス・キリストにおいてのみ、死人の中から甦らされること、それがあらゆる人間に向けられた神の言葉の内容である。われわれは、排除された者を見る時、どのような場合にも福音の外に排除された者としてではなく、福音自体によって排除された者と考えるべきである。‥‥それは排除のためではなく、包含のためなのであるが、とにかく、そこではこの排除がなされる>。

 

  • 福音における不従順な者の排除は神の裁きです。不従順な者は福音によって徹底的に裁かれ、一度古い自己中心的な自己が殺されなければなりません。そのように一度福音によって死んだ者が、神に従順な者、すなわち福音にふさわしい人間として生きていくことができるのです。それが、福音における排除と包含です。

 

  • <誰が彼を排除し、これを迎え入れるのか。それをなすのは、どちらかの良い、または悪い意志ではなく、殺し、また生かす神の言葉、初めからイスラエルの希望であり、しかしまさにそれゆえに、イスラエルの裁き主でもある、神の憎みと愛の言葉である(13節)。この言葉がどちらの場合も最高度に支配する。この言葉は神の自由な憫(あわ)れみの人格的な言葉である。そしてそれゆえに、その言葉がどこに宿ろうとし、どこに宿ろうとしないか、歴史の中でどこにその起源を持とうとし、またどこで持とうとしないかは、その言葉自体が決定するのである。それゆえにすべての父祖の歴史の中から、受容と棄却の二重のしるしがある。それは同じ言葉であり、そこで起こることは、どちらの場合も同じ言葉の確証なのである>(バルト)。

 

  • その言葉とは、肉となったイエスではないでしょうか。イエスはこの世で見捨てられた者の友となることによって、この世の支配者を裁いたのではないでしょうか。この世の支配者はイエスを十字架につけて殺しましたが、神はそのイエスを復活させてこの世の支配からの勝利を私たちに告げているのではないでしょうか。

 

  • ≪決して、あたかも神の言葉が失墜したなどということはない≫(6節a、田川訳)。神の言葉(=福音=イエス)に信頼して、今ここでの状況に向かい合って、私たちに先だって歩んでおられる主イエスに従って生きていきたいと思います。

 

  • 主がその私たちの歩みを支えてくださいますように!

 

祈ります。

  • 神さま、今日もまた、コロナウイルス感染拡大により、会堂での礼拝を持てませんが、メール配信による自宅分散礼拝を持てますことを心から感謝します。来週からは会堂での礼拝を再会したいと思います。
  • 神さま、あなたはイエス・キリストの福音によって、私たちの不従順を裁き、私たちを救うことによって、イエスの仲間として、私たちをあなたに従順な者として生かそうとしてくださっていることを覚え、心から感謝いたします。
  • 御心ならば、私たちをそのような者として、今この余りにも暴力的な世界を生きていますが、互いに愛し合う世界の到来をめざして、この暴力的な世界にのみ込まれることなく、この世界に抗って生きていくことができますように、その命の力を私たちに与えて下さい。
  • ウクライナでの戦争の終結を心から祈ります。また先週には福島沖で大きな地震があり、亡くなった方もあり、被害も多く出ています。そのために今苦しんでいる人々を、あなたが支え、適切な支援の手が速やかに行きわたりますように祈ります。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌      504(主よ、み手もて)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-504.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。