なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(53)

7月10(日)聖霊降臨節第6主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)

③ 讃美歌  4(世にあるかぎりの)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-004.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編33編4-11節(讃美歌交読文34頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙12章3-8節(新約291頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  560(主イエスにおいては)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-560.htm

⑨ 説  教 「与えられた恵みに応じて」      北村慈郎牧師

  祈  祷

 

 

  • パウロは、ローマの信徒への手紙(以下ロマ書)12章1節から15章13節で、そのようなキリスト者が生きるあらゆる生の領域・場面でどのような生き方をするかという倫理的勧告を語っています。その勧告は、まず第一に(12:3―8)キリスト教会の肢としてのキリスト者に向けられています。

 

  • まずパウロ3節で、〈私に与えられた恵みによって、あなた方の中にいるそれぞれの人に対して言う〉と言ってパウロは勧めを述べているのですが、このパウロの言い方に権威主義的なものを感じる人もいるかも知れません。田川さんは、このパウロの言い方は、「パウロ先生から教わったとおりに考えるようにしなさい、余計な疑問を持ったり批判したりしてはいけないよ、ということ」だと言っています。確かにそのように言えるところが、パウロの言い方にはあるかもしれませんが、パウロには、このように勧めをすることは使徒としての自分の当然の働きであるという思いがあったに違いありません。第一コリント15章の復活したイエスが弟子たちに顕れた記事の中で、自らの使徒職について、パウロは、このように語っています。

 

  • 〈そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも(復活されたイエスは)現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちもない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした〉(15:8-11、新共同訳)。そのような信仰からパウロは、ここでも、ローマの教会の人々に勧めを語っているのです。

 

  • 〈思うべきことを越えて思ってはならない。正しく(口語訳は「慎み深く」)思うことができるような仕方で、神がそれぞれに信の尺度(クランフィールドは「信仰の物差し」)を分け与えたのに応じて、思え〉(田川訳)。

 

  • 新共同訳では、「信の尺度」(「信仰の物差し」)は「信仰の度合いに応じて」と訳されていますが、「尺度」や「物差し」と「度合いに応じて」とではニュアンスは違います。

 

  • パウロは、ここで、各自は同じ仲間のキリスト者たちとの間柄に関しては、福音に照らして自身を正しく(慎み深く)評価すべきである。そのために神は私たちそれぞれに信の尺度(信仰の物差し)を分け与えておられるのだから、それに応じて思うべきであると言っているのであります。

 

  • 「信の尺度」(「信仰の物差し」)とは、それによって自分自身を測り、評価する基準、すなわちその人の信仰を意味します。信仰は、キリストにおける神の行為に対する個々人の自由なそして人格的な(神の霊[聖霊]の賜物により回復された自由において起こされる)応答であります。その信仰において何よりも重要で決定的なことは、信じる主体である私たちではなく信じられる対象であるキリストであるということです。ですから、キリストに対する信仰で成り立っている基準に従って自分自身を評価することとは詰まるところ、神の裁きと憐れみがその方において現わされているキリスト自身によってのみ、われわれがわれわれ自身とまたわれわれの仲間の人たちを測らなければならないということを認め受け入れることであります。

 

  • もし教会においても、この世によって形づくられる者として私たちが歩むとすれば、各人は、その個人的な生活の力と義しさを信頼して、3節の警告の限界の外へさまよっていかざるをえなくなり、また実際さまよっていくでしょう。しかし、パウロは彼自ら恵みによって持っているそのつとめに注目し、まさに恵みをこそ、教会の中で適用される力、義の秩序としてのべつたえるために、各人が、すでに起こっている思考の更新を次の点で実り豊かにするように命じているのです。すなわち、各人は「適切であること〔思うべき限度〕」以外のものには決して心を向けず、次に直ちに解明されるようなことを慎しみ深く思うように努力せよ。すなわちそれは、おのおの神によって自分に定められた、キリスト教信仰のはせ場を歩み出し、また完成するということであります(3節)。そのことによって彼は教会の中で生きる。教会においてあらゆる個々人は一つの体の肢として、自分から探し求め、また定めたのではないが、自分に指示された特別な位置と働きに忠実であることによって、全体の豊かさの中に生きるのである(4-5節)のであります。

 

  • 〈我々が一つの身体の中に多くの肢体を持っていて、それぞれの肢体が同じ働きをしているわけではないのと同様に、我々多くの者がキリストにあって一つの身体であり、お互いのそれぞれに対して肢体なのである〉(4-5節、田川訳)。

 

  • 「肢体」と言っても四肢だけを考えているわけではなく、人間の多数の器官を考えている。これは、第一コリント12:12以下と同じ比喩だから、目や耳などを含めた器官のすべてを指す。その多くのものが一つの身体を形成している、と言っている。・・・それぞれの肢体にはそれぞれの働きがあって、それがほかの部分の役に立っている、という意味。この点も第一コリント12章と同じ(田川)。

 

  • この一つの身体と多くの肢体という、私たちの体を比喩にしてパウロが語っていることは、神の恵みとそれぞれに与えられた恵みの賜物によって生きる信仰共同体である教会におけるキリスト者一人一人のあり様であります。

 

  • 恵み自体は分たれません。すべての者にとって一つであります。同じ恵みであります。しかし、恵みの賜物は異なっています。それは、人間の素質や気質や傾向の違いによるのではなく、それぞれに与えられる神の御意の違いにもとづいているのです。各人は信仰において、その神の御意に対して従順を果たし、その神の御意を満たさねばなりません。そしてもし自分をひたすら支えている神のあわれみを失おうとしたくないならば、各人は、その御意に堅く固執しなければなりません。ーーそれは実に自然的人間の生活力が恵みを失って限界の外にとび出していくのと対照的であります(6節)。

