なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(57)

8月7(日)聖霊降臨節第10主日(平和聖日)礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)

③ 讃美歌  11(感謝にみちて)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-011.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編13編2-6節(讃美歌交読文14頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙13章1-7節(新約292頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   51(愛するイエスよ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-051.htm

⑨ 説  教   「支配権力?」          北村慈郎牧師

  祈  祷

  • 今日は平和聖日です。ローマの信徒への手紙(以下ローマ書)13章1-7節からメッセージを聞きたいと思います。
  • 13章1節、2節を田川訳で読んでみますとこうなります。
  • <上に立つ権力にすべての人が従うべきである。神によらない権力はなく、存在している権力は神によって立てられたものであるのだから。従って、権力に逆らう者は、神の秩序に逆らったことになる。逆らった者は、みずからに裁きを招くことになろう>。
  • そして田川さんは「この部分はパウロが、国家権力、政治権力は絶対的な善であり、絶対的に従わねばならないものであると、むきになって言い立てているので有名な個所」であると言っています。さらに、「またパウロという人は体制秩序遵守の権家みたいな人だから(奴隷は主人に従え、女は男に従え)、この人が倫理的説教を並べる時に、国家権力に従え、国家権力は神様がおつくりになった絶対善です、くらいのことを言ったとて、いかにもパウロらしいとしか言えまい」とまで言っています。そして「パウロローマ帝国の権力をいかに手放しで有難がっていたかは(何せローマになんぞ行ったこともないくせに、親の代ないし先祖代々からのローマ市民権をもっていたのだから!)、この人がエルサレムで逮捕された後、ローマ皇帝に上訴したことからもわかる(使徒25:10-11)。パウロは、ローマ皇帝の上訴しさえすれば正しい裁判をやってくれる、と安直に信頼していたのだ。念のため、パウロがこの文を書いた時のローマ皇帝は、御存じのネロである」とまで言っているのであります。
  • 現代の中国では、しばらく前に香港であったように、民主化運動に関わっている人は弾圧されています。現在ウクライナに軍事侵攻しているロシアでも、その戦争に反対する言論は封じられ、反対する人の中には捕えられている人もいると言われます。
  • もしこのローマ書13章のパウロの国家権力についての勧告に従うとすれば、中国やロシアのように政治的権力者を批判することはできないということになります。
  • ローマ書13章の政治的権力に関するこのパウロの勧告が、歴史的にみますと、国家には従わなければならないという教えとして用いられたことは否めません。(興味ある方は、ヴィルケンスのローマ書註解邦訳第3巻70-95頁に、この個所が中世から宗教改革の時代、また近代のさまざまな時代にどういう影響を与え、どのように利用されてきたかを、要領よくまとめていますので参照ください)。
  • さてもう少しこの箇所におけるパウロの言い分を聞いてみたいと思います。パウロは、ローマ書13章1節、2節で、(国家)権力は神によって立てられた神の秩序であるから、権力に逆らう者は神の秩序に、すなわち神に逆らったことになり、神の裁きを免れないと言っているのであります。
  • それに続いて3節ではこのように言われています。<何故なら、支配者が恐るべきであるのは良き業をなす者にとってではなく、悪しき業をなす者にとってであるからだ。あなたは権力を恐れないことを願うが、それなら善をなすがよい。そうすれば、権力から誉めていただくことができよう>(田川訳)。
  • すなわち、権力を恐れる者は、自分が悪いことをしているからで、善いことをしているとすれば、権力を恐れる必要はない。だから、権力を恐れないことを願うならば、率先して善をなすがよい。そうすれが権力からほめてもらえるだろうと。
  • そして4節、5節では、権力は「神の仕え手」(田川訳、新共同訳は「神に仕える者」)であって、わたしたちに善を行わせるためにあり、(警察や軍隊を持っていて)剣を帯びているのは、悪をなす者に対しては、(神の)怒りにいたる報復なのである。だから、従わねばならない。単に怒りを逃れるためだけでなく、良心の故にも、と言っているのです。
  • ここまででは、善いことがどういう行いなのか、悪いことがどういう行いなのかは具体的には挙げられていませんので分かりません。パウロがこの個所で権力に従う人のなすべき行為について触れているのは、6節、7節においてです。しかもほとんど税金に関する支払いについてであります。田川さんによれば、<パウロがここで特に税金のことを中心に議論しているのは、すでに紀元後6年以来、エルサレムを中心としたユダヤ人の中のローマ帝国支配に反対する運動が、ローマ帝国に対する税金不払いの運動を展開したから、そしてパウロがローマ書を書いている時期(55~57年)は、その運動の系譜をひく人たちが中心になって、あと十年もすればパレスチナユダヤ人の全体が反ローマの軍事蜂起に立ち上がろうとしていた時期だから、そういった流れが頭にあってのことであろう」と言っています。
  • この6節、7節で納税を含めて、恐れや尊敬をもって接すようにとパウロが言っている神に仕えるすべての権力者とは、「皇帝や国家の高級官僚ではなく、たとえば税吏や小役人といった普通の人が直接接することのできるような立場の人たちであったのではなからろうか」(川島)と言われています。確かに民衆が直接触れる権力者とはそのような人たちであったでしょう。ですから、川島さんは、「いずれにせよ、パウロは終わりの日の近さを信じつつ、それとの緊張の中で、特定の政治的課題を前にローマのキリスト者に対して、そういう場にふさわしい勧告を与えているのであって、決して神学的形而上学的国家論や政治理論をここに展開しているわけではないのである」と言っていますが、このローマ書13章1-7節が後の歴史の中で国家論や政治理論として利用されたことは否定できません。
