なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(43)

4月24(日)復活節第2主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃美歌    151(主をほめたたえよ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-151.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編145編1-13節(讃美歌交読詩編158頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙10章1-4節(新約288頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     290(おどり出る姿で)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-290.htm

⑨ 説  教    「救いを求める」     北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • 皆さんには、自分は日本人であるという意識がどの程度あるでしょうか。そして、同じ他の日本人に対して、一つの民族に属する者として、他の民族に属する人とは違って、同胞としての特別な親近性をどの程度お持ちでしょうか。

 

  • 1945年以前の戦前には皇民化教育もあって、天皇を中心としたヤマト民族の一体性を、私たちは強制的に持たされたわけです。しかし、戦後、特に私の世代は、日本人という意識も、同胞というような意識もほとんど持たないまま、個としての自己を生きてきたように思います。

 

  • ですから、今日のローマ書の箇所もそうですが、パウロの同胞愛のような同じユダヤ人に対する強い思いに触れますと、正直自分にはそれほどの思いは同じ日本人に対してないなあと思わざるを得ません。

 

  • <9章のはじめでパウロは読者(ローマの教会の信者たち)に、救済に関してユダヤ人に特権があるのかないのか、という問題を説明しはじめました。しかし、書いているうちに、読者のことはそっちのけになって、むきになって直接ユダヤ人に対して議論をしかけるようになります。それが、ここ(10章1節)でもう一度、読者(兄弟たちよ)に対する説明にもどってきたのであります>(田川)。

 

  • つまり、改めてと言うか、この10勝1節で手紙の宛先であるローマの教会の信者たちを指して「兄弟たちよ」と呼びかかけているのです。そして、「わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」(新共同訳)と言っているのであります。「彼ら」とは勿論ユダヤ人です。

 

  • パウロは9章1節以下で、「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」(2節)と言って、「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っている」(3節)とまで言って、同胞であるユダヤ人が神に選ばれていながら、また肉によれば、キリストも彼らと同じユダヤ人であるにも拘わらず、キリストと神に不従順な生き方をしていることを、心から嘆いていました。

 

  • 同胞であるユダヤ人に対するそのようなパウロの思いが、ユダヤ人の救いを求めるパウロの祈りとなっていったに違いありません。そのように同胞のユダヤ人の救いを求める熱い祈りを、パウロは祈りつつ、ユダヤ人のキリストと神への不従順な生き方を鋭く見抜いていたのであります。

 

  • 10章2-3節で、パウロはこのように述べています。「すなわち、彼らが神の熱心を持っていることは私も証言する。けれども彼らは(正しい)認識によってはいない。神の義を知ることなく、自分の義を立てることを追い求めているからである。神の義に従わなかったのだ」(田川訳)。

 

  • ここでは、ユダヤ人の熱心が、「自分の義」を追い求めるものであったため、「神の義」を知ることなく、「神の義」に従わなかったと言われているのです。そこにユダヤ人の問題があると、パウロは言っているのであります。

 

  • この熱心に自分の義を追い求めるユダヤ人の生き方とは、どのような生き方なのでしょうか。そのユダヤ人の生き方は、かつてのパウロ自身の生き方でもありました。パウロがまさにそのような熱情の人であったことは彼自身が証言しています。

 

  • フィリピ書3章5節~6節では、「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのないものでした」と言っているのです。また、ガラテヤ書1章14節では、「また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」とも言っているのであります。

 

  • パウロは、かつてのユダヤ教徒であった時の自分の姿に重ねて、現在のユダヤ人は熱心に神に従う者になろうとして、自己の義を追い求めているけれども、それでは神の義に従うことはできないのだと、言いたいのです。神に喜ばれるために、ユダヤ人は神が与えてくれた、かく生きよという律法の定めを、熱心に守って自分の義、つまり神によしと言われるような者になろうと、一生懸命それを追い求めているのです。しかし、むしろそのユダヤ人の熱心さが、彼ら・彼女らが神によしとされることを妨げているのだと、パウロは言っているのです。ユダヤ人は「神の義を知ることなく、「神の義」に従わなかったというのは、そういうことです。

 

  • クランフィールドは、「神についての彼ら(ユダヤ人)の知識の正に核心には誤ったそして根深い無知がある。そして彼らの熱心なまた几帳面な従順の中心には頑固な不従順がある」と言っています。ユダヤ人の神についての知識は、その核心は無知であり、ユダヤ人の熱心な従順は、その中心は不従順なのだと言うのです。

 

  • このような神につての正しい認識に基づかないユダヤ人の熱心さは、「見当違い」の熱心であると言えるでしょう。この神に対する「見当違い」の熱心がユダヤ人を神への不従順へと導いたと、パウロは言うのであります。

 

(以下はほぼ川島重成による)

