(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま
しょう(各自黙祷)。
② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)
③ 讃美歌 357(力に満ちたる)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-357.htm
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編32編1-7節(讃美歌交読文33頁)
(当該箇所を黙読する)
⑥ 聖 書 ローマの信徒への手紙11章33-36節(新約291頁)
(当該箇所を黙読する)
⑦ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 529(主よ、わが身を)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-529.htm
⑨ 説 教 「隠された神」 北村慈郎牧師
祈 祷
- 私たちは、毎日曜日このように礼拝しています。そして、この礼拝では必ず讃美歌を歌っています。讃美歌は神を讃美する歌です。讃美歌に象徴されていますように、礼拝は神讃美の時です。
- 実は、この礼拝でこのところずっと、ローマの信徒への手紙(以下ローマ書)を説教のテキストにして、私たちに対する神の語りかけを聞いています。そのローマ書には、パウロが直接神讃美の言葉を記しているところが何か所かあります。その一つが8章の最後の部分です。
- <わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です>(新共同訳)と述べています1章16節から8章の終わりまでの、そのイエス・キリストの福音について述べているところでも、最後は神の愛の賛歌といえる神讃美で終えています。8章31節から39節までのところです。このところ全体をぜひもう一度読んでみていただきたいと思います。ここでは、一部分だけ引用させてもらいたいと思います。
- <だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。・・・しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にあるものも、低い所にあるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです>(8:35,37-39、新共同訳)。
- このイエス・キリストによって示された神の愛の確かさは、それを信じるわたしたちにとっては、今の世界の現実においても変わらないと言えますし、変わってはならないのではないでしょうか。
- 今私たちは、ウクライナでの戦争という、これまでも繰り返し人類が引き起こしてきた、暴力によって人と人とが殺し合う人間の罪の果実を見せつけられています。何の罪のない人々や子供たちの命が、爆撃によって奪われ、生活基盤を失った人々が戦場に投げ出されています。何百万人もの人々が避難民として他国での生活を強いられています。
- 先週の6月23日は沖縄慰霊の日でしたが、77年前には沖縄戦によって24万強の人々の命が奪われました。日本政府は、その日本の国土0.6%の沖縄に在日米軍施設の71%を集中させ、沖縄の民意の反対にも拘わらず、辺野古に新基地建設を強行しています。また、中国や北朝鮮の脅威を理由に、日米軍事同盟を強化し、南西諸島には自衛隊の基地を建設し、ウクライナでの戦争によって防衛費の大幅な増額を試みようとしています。かつてアジアの人々を中心に約2,000万の人々を殺し、300万の日本人を死なせた戦争をし、敗戦によって二度と再び戦争はしないと誓った私たちのこの日本の政府が戦争の準備、人殺しの準備をしているのです。
- このような状況の中でも、イエス・キリストによって示された神の愛の確かさを信じる者は、人間の罪に対する神の愛の勝利を信じ、イエスに従って互いに愛し合って生きる道を選んでいくでしょうし、そうしなければならないと思うのです。神を賛美して生きるということは、そういうことではないでしょうか。
- 先ほど司会者に読んでいただきました、今日の説教のテキストであるローマ書11章33-36節も、ローマ書の中にある神讃美の言葉の一つであります。パウロは、ローマ書の9章から11章までで、8章までに述べて来たイエス・キリストの福音に対する不従順を、同胞であるイスラエルの不従順を通して問題にしてきました。
- イスラエルは神に選ばれたのではなかったのか。それなのにイスラエルが神に対して不従順であるのは、神の選びが間違っていたからなのかという問いを出して、パウロは9章から11章で、イスラエルの不従順を問題にしてきたのです。彼らの不従順に深い悲しみと絶え間ない痛みを持ち、彼らのためならばキリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っている(9:3)とまで、パウロは言っているのです。
- そのイスラエルの不従順に対して、パウロは「神の奥義(秘儀)」(11:25)によって、<神はすべての者を憐れむために、すべての者を不従順に閉じこめたのである>(11:32、田川訳)と、11章25-32節で、神の逆説的な救いの計画を語っているのです。
- パウロは、1章16節から8章のおわりまでのイエス・キリストの福音について記しているところで、最後はイエス・キリストによって示された神の愛の確かさを語り、神讃美でしめくくりました。9章から11章までのイスラエルの不従順について記したところの最後も、<神はすべての者を憐れむために、すべての者を不従順に閉じこめたのである>(11:32、田川訳)という神の憐れみの優位性につて語っています。そして<神の知恵も知識も、その豊かさはいかに深いことか。その裁きはいかに究めがたく、その道はいかにたどり難いものか>(11:33、田川訳)と、神の奥義(秘儀)(25節)に対する感嘆と讃美を表明しているのであります。32節で要約された逆説的な神の救いの計画――神はすべての人を不従順に閉じ込め、それによってすべての人を憐れんだ、ということ、つまり従順な者ではなく、不従順な者が義とされるという、信仰義認の逆説は、この世の知恵にとってはまことに究め難く、探り難いことなのだと言っているのであります。
