なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(52)

7月3(日)聖霊降臨節第5主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)

③ 讃美歌  2(聖なる神は)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-002.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編107編17-22節(讃美歌交読文120頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙12章1-2節(新約291頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  227(主の真理は)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-227.htm

⑨ 説  教   「神礼拝」      北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • ローマの信徒への手紙(以下ロマ書)も、今日から12章に入ります。12:1~15:13は、ロマ書の主題である神の義がどのように日常生活に具体化されるかという問題を展開しています。ですから、この部分に、ケーゼマンは「キリスト教的日常生活における神の義」というタイトルを付けています。「(神の義=イエス・キリストによる)救いは…われわれの生および教団を支配する力として自己を現す」(ケーゼマン)というのであります。

 

  • 12章1-2節は、3節以下の本論を導入する前置きであり、この段落(12:1-15:13)の主題を述べているのであります。

 

  • <そこで兄弟たちよ、神の慈しみによってあなた方に呼びかける。あなた方の身体を、神に喜ばれる、生ける聖なる犠牲として捧げるがよい。それがあなた方が(神に)仕える理性的な仕方である>(1節、田川訳)。

 

  • 12章1節で、<そこで兄弟たちよ>と、パウロは改めて呼びかけています。<そこで>(新共同訳では<こういうわけで>)と言われていますので、パウロが、今まで1章から11章までで語ってきた「神の義」であるイエス・キリストにおける神の恵み・憐れみ・慰めを踏まえて、<そこで兄弟(姉妹)たちよ>と、ここで語っていることが分かります。

 

  • ですから、ここで呼びかけられている<兄弟(姉妹)たちよ>とは、信仰によって義とされている信仰者です。教会では、兄弟姉妹とお互いに呼び合って、家族のような親しさを持った人間同士の付き合いが強調されることがあります。そしてそのような兄弟姉妹がつくっている教会という団体が仲良しクラブのようなものになってしまうことも起こり得ます。しかし、パウロがここで呼びかけている兄弟(姉妹)たちとは、イエス・キリストによって神を信じる者たちで、イエスがその長子である兄弟(姉妹)たちなのです(ローマ8:29)。教会はイエスの兄弟姉妹団なのです。

 

  • 前回学びましたように、11章の終わりは、神への賛美の歌でした。もういちどその神への賛美の歌を思い起しておきたいと思います。

 

  • <神の知恵も知識も、その豊かさはいかに深いことか。その裁きはいかに究めがたく、その道はいかにたどり難いものか。/誰が主の思いを認識したか。/あるいは誰が神の相談にあずかる者となったか。/あるいは誰がまず神に与えて、その返礼を神から受けるようなことができよう。/すなわち、一切は神から、神により、神へと。神に栄光がとこしえにあるように。アーメン>(33-36節、田川訳)。

 

  • その神への賛美の歌を歌いながら、進んでいく感謝の生活が、12章1節以下で(12:1~15:13)イエス・キリストを信じる信仰者である<兄弟(姉妹)たち>に呼びかけ(勧め)られている生活であります。

 

  • 私たちは、パウロがローマ書7章24―25節で、<わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝します>(新共同訳)と、心の底から神への感謝を言い表していたことを、思い起したいと思います。信仰によってイエス・キリストと深く結ばれている者は、自ずから神への感謝が溢れて来るのであります。そして。讃美の歌を歌うだけで終わらずに、実際にそのように生きて行くようになるのであります。

 

  • その生活は、具体的には、どのような生活なのでしょうか。パウロは、12章1節で、<そこで兄弟たちよ、神の慈しみによってあなた方に呼びかける>に続いて。<あなた方の身体を、神に喜ばれる、生ける聖なる犠牲として捧げるがよい>(田川訳)と言っているのであります。

 

  • <捧げる>は、「供え物を捧げる」という意味を表す祭儀用語として使用されています。ここで捧げることが求められているのは、<あなた方の身体を>(=「あなたがた自身を」)であります。身体とは、この世と関連しているわれわれの存在であります。つまりわれわれの地上における日常生活の全体を供え物として捧げよと求められているのであります。キリスト教徒は彼の生・生活全体の中にある自分自身を神に<供え物として>(犠牲として)捧げなければなりません。すでに彼は神に創造されたものであるゆえに、また神の贖いゆえに神のもの、神の所有でありますが、にもかかわらず彼は自分自身を自発的・自主的に神に引き渡すことによってなおいっそう神のもの、神の所有とならなければならないと言うのです。そしてこの引き渡しは無論繰り返し実現され続けなければなりません。

 

  • 私たちは日曜日毎の礼拝で献金を捧げます。この献金は、神さまに私たちの体を献げる「献身」のしるしなのです。自分の体を供え物として捧げる、それが献金なのです。私たちの体=生活全体を神さまに捧げます。どうぞあなたの栄光を私たちの体=生活全体で現わしてください。そういう祈りが献金なのです。

 

  • <神に喜ばれる、生ける聖なる犠牲として>(田川訳)とは、<わたしたちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活されたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです>(6章4節、新共同訳)と言われている、「生命の新しさ」において生きるということであります。それが、神に喜ばれ、生き生きとした、(神の御心にふさわしい)聖なる者として生きるということではないでしょうか。私たち信仰者が、そのように呼びかけられ、勧められているということは、私たちの体である私たちの生活全体に、神によって「生命の新しさ」が現れる。先ほどケーゼマンの言葉を引用しましたように、正に「(神の義=イエス・キリストによる)救いは…われわれの生および教団を支配する力として自己を現す」のです。そのことの信頼によって、私たちは「生命の新しさ」を生きているのではないでしょうか。

