なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(45)

5月8(日)復活節第4主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃美歌    202(よろこびとさかえに満つ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-202.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編34編2-8節(讃美歌交読詩編35頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙10章14-21節(新約288頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    58(み言葉をください)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-058.htm

⑨ 説  教   「信仰は聞くことによる」      北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • 神は言葉をもって私たちに語りかけておられます。聖書は神の言葉であり、私たちは聖書を通して神が今私たちに語りかけている言葉を聞こうとして、聖書を読み、神の語りかけを聞こうとしているのではないでしょうか。

 

  • 私は、今まで、どちらかと言うと、聖書を読むという点に力を入れていて、神の語りかけを聞くという点を、少しおろそかにしてきたのではないかと、最近、もう80歳になっていますが、気づかされています。

 

  • そういう点では、毎日曜の礼拝での説教も、できるだけ正しい聖書解釈を、という思いで説教の準備をして、自分なりに説教をつくってきました。説教は、会衆と共に聖書から神の言葉を聞く時だと思うのですが、私の説教は、聖書の学びになってしまっているのではないか、神の語りかけにはなっていないのではないかと、反省させられるのであります。

 

  • 今日のローマの信徒への手紙(以下ローマ書)のところは、パウロが聖書から神の言葉を聞いていることが、よく示されているところではないかと思います。

 

  • パウロは、ローマ書10章13節で、<すなわちユダヤ人とギリシャ人の差別はない。同じ主が万人の主であって、その豊かさは主(の名)を呼び求めるすべての者に及ぶ>(田川訳)と言いました。ここでは、神は、「万人(全ての人)の主であって、その豊かさは、ユダヤ人であろうが、ギリシャ人であろうが、誰であろうと、主の名を呼び求める者に及ぶ」と言われているのであります。

 

  • この言葉を受けて、パウロは14節、15節で、このように言っています。<では、自分が信じたことのない相手をどうして呼び求められようか。また、自分が聞いたことのない相手をどうして信じられようか。また、宣教する者がいなければ、どうして聞くことができるか。また、遣わされることなくして、どうして宣教するだろうか。「良いことを福音として宣べ伝える者の足は麗しきかな」と書いてあるように>(田川訳)と。

 

  • パウロは、神を呼び求める者は、神を信じ、神の言葉を聞く者であるはずだと語って来て、更に神の言葉を聞くためには、それを語ってくれる人、つまり宣教する人がいなければならないと言うのです。<また、宣教する者がいなければ、どうして聞くことができるか>と。そして更に、<遣わされることなくして、どうして宣教するだろうか。「良いことを福音として宣べ伝える者の足は麗しきかな」と書いてあるように>と言っているのであります。

 

  • そして、今やパウロ自身が、「良いことを福音として宣べ伝える者の足は麗しきかな」と言われる、イエス・キリストの福音を宣べ伝える異邦人への使徒として存在しています。ペテロをはじめイエス・キリストの福音を宣べ伝えるユダヤ人への使徒も存在し、ユダヤ人の教会も生まれているのであります。しかし、その教会を否定するユダヤ教の会堂に属するユダヤ人が圧倒的に多いという現実があり、そのようなユダヤ人を意識して、パウロはこのローマ書9-11章を書いているのであります。

 

  • ユダヤ人は、聖書を持っていることを、誇りとしていました。また、ユダヤ人は、実際によく聖書を読みました。自分の家で、会堂で、毎日のように聖書を読んだのであります。おそらく暗記するほど熱心に聖書を読んでいたと思われます。しかし、聖書を読んでも、ユダヤ人は聖書から、神の言葉、神の声を聞かなかったというのが、パウロの言い分です。

 

  • パウロは、16節、17節でこのように記しています。<しかしすべての者が福音に聞き従ったのはない。すなわちイザヤは言っている、「主よ、我々から聞いたことを誰が信じましたか」と。従って、信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉を通してなのである>(田川訳)。

 

  • ここには、預言者イザヤの言葉を引用して「主よ、我々から聞いたことを誰が信じましたか」(イザヤヤ53:1)と書いてあります。これが大事な点なのであります。

  (以下はほぼ竹森満佐一『ローマ書講解説教Ⅲ』による)

  • ユダヤ人も、イザヤ書53章の苦難の僕のことだけを読むのであれば、理解できないことはではなかったでしょう。そういう痛ましい運命を辿る預言者の話であれば、彼らにもよく分かるし、その美しさに心躍らせるかも知れないのであります。しかし、それが、実際に彼らのひとりとして生まれ、彼らの中に生活し、彼らが殺した、あのナザレ出身のイエスであるとすれば、話は別になってくるのであります。苦難の僕とナザレのイエスは、容易に結びつきません。しかも、パウロは、それが結びつかないところに、彼らが、聖書を神の言葉として読み、聖書によって神の声を聞くことができなかった理由があると言っているのであります。そのことを考えます、イザヤのこの言葉は、まさにユダヤ人たちにそのまま、あてはまるのであります。いや、ユダヤ人だけでなく、すべての人間にそのままあてはまると言ってもいいかも知れません。キリストの十字架について聞いたことを、だれが信じ得たでしょうか。

 

