なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(513)

船越通信、№513  2022年5月1日(日)  北村慈郎

  • 24日(日)は出席者5人のいつもより少人数による礼拝でした。この日は礼拝後何もありませんでしたで、一言二言言葉を交わして散会しました。私もいつもより早めに船越教会を出て、鶴巻のマンションに午後2時半ごろには帰ってきました。この週は、私にとっては結構忙しい週でした。
  • 先ず私が代表世話人をしている“もとすす”(沖縄から米軍基地撤去を求め、教団「合同のとらえなおし」をすすめる連絡会)で出すことにしている通信の巻頭言を26日(火)中に書かなければなりませんでした。また私の原稿と共に各地の活動報告として、鎌倉恩寵教会で行われている「沖縄を学ぶ会」、国会前の辺野古新基地建設反対座り込み、相模原の座間米軍基地前で行われている「バスストップの会」の報告も私が依頼し、原稿を集めて関西にある事務局に送ることになっていたからです。そのうちの二つの原稿はすでに私の手元に来ており、そのうちの一つは関西の事務局にもすでに送ってありましたが、何とかすべて26日中には送りたいと思っていました。25日(月)には国会前の座り込みの報告もメールで届きましたので、私も25日(月)に何とかの巻頭言の原稿を書き上げ、その日の夜にすべての原稿を関西の事務局に送ることができました。
  • 今年は沖縄の日本への復帰から50年目の節目の年です。また、沖縄教区が教団から距離を置くようになって20年目の節目の年でもあります。そこで私は”もとすす”の通信の巻頭言は、「沖縄の日本復帰50年、沖縄教区が教団から距離を置いて20年」という題で書くことにしました。先ずロシアによるウクライナへの軍事侵攻によるウクライナの悲惨な状況について書き、「今ウクライナで起こっていることから沖縄戦を想像してみると、圧倒的な戦力による米軍の破壊は、ロシア軍の比ではなかったと思われる」と沖縄戦に触れ、「ウクライナ軍は少なくともウクライナ人を守っていると思われるが、日本軍は沖縄の人々を守るどころが、初めから見捨てていたのである。また、そのような沖縄戦を経験し、戦後マッカーサーの沖縄の分離軍事支配・米軍の戦略拠点化に従い、沖縄に関する天皇メッセージもあり、沖縄は米軍統治下に置かれて来た。その沖縄が1972年に平和憲法をもつ日本に復帰した。しかし、その日本復帰が幻想に過ぎなかったことが、沖縄の日本復帰より3年前(1969年)の沖縄キリスト教団と日本基督教団との合同と共にすぐに明らかになった。大が小をのみ込んだに過ぎなかったのである。そのことに気づいた沖縄キリスト教団と合同した日本基督教団の教会は、その後合同のとらえなおしを試みた。けれども、そのとらえなおしは途中で挫折し、2002年に合同の一方の当事者である沖縄の教会(沖縄教区)は日本基督教団から距離を置くようになり、現在に至っている」と書きました。その上で、“もとすす”の課題は、「「沖縄の教会はこの沖縄で教会であることを未だ歩めていない。それはヤマトの教団も同じだと思う。だとすれば、この時点で共に歩むことは側に置いて、沖縄で教会であるとはどういうことか、ヤマトの教会として歩むとはどういうことか、それぞれがその置かれた地で考え、確かめていくことではないかと思う。その姿が見えたときに、共に歩むことをも模索しても遅くはないのではないか」という先年帰天された沖縄の大城実牧師がおっしゃるように、「ロシアによるウクライナへの軍事侵攻後に、日本でも日米軍事同盟と抑止力としての軍事力の更なる強化の声が強くなっている現在において、『剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする』(イザヤ書2;4)平和を造り出す働きを担う教会として歩むとはどういうことなのかを、私たちは考えていかなければならないと思う。沖縄の教会は沖縄の地においてそれをしていると思われるが、私たちはヤマトの教会としてそれをしていかなければならないのではないだろうか。“もとすす”の課題はそれに尽きると思う」と結びました。
  • 27日(水)午後7時からZoomで”もとすす”の事務局会が行われ、私も参加しました。上記の通信の打ち合わせと、リモートによる講演会ができないか、その内容と誰に講師をお願いするかについて話し合いました。いろいろと意見交換している内に2時間があっという間に過ぎていました。一応講師の候補者には私の方からお願いすることにし、この日の事務局会を終えました。
  • 28日(木)は前週に引き続いて国会前の坐り込みに参加しました。この日は早めに座り込みの場所に着き、まだ誰も来ていなかったので、衆議院議員会館前で行なわれていた「憲法審査会」への抗議行動で、主催者の報告と各団体からのアッピールが行なわれていたのを、端の方で聞いていました。その内に国会前の座り込みに何時も横断幕などを持って来てくれる方が見えたので、私も一緒に道路の壁にいろいろの種類の横断幕を貼るのを手伝いました。そうしている間に座り込みの道具類を持って来てくれる他の二人も到着し、午後1時過ぎにはすべての準備が整って、私も持ってきた椅子に坐り、自分の近くの足元に「辺野古新基地 NO」と書かれた不屈館の手持ちプラカードを2枚並べて、風に飛ばされないようにビニールテープで石壁に留めて置き、船越教会の「ウクライナに平和を!」のスタンディングで掲げた自家製の手持ちプラカード「ウクライナに平和を! ロシア軍は撤退せよ! 日本は軍事力による安全保障よりも、憲法第9条に基づく世界平和構築に力を注ごう!」を石壁に貼り、手には「辺野古埋立てNO 土地と海を奪うな」を持って、時々「We shall overcome」

を口ずさみながら3時間座り込みました。この日はいつもの3人の他に私を含めて3人が加わり、6人で座り込みました。午後4時に座り込みを終えて、鶴巻に帰りました。

  • この日は鶴巻に帰って、午後6時半からZoomで寿地区活動委員会に参加しました。4月の委員会でしたので、教区へ出す年度報告と会計報告の確認と今年度の活動について話し合いました。
  • 29日(金)は、連れ合いの千賀が帰天してから毎年ゴールデンウイークの時期に休みをとって沖縄から大和に帰って来る沖縄で牧師をしているK・R子さんが、鶴巻の私の所にお連れ合いと共に来てくれますが、今年もこの日のお昼前に来てくれました。短い時間でしたが、旧交を温めました。