  • さて、私たちは国家権力をどのように考え、それに対してどのように対峙すべきでしょうか。今日は平和聖日です。平和聖日が教団において定められる契機となったのは、被爆地広島のある西中国教区によって、8月第一主日を「平和聖日」に制定するという提案が教団総会に出され、総会で可決したからであります。「平和聖日」制定には、ヒロシマナガサキに示される悲惨な戦争を二度と再びしてはならないという、戦争を反対し、平和を造り出す強い誓いと決意がその背後にあるのです。
  • ご存じのように戦争は個人が起こすものではありません。通常は国家と国家の間で起きますが、中には異なる民族や宗教・思想集団の間で起こることもあります。しかも国家と国家の間に、また集団と集団の間に、何らかの差別・対立があるときに、それがきっかけとなって戦争がおこるのであります。そういう差別・対立がなく、お互いが開かれた関係で、対等で友好的であれば、相互扶助の関係になっていき、戦争が起こることはありません。
  • 国家をどう考えるかということでは、いろいろの説がありますが、私たちは現実に国家が存在している限りは、その存在を認めないわけにはいきません。しかし、神の国が実現した時には、国家は存在しません。神の国では、神とイエス・キリストを中心としてすべての人は一つに結び合わされていて、国家や民族や宗教・思想集団による分断は止揚されているに違いありません。ですから、現実に国家は存在しますから、それを否定することはできませんし、その存在を認めないわけにはいきませんが、神の国(支配)を信じる私たちは、国家を批判し、相対化する視点を常にもっていなければならないと思います。
  • キリストの体である神の国のこの世における前線基地である教会につらなる私たちは、ある面で国家とは異なる視座によって生きているのです。その意味では、パウロがローマ書12章2節で語っている勧告が大切です。<此の世にあわせた形をとらず、精神の刷新によって自らを作り変え、神の意志が、すなわち聖なる、神に喜ばれる、完全なことが何であるかを、自ら検証できるようにしなさい>(田川訳、新共同訳は<あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いこと、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい>)。
  • このようにはっきりと語りながら、パウロが13章の1節以下で国家権力を神聖化するようなことを何故言ったのかは、よく分かりません。私は12章2節の言葉が国家権力に対しても適用されるべきだと思います。
  • 福音書のイエスの教えを想い起すならば、そのことはさらに明らかです。弟子たちが「誰が一番偉いか」と議論していた時に、イエスはこのように弟子たちに語りました。<「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。そして、一人の子供を手に取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなく、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」>(マルコ9:33-37)と。また、弟子のヤコブヨハネの兄弟が、イエスに「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と言い、そのことを知った他の弟子たちが二人のことで腹を立てたときに、<イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである>(マルコ10:35-45)と。このようなイエス教えからすれば、私たちキリスト者は神の支配のもとにある者で、国家権力の支配のもとにあるのではありません。
  • ですから、私たちは船越教会の平和センター宣言に立ち続けたいと思います。少し言葉を付け加えて、平和センター宣言を読んでみたいと思います。
  • 「私たちは、先の戦争に対する責任を自覚し、いのちを脅かす貧困、差別、原発、軍事力をはじめとするあらゆる暴力から解放されて、(イエスによってもたらされた神の国(支配)のこの世的反映である)自由、平等、人権、多様性が尊重される平和な世界の実現を求め、共にこの地に立つことを宣言します」。
  • 今日の平和聖日に当たって、この宣言に立って、戦争につながるあらゆる試みを否定し、平和と和解を造り出す働きに参与していく決意を新たにしたいと願います。特に現在、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻によって、軍事力の強化による安全保障の道を選ぶ国が多くなっている状況の中で、現在の日本政府もそうですが、軍事力によっては破壊と悲惨がもたらされるだけであることを強く訴え、憲法第9条に基づく世界平和の構築に日本の国が率先して努力していくことを願い、祈り、そのために辺野古新基地建設反対をはじめ私たちのできることをしていきたいと思います。
  • 主がその力を私たちに与えてくださいますように!

 

  • 祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • 神さま、今日は平和聖日の礼拝を共にしています。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が5か月を過ぎ、現在も続いている中で、今年の平和聖日を私たちは迎えています。
  • 神さま、どうか軍事力によらない平和な世界を私たちに与えてください。今軍事力の行使によって命を失い苦しんでいる人々を支えてください。
  • かつて私たちの国、日本も侵略戦争を行い、他国の人々の沢山の命を奪い、その生活を破壊しましました。同時に自国の人の命も多く失い、戦災による生活基盤の破壊を経験しました。特に広島と長崎では原爆投下による未曽有の被害も経験しました。その悲惨さは言葉で表すことができないほどです。敗戦後、二度と再び戦争をしてはならないと私たちは誓いました。その誓いを今新たにし、戦争につながる動きを止めることができますように導いてください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌   357(力に満ちたる)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-357.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                       

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。