 

  • 〈我々に与えられた恵みに応じて我々は(それぞれ)が異なる賜物を持っているので、預言であれば信の規準に応じて、奉仕であれば奉仕において、教える者は教えにおいて、呼びかける者は呼びかけにおいて、分ち与える者は純粋な心で、先に立つ者は熱心に、憐れむ(慈善する)者は楽しく〉(6-8節、田川訳)。

                                                

  • しかし今や、この範囲の中でなら勧めは、6-8節の結論が示しているように、次のようにはっきり語られます。すなわち、各人は、神の御意により自分に与えられ、託されているものをこそ、それが彼にまさしく与えられ託されている通り正確にくみつくし、使いつくし、その力を発揮しつくすように、という勧めであります。まさに彼の従順は、今や、遮るものなく、彼の自由であるように! まさに全体の豊かさが今やまた彼の個人的な豊かさでもあるように!

 

  • 恵みの賜物が一つ一つ挙げられているのは、第一コリント書12章のように、勧めのこのような積極的面を見た場合ここでも起こりかねない悪用を、あらかじめ防いでいるのである。すなわち、問題は個人個人の性向、傾向、趣味ではないのだ。ここで問題になっているのは、預言者的言葉であり、愛の奉仕であり、教えであり、勧めであり、寄付であり、指導であり、慈善であるー-これらすべてによって教会は、従って教会における個々人も、自分自身に、教会の中の人間に、さらにまたこの世における人間に仕えるのではなく、さらにまた教会自体に仕えるのでもなく、教会の中における神に、従ってこの世に在し給う神に仕えねばならない。またこれらすべてによって、教会も、教会における個々人も、神の光が闇の中に輝くために、光を燭台の上にのせねばならなぬのである。それが恵みの様様な賜物である。そして、恵みの賜物がそのようなものであればこそ、人々はその賜物を取り上げ、また用いるべきであるという勧め以外の勧めはありえないのである。初めに語られた慎しみ深さは(3節b)、この場合も失われるわけにはいかない。今やこれらの賜物を、すなわち明らかにこのような目的のために定められている賜物をーーそれらの賜物全体が現わす恵みの一致の中にー-実に何ものにも妨げられず、くみつくし、使いつくし、その力を発揮しつくすということが問題である。そして、ほかならぬそのような場所でこそ、あの慎しみ深さはー-この世的に小利口なすべての慎重さとは違ってーー尊ばれねばならぬし、また事実尊ばれるであろう。もし誰かが、そのようにしないとすれば、それは慎しみ深さを失ったこと、無思慮なことと言えよう!(バルト)。

 

  • 私たちは、〈我々に与えられた恵みに応じて我々は(それぞれ)が異なる賜物を持っているので、預言であれば信の規準に応じて、奉仕であれば奉仕において、教える者は教えにおいて、呼びかける者は呼びかけにおいて、分ち与える者は純粋な心で、先に立つ者は熱心に、憐れむ(慈善する)者は楽しく〉(6-8節、田川訳)と言われていますうに、信仰において、それぞれに与えられている恵みの賜物を生きているでしょうか。私の青年時代に、神の召命は牧師だけではなく、信徒にもあるのだと言って、ドイツ語の召命ベルーフには職業とう意味もあるので、信徒の召命はその職業であるというようなことが言われました。そういわれたのは、現実には信徒の生活が日曜日とウイークデイでは分離していて、日曜日だけクリスチャンとして、ウイークデイは企業戦士として働いているということがあったからです。そのためにキリストの体である教会がこの世に埋没して、教会がキリストの体としての固有の働きを十分に表すことができなかったのです。

 

  • クランフィールドは、「6-8節において取り上げられている七つの賜物のうち四つもの賜物(「実際的な奉仕(の賜物)」、「分配する〔人に〕<…〔その人の賜物を用いさせなさい〕>」、「管理する〔人に〕<…〔その人の〕[賜物を用いさせなさい]>」)、「慈善する人に<…〔その人の〕[賜物を用いさせなさい]>」)は、支援と思いやりをあれこれと特に必要とする人々に対する実際的援助とほとんど確実に関係がある。このことはそれだけで――パウロが理解したように――奉仕(diakonia)は教会の生活において重要な位置を占めていた、という事実を明確にそして雄弁に表している。もしこの奉仕のわざが――貧しさにもかかわらず――原始教会の考えと働きにおいてそれほど重要になったのであってみれば、—-世界人口の半数以上が食糧不足に陥り、医療サービスを不十分にしか提供されず、また非常に多くの他の点において恵まれていない状態に置かれ、しかも同時にコミュニケーションが容易になったことにより全世界が一地域に変化した――この20世紀の最後の時期に、比較的にとても富裕な欧米の諸教会において奉仕の業との取り組みがより貧弱なのはまったく正しくない」と言っています。

 

  • 今私たちが、各自に与えられている恵みの賜物を生きることによって、キリストの体である教会の命の豊かさを、少しでも証言することができれば幸いに思います。そのように私たちを主が導いてくださいますように!

 

  • 祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • 神さま、ウクライナでのロシアの軍事侵攻が今も続いています。どうかこの愚かな人間の営みを早く終わらせてください。戦争という国家による大きな暴力だけではなく、アメリカではよく銃の乱射によって沢山の人が犠牲になる事件が起きています。一昨日は安倍元首相が奈良で選挙応援の演説中に、私製の銃によって殺害されました。暴力は暴力の連鎖を生みます。どうか私たちにこのことを気づかせ、力による支配から、話し合いと、互いを尊重し合い、支え合って生きていくことができますように、導いてください。
  • 今日は参議院議員の選挙の日です。平和をつくり出し、一人一人の人権を守る働きをする人が選ばれますように。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌   409(すくいの道を)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-409.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                       

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。