なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(56)

7月31(日)聖霊降臨節第9主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)

③ 讃美歌  8(心の底より)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-008.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編18編26-35節(讃美歌交読文19頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙13章8-10節(新約293頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   289(みどりもふかき)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-289.htm

 

⑨ 説  教   「隣人愛」          北村慈郎牧師

  祈  祷

  • 今日はローマの信徒への手紙(以下ローマ書)13章8節~10節から、私たちに対する語りかけを聞きたいと思います。順序からすると、今日はローマ書13章1-7節の権威(国家権力)についての教え(政治的勧告)を扱うところですが、この箇所は、次の8月7日の日曜日が平和聖日ですので、国家権力と平和には深いつながりがありますので、その日のテキストにさせていただきました。

 

  • 今日の13章8-10節の箇所の新共同訳聖書の表題は「隣人愛」です。この箇所は「隣人愛」の勧告です。パウロは、これまで12章9節以下ではキリスト者同士の「兄弟愛」について、12章20節ではこの世の他者である「敵への愛」について語ってきましたが、そのことを引き継ぐ形で、今日のところでは「隣人愛」について語っているのであります。「おのれの如く汝の隣人を愛すべし」(9節、田川訳)。これが隣人愛の勧めです。「隣人愛」は「兄弟愛」も「敵への愛」もその中に含んでいると言えます。隣人愛が、キリスト者同士の関係においては兄弟愛となり、この世の敵対的な他者との関係においては「敵への愛」になると言えるからです。
  • 「おのれの如く汝の隣人を愛すべし」はレビ記19章18節からの引用です。福音書の中に、イエスと律法学者の問答として「最も重要な掟は何か」という問答があります。マルコによる福音書12章28-31節(並行記事:マタイ22:34-40,ルカ10:25-28)です。この問答では、一人の律法学者がイエスに「あらゆる掟にうちで、どれが第一でしょうか」と質問します。それに答えてイエスはこのように語っています。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい』。この二つにまさる掟はほかにない」と。

 

  • このイエスの答えに、ローマ書12章の1節、2節でパウロが語っていることは通じるものではないかと思います。パウロは、12章1節から15章13節までのイエス・キリストの福音によって生きる者の生き方・倫理について勧告という形で書いているのですが、その最初の序言に当たるこの箇所で、神を礼拝することと神に仕える福音に従順な者のあり方を呈示しているのであります。まず「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と言って、神礼拝について語っています。続いて「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と、神に仕える神奉仕について語っているのです。このパウロの神礼拝=神奉仕は、イエスと律法学者との問答におけるイエスの答えである、神を愛することと自分のように隣人を愛することと、内容的には同じことが言われていると考えられるのではないでしょうか。ですから、今日の隣人愛についての勧告は、神礼拝=神奉仕としてのキリスト者の最も基本的なあり方として語られていると考えられます。

 

  • 神を愛する者は、自分のように隣人を愛する者である。これがキリスト者としての基本的なあり方であるというのであります。私たちがキリスト者として、この神を愛し、自分のように隣人を愛することが、実際にどこまでできるのかという問題があります。その問題があることを踏まえた上で、このキリスト者としての基本的なあり方である(隣人)愛がどういうものであるのかについて、今日のローマ書の箇所から学びたいと思います。

 

  • パウロは、まず8節前半で、<誰にも何も、互いに愛し合うこと以外は、負ってはならない>(田川訳、新共同訳は<互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません>)と語っています。
  • この言葉は、7節を受けて語られています。7節では、<すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい>と言われていて、その後に<貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい>と言われています。「義務を果たす」とは「負債を返す」ということです。7節で例にあがっています税の支払いから恐れや尊敬に至るあらゆる人間と人間の関係あるいは社会的営みについては、負債があってはいけないと勧められているわけです。私たちは互いに依存しあって生きているわけですから、私たちが負債をそのままにして居直ってしまったら、その関係を維持できなくなるわけです。相互依存的な人間関係を維持するためには、負債をそのままにしてはいけないというのが、7節の意味です。

 

  • それを受けて、パウロは、8節で、けれども「互いに愛し合うことは」例外であると言っているのです。愛だけは愛の負債を一度返せば、それで済むというものではありません。愛は無限の課題です。本田哲郎さんは、「愛する」を「大切にする」と訳していいますが、母親が子どもを愛する(=大切にする)という場合、子どもを一度愛して(大切にして)、それで終わるということはありません。愛するということは愛し続けることなのです。ですから、愛は、負債を返せばそれで済むという次元の問題ではありません。そういう意味で、愛だけはこの世の秩序でもある相互依存の法則を越えるものなのです。

 

  • キリスト者同士の「兄弟愛」について語っていた12章9-13節を読み直せば、そのことがよくわかります。<愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい>(新共同訳)。愛するとは、その人のあり方そのもの、生き方そのものなのです。

 