 

  • <それがあなた方が(神に)仕える理性的な仕方である>(直訳は<あなた方の理性的な仕えること>)(田川訳)と言われています。この部分は新共同訳では、<これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です>と訳されています。

 

  • <仕えること>と訳されている語は、<ラトレイア>です。<ラトレイア>は「礼拝」とも訳されますので、新共同訳は「礼拝」と訳しているのでしょう。川島重成さんは、「礼拝(ラトレイア)は、ちょうど英語のサーヴィスと同様に、「礼拝」であると共に「奉仕」をも意味する。すなわち、体をもってする日常生活全体をイエス・キリストにあって、イエス・キリストと共に営むこと、そしてそれを通して神の支配を証言し、その意味で神に仕えること、それが神礼拝に他ならない」と言っています。田川建三さんは、ラトレイアを、<ここは特に、宗教的儀式としての礼拝ではなく、信者の生き方一般を意味しているのであるから、「礼拝」と訳すと狭すぎる>と言って、「仕えること」と訳しています。

 

  • ラトレイア(仕えること・礼拝)には、ロギコスという「理性的な」(新共同訳では「ふさわしい」)という言葉が形容されています。<パウロの論点は、供え物として自分自身を捧げることは理にかなった[理性的な]、—-福音の真理の正しい理解に一致しているゆえに――理解にかなったそして理性的な[理知的な]礼拝である、というところにあった。自分自身を捧げるということは具体的な現実の生の過程においてその人自身のすべてを捧げるということであり、単に内的な思い・感情・志望だけでなく外側の言葉や行いにも関係したこと、すなわち生の従順にかかわることである。これが「理解にかなった」と適切に言われ得る礼拝である――なぜならば福音についての真の知識が要求しかつ可能とする礼拝とは、正しくそのような礼拝であるからである>(クランフィールト)。

 

  • それが12章1節ですが、12章2節では、<此の世にあわせた形をとらず、精神の刷新によって自らを作り変え、神の意志が、すなわち聖なる、神に喜ばれる、完全なことが何であるかを、自ら検証できるようにしなさい>(田川訳)と言われています。(新共同訳は<あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いこと、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい>)。

 

  • <此の世にあわせた形をとらず>と言われていますが、私たちの生は、残念ながらその大部分はこの世と同じにされているのではないでしょうか。余程自覚的、意識的にこの世が求めてくる型にはめられるのを避けようとしていないと、いつの間にかはめられていることが多いのです。特に権力は情報操作によって、自分に都合の良い人間の型に私たちをはめようとしていますので、気をつけていないと、いつの間にかそのような人間にさせられてしまうのです。<此の世にあわせた形をとらず>とは、そのことに自覚的であるということです。

 

  • そして、<精神の刷新によって自らを作り変え、神の意志が、すなわち聖なる、神に喜ばれる、完全なことが何であるかを、自ら検証できるようにしなさい>と呼びかけ(勧め)られているのです。

 

  • <この世の型によって繰り返し新たに刻印され成型されるままにしておくことを自分自身に――満足してまた気にかけないで――許し続けることなく、自分自身を別のプレッシャーに、すなわち神の霊の命令・指図に委ねなければならない。キリスト者は、ここでの現在の彼の生が来るべき神の秩序のしるしと特徴をさらにいっそうはっきりと表わすために絶えず造り変えられ、新たに成型され、改造されなければならない――来るべき神の秩序とはキリストにおいてすでに到来した秩序である。そして造り変えられることは、(むしろ)「あなたがたの思いを一新することにより」もたらされる。人間の生全体が造り変えられることは――「思い」が自己中心的でなく真に客観的に[正しく]考え始めるために――聖霊が堕落した思いを自己中心性[自己中心主義]の縛りから解き放ち一新することにより実現される>のであります。

 

  • <…すなわちキリスト者は「…どのような状況の下でもキリストにおいて始まっている新しい世界を、つまりキリストの王国を指し示し、それぞれの状況によってさまざまな形を取るが、事実上さし迫っているその新しい世界に対する実物証明となるのである(ケーゼマン)。

 

  • イエス・キリストへの従順とは、まさにこの呼びかけ(勧め)に応えていくことではないでしょうか。12章1-2節は、直接的にはローマの教会の信徒たちへの呼びかけ(勧め)ですが、私たちへの呼びかけ(勧め)でもあります。この呼びかけ(勧め)を私たちも受け止めて、応えて生きていきたいと願います。
  •  
  • 祈ります。
  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • 神さま、私たちは無意識のうちにもこの世のさまざまな力によってその型にはめられている現実があることを思わざるを得ません。かつて天皇制絶対主義的な国家の時代には、私たちは天皇の赤子という型にはめられました。戦後経済成長時代には成長神話の型にはめられて、企業戦士として生きた人も多くいます。その結果戦争に協力し、公害と自然破壊に加担してしまいました。
  • 神さま、この世が強いてくる人間の型から解放されて、イエス・キリストの救いに与かった私たちが、あなたの喜び給う道を、あなたへの賛美と感謝の生活をもって歩んでいけますように、私たちを支え導いてください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌   297(栄えの主イエスの)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-297.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。