  • キリストが聖書の内容であるということは、決して受け入れやすいことではありません。パウロが、イザヤ書の言葉を引用して書いているとおりであります。なぜなら、それは、十字架の福音を信じることだからです。十字架を信じるには、自分が。キリストの十字架が示すように罪人であることを認めて悔い改めることが、どうしても必要なのです。それは、聖書のうちにさえ、人間の美しさや喜びだけを見ようとするわたしたち人間にとっては、非常に難しいことなのです。神の恵みを受けることができない罪人であると自分を認めることは、愚かな誇りにおごっている人間にとっては、耐えがたいことなのであります。だから、パウロは「このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの」(Ⅰコリント1:23)と言いました。そのとおりに、ユダヤ人はつまずき、すべての人間も信じがたいこととしたのであります。しかし、神の恵みを受けようとする者は、神によって、自分を知り、十字架において、自分の真の姿を見定めなければならなりません。その上ではじめて、神がどんなにこの罪人である人間を愛しておられるかが分かるのであります。誇り高きユダヤ人には、それを知ることが、まことに困難であったのであります>。

 

  • このことについては、もうひとつ問題が残っています。それは、それなら、ユダヤ人は、なぜ聞くことができなかったのだろうか、ということです。パウロは、どこまでも聖書の言葉に頼ろうといたします。「その者たちの響きは全地へと伝わり、世界の果てにまでその者たちの言葉は及んだのだ」(田川訳)という詩編19編4節の言葉がそれであります。神のことが分からないという人に対して、もっともよい答えはこれであると信じていたのでありましょう。人間が持ち出す言訳は、いつでも、責任が神にあるということになるのです。ですから、それに答えるには、神には責任がないということであります。神のみ声は全地にひびきわたっているはずである、だから聞こえないというのは、聞こうとしない人間の責任であって、神の責任でもなければ、環境のせいでもないというのであります。

 

  • それだけではないのです。「民でない者に対してあなた方が妬むようにし、ものがわからない民に対してあなた方が怒るようにさせよう」(田川訳)(申命記32:21)という申命記の言葉が、その次に引用されています。イスラエルは、聞こえなかっただけでなく理解できなかったのはないでしょうか、というのです。民というのは、イスラエルのことであります。イスラエルが信仰を受け入れようとしないので、イスラエルでない者、つまり神については本来は無知な民であった者に恵みを与えることによって、イスラエルが、異邦人たちをねたみ、これに対して怒りをもつようにさせる、というのであります。無知な民、すなわち、信仰のことの理解できないはずの民でさえ、恵みを知ることができたのであります。イスラエルに理解できないわけはないのです。イスラエルは、これを知ったら、神の選民としてねたましく思い、憤るようなことが起こっていることに気がつかねばならないのです。それならば、イスラエルがキリストのことを聞いても分からなかった、とは言わせないということであります。

 

  • このようにして、イスラエルの不信仰なことを考えているうちに、いつの間にか、話はもうイスラエルのことを離れてしまって、神の恵みの本質を明らかにすることになってゆくのです。神の福音は、異邦人とイスラエルとを問わず、だれにでも与えられるのであります。それを、今度は、イザヤの預言で語ろうというのであります。「わたしは、わたしを求めない者たちに見いだされ、/わたしを尋ねない者に、自分を現した」(イザヤ65:1)。イスラエルとはちがって、神の民でない者、異邦人に、神はご自分を顕わし、信じさせられたのであります。このことは、イスラエルのひとりであったイザヤとしては、まことに大胆な発言であります。また、神の業としては、驚くべきことであります。

 

  • それなら、イスラエルには、もう望はないのでしょうか。そうではありません。不信仰なイスラエルにもまだ機会はいくらでもあるのです。なぜなら、神は、彼らを捨てないで待っておられるからであります。<だがイスラエルについても、「説得されず、反抗する民に、一日じゅう手をさしのべた」(イザヤ65:2)と言っている>(21節)。このみ言葉がその保証であります。神の民もそうでない者も、救いの機会がある、それがどの問題についても結論になるのであります。

 

  • <21節はこのような意味で、全体の結末をつけるものであります。教会が最後にそして究極的に固執すべき事実は、ユダヤ人の咎にみした、聞かぬこと、理解せぬこと、従って不従順ではなく、神がこのユダヤ人に対して、昔から「終日」なしてこらえたことである。すなわち、まさにkのような民にっ向かって神はその手をさし伸べてこられた。まさにこのよな民に対して、神はご自分を差し向けること、ご自身をへりくだらせること、ご自身を差し出すことに倦み給わなかった。この事実ほど明瞭に、またこの事実ほど鋭く、彼の咎を確定することはありえない。そして、この民が咎を犯した相手である方について、この民をあわれみの対象とした方――あるがままの、この民を見棄てることをしなかった方――について、これ以上明瞭に、また、これ以上慰めに満ちて、語られることはありえない。なぜなら、その方のあわれみは、この民の、そしてすべての人間の咎よりも大きいからである>(バルト)。

 

  • 人間の驕りが他者の命を奪っている人間の咎(罪)から、未だ解放されていない、今この時代の中でも、この神のあわれみを信じたいと思います。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • ゴールデンウイークが終わり、明日からまた日常に戻ります。今年は規制のない3年ぶりのゴールデンウイークで、多くの人が非日常を楽しんだことと思われます。けれども、その中でも、貧しさのためにどこにも出かけられなかった人も多くいます。また、今戦火の中にあるウクライナの人々、様々な抑圧・差別の犠牲となって、世界の各地で苦しんでいる人も多くいます。神さま、今痛み、苦しんでいる人々の傍らに立ち給いまして、支え、慰め、その苦しみから解き放たれる道を切り開いてくださいますように祈ります。
  • そのような人々の苦しみの中には、直接・間接に私たちが原因の一端となっているものもあるに違いありません。もしそうであるならば、私たちの生き方を変える勇気を、神さま、私たちに与えてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌    405(すべての人に)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-405.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。