4月10日(日)棕櫚の主日礼拝(10:30開始)
(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま
しょう(各自黙祷)。
② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。
(イザヤ書55:6,7a)
③ 讃美歌 149(わがたまたたえよ)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-149.htm
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編24編1-10節(讃美歌交読詩編25頁)
(当該箇所を黙読する)
⑥ 聖 書 ローマの信徒への手紙9章30―33節(新約287頁)
(当該箇所を黙読する)
⑦ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 309(あがないの主に)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-309.htm
⑨ 説 教 「石に躓く」 北村慈郎牧師
祈 祷
- 今日は、教会歴によりますと、「棕櫚の主日」で、今日から受難週です。今週の金曜日にイエスは十字架に架けられ、虐殺されて、死んでいきます。そのような人間の死だけを考えますと、今ウクライナのロシア軍による虐殺で殺されていった、或いは今も殺されている多くのウクライナの人々のことが、イエスの十字架死と重なってきます。その意味で、今年の受難週は特別な時に思われてなりません。
- 今日は、棕櫚の主日ですが、ローマの信徒へ手紙(以下ローマ書)の続きの箇所(9:30-33)から、わたしたちへの語りかけを聞きたいと思います。
- パウロは、自分の同胞イスラエルの人々、ユダヤ教の会堂の人々のことを問題にしているローマ書9章(―11章)において、これまではどちらかと言うと、反対者の言うことを受けて、何とか説明しようとしてきました。神はユダヤ人を神の民として選んだにもかかわらず、肝心のユダヤ人が神に逆らっていることについて、反対者は、神の約束は無効ではないか(6節)。神の側に不正があるのではないか(14節)。神に人間を責める権利があるか(19節)。こういう質問をパウロに投げかけているからです。パウロはこれらの質問に何とか答えようとしてきたのです。ですから、パウロの答えは、何となく、歯切れがわるいいというか、遠回りな感じがしないでもありませんでした。
- 30節で、まずパウロは14節の問いをもう一度取り上げています。14節の問いとは、このような問いです。「では何と言おうか。神のもとに不正があるとでも?」(田川訳)です。そして「義を追い求めない異邦人が義を得た。信からの義である」(30節、田川訳)と述べているのです。それに対して、「義の法(律法)を追い求めるイスラエルは法(律法)に達しなかった」(31節、田川訳)と言っているのです。
- ここには、異邦人とイスラエル=ユダヤ人の対照的な姿が描かれています。「義を追い求めない異邦人」に対して「義の法(律法)を追い求めるイスラエル(=ユダヤ人)」です。また、「異邦人は義を得た」に対して「イスラエル(=ユダヤ人)は法(義の律法)に達しなかった」です。
- この異邦人はイエス・キリストの教会のメンバーです。ユダヤ人の中にもごく少数の者(残りの者)は教会のメンバーになっていますが、殆どのユダヤ人はユダヤ教徒として、回心前のパウロと同じように教会の迫害(否定)者です。
- バルトは、「義を追い求めない異邦人が義を得た。信からの義である」(30節、田川訳)という30節について、このように言っています。<神の義がイエス・キリストの教会において出来事となったと言い、その教会には、「欲するところや、走るところによって(つまり人間の決意や行動によって)導かれたのではないのに、この神の義、あわれみの意志を事実上理解し、把握した異邦人が存在する。それはきわめて単純に起こった。それは死人の目覚めであった。彼らは死人の目覚めを信じ、それによって、死人の目覚めが彼らを益したのである。それが従順な者の従順である>と。
- この異邦人は、死人の目覚めを信じ、神の義、あわれみの意志を事実上理解し、把握したと言うのです。信による義(信仰義認)とは、死人の目覚めを呼び起こす神の奇蹟によるとしか言いようのないものです。信(信仰)とは、自分から生きるのではなく、イエス・キリストにおける神の憐みを信じて、神から生きることだと言えるでしょう。それは死人の目覚めを呼び起こす神の奇蹟としか言いようのないものなのです。
- <それに対立しているのが(31節)、今日に至るまで続けられているイスラエルの試み、すなわち義の律法――約束と契約の民イスラエルに与えられた生の秩序――を、その欲するところと走るところにより、その決意と行動の力で満たそうとする試みである。しかしその結果、イスラエルはそのためかえって神の義を把握し、理解しなかったばかりでなく、律法、すなわち彼に与えられた生の秩序をも事実上、満たさずに終わってしまったのである。イスラエルにはかの異邦人に欠けていたいっさいのものが欠けていなかった。しかし、32節前半によれば、次のこと、つまり決定的なことが欠けていたのである。すなわち、イスラエルは自ら欲し、また走っていき、かくして律法の業を自分で成就することにより律法を満足させようとし、一方、与えられている約束――それこそ律法の意味なのだが――への信仰のうちに、すべての業の中の業を行なうことをせず、神が彼に対して欲したことを信じるという業をしなかったのである。このことが欠けたために、イスラエルはまさに律法を満たそうと欲したことにより、かえって律法を犯してしまった>のであります。
- 32後半―33節には、そのようなイスラエルについてこのように記されています。「彼らは障害の石にぶつかった。『見よ、シオンに障害の石を、躓きの岩を置く。これを信じる者は、恥を蒙ることがない』(田川訳)と書かれてあるように」。