  • ここでユダヤ人の、そしてわたしたちのものでもありうる、「見当違い」の熱心の例として、福音書における「ベタニアの女の油注ぎ」のエピソードを想い起したいと思います。この物語の並行記事はマタイ26章6節~13節、マルコ14章3節~9節、ヨハネ12章1節~8節にあります。一人の女(ヨハネでは、ラザロの妹マリア)が純粋で非常に高価なナルドの香油をイエスの頭に注ぐ(ヨハネでは、イエスの足に塗り、自分の髪でぬぐう)のです。イエスの葬りの備えをしたというこのイエスへの心からの献身の――ヨハネによれば、「家は香油の香りでいっぱいになった」(12章3節)という――行為を見てそこにいた何人かはその無駄使いに憤慨し、「この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」(マルコ14章4節~5節)と、その女を厳しくとがめた、というのです。ヒューマニズムの立場からすればしごくもっともと言えようこの非難こそ、「見当違い」の熱心の一典型ではないでしょうか。より大きな実り、より有益な業績を求めるこの熱心が、来るべきイエスの十字架の意味を捉え難くさせているのです。ただ従順に受けるしかないまったき恵みとしての神の義を虚しいものにしているのであります。ところがマルコが「そこにいた人の何人か」としているところを、マタイは「弟子たち」(26章8節)とし、ヨハネは「ユダ」(12章4節)としています。このことは、この「見当違い」の熱心が、罪人の――つまずきの石につまずいたイスラエルの――代表としてのユダだけのものではないこと、まさに「弟子たち」のものであり、わたしたちのものであることを暗示しているように思われます。ユダとは、まさにわたしたちのことなのであります。

 

  • 3節にある熱心なイスラエル人の「神の義を知らず、自分の義を求め」るあり方とは対極をなす「神の義に従う」――ベタニアの女の献身に端的に示された――あり方とはどのようなことを意味するのでしょうか。

 

  • 神の義とは、神が神たることを示すということです。(バルト)。その意味で、神の義は神の支配力(命)として見なされなければなりません。そしてわたしたちはキリストにおいて成ったこの新しい支配領域の中に入れられ、そのことで「自己追求や自己賞賛からのみならず自分自身についての思いわずらいや不安から解放」されるのであります。他方、神の義が単に賜物として理解されますと、神の義といえども人間が自由に処理し得る所有物となる危険が伴います。信仰は、私たちの意志には委ねられない神の義の働きであり、その現れに自らを引き渡すことではないでしょうか。イエスの生と十字架と復活を通して成就している神の義の支配力(命)に、自分をあけわたすことなのです。そのことを私たちに可能としてくださるのも、私たちの力ではなく、神ご自身がご自身の霊(聖霊)を私たちに送ってくださるからなのです。その意味でも、神の義が決してわたしたちの実存の問題に解消してしまうことのない神の主権であり、あくまでも他なる義であることを強調しなければなりません。

 

  • 「何故なら、キリストが律法の終りであって、信ずるすべての者にとって義にいたらせるものである」(4節、田川訳)からです。モーセの律法の支配は終わり、今やキリストにおいて成った神の義を従順としての信仰においてだけ受けることが許される、恵みの支配の時が始まったのであります。

 

  • もしそうであるとすれば、パウロが不従順な同胞であるユダヤ人の救いのために祈ることがよく理解できます。パウロは、自分たちだけでなく、全ての人が神の義の支配力の中に入ることを願わざるを得なかったに違いないからです。そのために、パウロは異邦人の使徒としての働きに徹していました。それは、自分の義を追い求めるがゆえに、「自己追求や自己賞賛からのみならず自分自身についての思いわずらいや不安」に陥り、互いに傷つけあっているところからすべての人が解放されて、敵も味方もなく、共にあることを喜び、互いに仕え合っていく神の義の世界の完成を願っていたからです。だから、同胞であるユダヤ人の救いのために祈ったのです。それは同時に、パウロが、今も不従順なユダヤ人のために神は手を差し伸べていると信じていたからでもあろうあろうかと思います。

 

  • 最後に今日の個所からの私たちへの問いかけを確認して終わりたいと思います。一つは「見当違いの」熱心さに、私たちにも陥ってはいないかどうか、自己点検が必要ではないかと思うのです。同時に、パウロが同胞であるユダヤ人のことを覚えて、ユダヤ人の救いのために祈ったそのような熱心さは、私たちにも必要なのではないかということです。また、イエス・キリストによって神が神たることを示す神の義の支配力、その命の支配下に私たちも入れられていることを覚えたいと思います。そのことは、「自己追求や自己賞賛からのみならず自分自身についての思いわずらいや不安」からの解放でもあるということを、です。幼児は自己の義を追い求めるのではなく、他からの義によって生きています。幼児のように私たちも、他からの義である神の義によって生きることができますように!

 

 

祈ります。

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • ウクライナへのロシアによる軍事侵攻が続いています。この戦争によって沢山の人々の命と生活が奪われていますが、残念ながら私たちは、この戦争をやめさせることができないでいます。それだけではなく、この戦争を契機にして、日本を含め、いろいろな国が他国からの侵略の抑止力として、軍事力の強化に向かおうとしています。
  • 神さま、軍事力による問題解決はあり得ないこと、また一度軍事力に使えば、沢山の 

人々の生活が犠牲になることを、特に携わる人々に分からせてください。そして、国や民族を超えて、人と人との信頼を築き、話し合いによる問題解決の道に、私たちを導いてください。

・様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。

  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     402(いともとうとき)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-402.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。