- 34節~35節では、神の奥義(秘儀)への人間の側からの近寄り難さが、このように記されています。<誰が主の思いを認識したか。あるいは誰が神の相談にあずかる者となったか。あるいは誰がまず神に与えて、その返礼を神から受けるようなことができよう>(田川訳)。私たちがいかに神を知らないかということを言い表しているのです。これも否定的ないいか方ですが、神を讃美する言葉になっています。
- それに対して36節<すなわち、一切は神から、神により、神へと。神に栄光がとこしえにあるように。アーメン>(田川訳)は、神に一切を帰する肯定的な表現になっていて、33節からの神讃美が神への頌栄で締めくくられているのであります。
- この33-36節は、言うまでもなく、9章から11章までの結論になっています。しかし、ある人は、それだけではなく、1章16節からはじまった、長い救い(福音)につての論義の結論でもあり、さらに言えば、聖書全体の結論であるといってもよい、と言っているのであります。
- 一切(万物)が、神からいで、神によって成り、神に帰するという言葉は、コロサイの信徒への手紙1章16節では、御子(イエス・キリスト)につて語られている言葉でもあります。<万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られたのです>(新共同訳)と記されているのであります。
- イエス・キリストこそは、すべてのものを支配し、全き自由をもって、その救いを成就される方なのです。ですから、この33-36節の神讃美の言葉はイエス・キリストの救いを言い表すものであると言えるのであります。
- <この讃美の言葉は、罪と死の支配するこの世界で語られるものであります。それは、具体的に、この罪と死の世界に勝った勝利にたいする讃美のことばである、と言わなければなりません。それは、だれが語ることができるでしょう。それは、その罪と死の支配から救い出された人間だけが、口にすることができるのであります。ですから、コリントの信徒への手紙の第一の8章6節にこう書いてあります。
- <わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです>(新共同訳)。
- ここには、万物とわたしが、同じように書かれています。その意味は、万物は神から出て、神に帰する、わたしたちも神から出て、神に帰する、ということであります。ここには、わたしたち、すなわち、人間がはいってくるのであります。それは、万物の一部分としての人間ではなくて、罪と死の支配から救い出された人間であります。その人間が、だれよりもよく、この讃美の内容を知り得るのです。キリストの救いにあずかって、罪と死から救い出された者は、自分が救われたということだけでなく、そのことから、自分が神に造られたもの、すなわち、神から出た者、したがって、神に帰するものであることを、身をもって悟るのであります。その上で、自分だけでなく、万物もまた、神から出て、神に帰するものであることを確信することになるのであります。これは、神に救われて、神に勝たれた人間が、その救いの恵みに対する感謝をもって、心から、神の救いのみ業を讃美する言葉なのです。
- そこで、それを、さらに簡潔に言えば、栄光がとこしえに神にあるように、アーメン、と言うほかはなくなるのであります。あらゆる栄誉を神に献げることは、神に打ち破られた者のみが、はじめて、できることであります。神よ、あなたこそ神でいらっしゃいます、という告白をもって、神を礼拝するほかはなくなるのであります>(竹森)。
- この神讃美こそ礼拝の本質です。そしてこの礼拝は日曜日だけのものではなく、人間の罪と死が支配するかに思える日々の生活の中で、殺し合いをする人間の罪と死に勝利し、私たちに和解と平和をもたらしてくださったイエス・キリストの福音によって生きること、それこそが私たちにとっての神礼拝であり、神讃美ではないでしょうか。
- 「栄光がとこしえに神にあるように!」
祈ります。
- 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
- 神さま、私たちはイエス・キリストを主として信じ、告白し、そしてイエス・キリストを私たちのところに遣わしてくださったあなたを讃美して、生きていきたいと願います。
- 圧倒的に罪と死の支配下にあるこの世の生活の中で、イエス・キリストに結びつき、あなたを讃美しつつ生き抜くことができますように、私たちの信仰を確かなものとしてください。
- 私たちイエス・キリストに連なる共同体としての教会が、かつてのように戦争に協力することがありませんように。世界の教会をそのようにお導きください。あなたの平和なみ国が到来しますように!
- 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
- 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
- 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
- この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン
⑩ 讃 美 歌 37(いと高き神に)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-037.htm
⑪ 献 金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)
⑫ 頌 栄 28(各自歌う)
讃美歌21 28(み栄えあれや)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。