  • 続いて、パウロは8節後半で<他者を愛する者は、律法をまっとうしたことになる>(田川訳。新共同訳は<人を愛する者は、律法を全うしているのです>)と語っています。
  • 「律法」ということで、パウロモーセ律法を考えていることは、続く9節でモーセ律法の第二の板の「姦淫するは」以下の四つの戒めが引用されていることから疑い得ません。パウロはこれに「そのほかどんな掟があっても」と付け加えることで、律法(ーラー)の全体をさししめしているのです。そしてレビ記19章18節の「隣人を自分のように愛しなさい」を引用して、律法(トーラー)全体がこの愛の戒めの言葉に要約されると言っているのです。さらに10節において、9節で列挙された律法(トーラー)による姦淫、殺人、窃盗、貪欲、その他すべての悪の禁止を、「愛は隣人に悪を行いません」という一行で総括して、「だから、愛は律法を全うするものです」と繰り返しているのであります。 

 

  • パウロは、ガラテヤの信徒への手紙5章13節以下でも、ほぼこのローマ書の箇所と同じことを言っています。そのところを読んでみます。<兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい」(ガラテヤ5:13-15)。

 

  • 愛は律法を全うするということは、キリスト者の愛による生活が、律法である十戒に示された、ひとりの神の下にあって、互いに隣人の命と生活を奪うことなく共に生きることを、愛によって切り拓かれるということを意味すると言えます。つまり、イエス・キリストによる神の愛に呼応する人間の隣人愛が、自分のように隣人を愛することによって、私たちの中に神を中心として、様々な賜物の違いはあっても、誰一人排除されることのない、互いに愛し合い、仕え合う人間仲間を生み出すというのです。

 

  • 現実の世界は、国家や民族により、貧富の経済格差や様々な思い込みによって、分断と競争・対立の中で、「誰一人排除されることのない、互いに愛し合い、仕え合う人間仲間」とは真逆な「互いにかみ合い、共食いしている」のが、今の世界の中での私たちの姿なのではないでしょうか。ウクライナでの戦争はそのことを如実に私たちに突き付けています。
  • ですから、「隣人を自分のように愛しなさい」という隣人愛は、革命的な行為と言えるのではないでしょうか。互いにかみ合い、共食いをしている人間世界の中に瞬間的とは言え、隣人愛によって、互いに愛し合い、仕え合う人間仲間が現れるからです。隣人愛によって、自己中心的な人間が否定されて、他者中心的な人間が生まれるからです。

 

  • 川島重成さんは、レビ記19章18節の「隣人を自分のように愛しなさい」における「自分のように」の意味を問うて、このように言っています。<この愛の戒めは一見人間の自己愛を前提にしているように見える。他方隣人愛が本当に開かれた隣人愛であるためには、その隣人が血縁や地縁、あるいは利害関係、社会関係でつながる自己の延長にある他者ではなく、その囲いを突破した本当の意味での他者である局面においても生きて働くものでなくてはならないはずである。たとえば盗賊に襲われたユダヤ人に不倶戴天の敵であったサマリア人が出会った時のように。その場合、むしろ隣人愛は自己を顧みないことにおいてこそ現実となるであろう。従って「隣人を自分のように愛しなさ」という戒めは、二つの全く方向を逆にする愛が緊張をもって結びつけられているよう思われる。この矛盾をイエスパウロも、あたかもなんら意に介さないかのように受け取って、このレビ記の聖句を引用した。これはどういうことであろうか>。と。そして<わたしはここにわたしたちに促される隣人愛の特色がよく現れていると考える>と言って、このように言っています。<神の愛が人間社会において奇跡の出来事として、しかも摩訶不思議としてではなく、具体的に人間的なきわめて日常的な地平において、その都度一回的に形をとらされるのが隣人愛である。ところが人間とは特別に選ばれた人は別にして、自分があるいは自分の子供があるいは親なりが最も大切だと思うような存在である。しかしそのような人間の思いを越える愛がイエス・キリストにおいてこの世界に奇跡として現実に生起した。しかも驚くべきことにほかならぬ自分がそれを経験し、あるいは身近に知らされ、いつのまんか、知らず知らずのうちに自分も他者に開かれることを少しずつ学ばされ、キリストの愛の証言者とされていく。/隣人愛とはそのようにしてその都度その都度出来事として呼びさまされていく、そのような愛ではなかろうか>と。

 

  • 先ほど私は「私たちがキリスト者として、この神を愛し、自分のように隣人を愛することが、実際にどこまでできるのかという問題があります」と言いました。しかしそのように「実際にどこまでできるか」と考えること自身がおこがましいことなのかもしれません。私たち自身はキリスト者といえども、そもそも自己中心的な存在であり、他者中心に生きることは自分からは不可能なことに違いないからです。「しかしそのような人間の思いを越える愛がイエス・キリストにおいてこの世界に奇跡として現実に生起した。しかも驚くべきことにほかならぬ自分がそれを経験し、あるいは身近に知らされ、いつのまんか、知らず知らずのうちに自分も他者に開かれることを少しずつ学ばされ、キリストの愛の証言者とされていく」。そのことに希望をもって、その都度その都度出来事として呼びさまされていく隣人愛に、私たちが生きることができますように! 

 

  • 祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • 神さま、どうか自己中心的で共食いをしあって生きていますこの世界の私たちに、「己のごとく隣人を愛する」隣人愛によって生きる道を切り拓いてくださいますように。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌   487(イエス、イエス

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-487.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                       

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。