- <32後半―33節によれば、イスラエルは石につまずいたのであり、本来イスラエルが立つべきであった岩、神のあわれみの意志につまずいたのである。神のあわれみの意志は、イスラエルがそれに対し、信仰を捧げず、従って従順を示さなかったことにより、イスラエルに対して滅びとならざるをえなかった。イスラエルはまさに神によってイスラエルに備えられた救いをはずかしめたのである。それこそ人間の欲すること、また走ること自体が、たとえ神ご自身により最善に備えられた条件のもとにおいても、造り出さざるをえないものである。すなわち、その業は不信仰という破滅的な業である。信仰において把握されるべき神のあわれみのみが、神と人間の共存を保証し、従って人間を救うことができるであろう。かくして神のあわれみのみが、ただひとり人間に向かって立つ。神のあわれみのみが、人間の告発ではあるが、またその希望でもあることは、神のあわれみがその裁き主の義にほかならないのと同様確かなことである>。
- <こうしてみれば、ひとりの人間が、律法の行為によっては救われないで、神の恵みによって救われるということと、全く同じであることが分かるのであります。義の律法を追い求めたイスラエルが、そのために、かえって、失敗し、神との間の関係は、恵み以外には考えられなかった異邦人が救われた、というのは、世界の歴史の中のまことに大きな皮肉であります。しかし、これこそ、実に、神のお望みになるところであり、神のみ心にかなうことであったのです。なぜなら、これこそが、神を神として崇め、神に栄光を帰する、ただひとつの道だからであります>(竹森)。
- わたしたちも、このことをしかりと覚えておきたいと思います。私たちが、神に招かれて、信じてキリスト者(キリストの者)とされたのは、私たちの生と死において神に栄光を帰し、神を讃えるためだからであります。それが本来の神に造られた被造物としての人間の生なのです。
- 私はロシア軍によるウクライナ軍事侵攻のさ中で、人間の高慢の罪の恐ろしさに打ちのめされながら、この説教を準備していて、4月7日の朝に読んだ「この人を見よ」と言う表題のボンフェッファー『主のよき力に守られて、~ボンフェッファーの一日一章~』に、励まされました。少し長くなりますが、その全文を読んでみます。
- <この人を見よ。この人において、神とこの世との和解が成立した。この世界は、破壊によってではなく和解によって克服されるのである。この世界の現実と対決して、この現実を克服するのは、われわれの理想や計画ではなく、また良心や義務や美徳でもなく、ただ神の完全な愛だけである。この世に対する神の愛は、この世の最も激しい現実にまで到達し、この世の苦しみを身に負うのである。この世はイエス・キリストの体に激しく襲いかかるが、キリストは苦しめられながらもこの世の罪を許す。このようにして和解が成し遂げられるのである。この人を見よ。この和解者である神人イエス・キリストの「かたち」は、神とこの世界との中間に立ち、すべての歴史、出来事の中心となる。
この「かたち」によって神の秘密が明らかにされるが、同時にこの世界の秘密も明らかにされる。どのような悪の深淵も、この世界を神に和解させた方によって、隠れたままでいることはできない。それどころか、神の深い愛は、神のいないこの世の最も深い淵をも、その中に包み入れるのである。神は、われわれの理解を越え、この世の正義と敬虔とについてのあらゆる考えをひるがえす。神は、自分をこの世に対して罪あるものとし、そのことによってこの世の罪を取り除く。神は、屈辱的な和解の道を歩み、この世を解放する。神は、われわれの罪責を身に負い、罪責がわれわれのうえにもたらす罰と苦難とを自分に引き受ける。神が神なき者の味方となり、愛が憎しみの味方となり、聖なる者が罪人の味方となる。今や、いかなる神なき者もなく、いかなる憎しみも、罪もなくなる。神がそれらすべてを自分に引き受け、苦しみ、そしてその報いを受けるからである。今や、神との和解に入れられず、神との平和を与えられていないようないかなる現実も、いかなる世界もなくなる。このことを神は、その愛するみ子イエス・キリストにおいて成し遂げたのである。この人を見よ>。
- イエス・キリストによって成し遂げられた神との和解と平和な世界は、ロシア軍によるウクライナの軍事侵攻をはじめ、未だ専制主義的な国家を抱えており、また新自由主義的な経済優先の格差社会を是としているこの現実の世界にあっては、人間の高慢な罪によって覆い隠されてしまっているかに思われます。それにも拘わらず、私たちはイエス・キルストにおける神の慈しみを信じて、平和を造り出す者として、ロシア軍のウクライナへの軍事侵攻という暴挙に対して、抗議すると共に、神がイエス・キリストにおいて開いて下さった和解と平和な世界を指し示していきたいと思います。
- 主が私たちにその力を与えてくださいますように。
祈ります。
- 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
- ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まってから、今日で46日になります。最近ロシア軍が撤退したウクライナの町の惨状が明らかになってきました。そこには戦闘員でない民間人の虐殺死体が放置されていたり、生存していた人の証言によれば、ロシアの軍人の目に余る暴力は、本当に赦し難いことであります。けれども、かつて太平洋戦争において、日本軍兵士も、すべての兵士がというわけではないと思われますが、多くの兵士は、アジアの人々に対して、また沖縄の人々に対して、同じようなことを行ったに違いありません。一刻も早く停戦が実現しますように祈ります。
- イエス・キリストの福音が示す人間の救い=解放に、どうぞすべての人が浴し、敵対と争いから解放されて、平和と和解によって生きていくことのできる世界が到来しますように、心から願います。
- 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
- 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
- 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
- この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン
⑩ 讃 美 歌 305(イエスの担った十字架は)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-305.htm
⑪ 献 金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)
⑫ 頌 栄 28(各自歌う)
讃美歌21 28(み栄えあれや)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。