なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(63)

9月25(日)聖霊降臨節第17主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットで平井さんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)

③ 讃美歌  152(みめぐみふかき主に)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-152.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編112編1-10節(讃美歌交読文125頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙15章1-6節(新約295頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    487(イエス、イエス

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-487.htm

⑨ 説  教  「心を合わせて」           北村慈郎牧師

  祈  祷

 

あなたは強い人ですか、と聞かれたら、大抵の人は、自分は弱いと言うのではないでしょうか。それは、謙遜からだけで言っているのではなくて、実際、自分には弱いところが沢山あると思うからです。ところが、今日のローマの信徒への手紙(以下ローマ書)では、一番はじめに「わたしたち強い者は」と書いてあります。「わたしたち強い者は」と書いたのはパウロであります。

 

パウロはローマ書14章で、既に強い者と弱い者について語っていますので、その意味は明らかであります。強い者とは、信仰生活において、何を食べてはいけないとか、飲んではいけないというようなことに煩わされないで、信仰による自由を確保できる人のことであります。この強い人の中には、そもそも食べ物や日のことに煩わされない異邦人がいましたが、異邦人だけでなく、ユダヤ人の中にもパウロと同じように信仰の自由によって食べ物や日のことに煩わされなかった人もいたに違いありません。

 

強い人というのは、この信仰をもってその生活を貫くことのできる人ことでしょう。

1節では、<(その)我々強い者は、強くなれない人たちの弱さを負うべきなのであって、自分自身を喜ばせるべきではない>(田川訳)と言われているのであります。

 

田川さんは、新共同訳では<強くない者>と訳されているところを<強くなれない人たち>と訳しています。<直訳は単に「できない人たち」です。「できない」というのだから、単に「強くない」ではなく、「強くなることができない」という意味>であるからだというのです。

 

「強い者」とはもとより自分の力が強いのではありません。<彼らの多くが異邦人キリスト者だったとすれば、むしろ彼らは神に選ばれたイスラエルの民から遠い者で、ユダヤ人に与えられた救済の約束の本来の対象外であった者です。その意味でむしろ弱い者であったのです。彼らは「ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」(1:16)たる福音の奇跡によってだけ「強い者」とされたのです。そのような「わたしたち強い者は」、キリストの受難によって成った愛の福音に基づいて、「強くなれない人たちの弱さを負うべき」であると言うのです。それは、おそらく信仰の弱い人を受け入れること(14:1)、「弱い者」との交わりを保つこと、より具体的には、「食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなしません」(14:15)というようなことがパウロの念頭にあるのでしょう。しかし、14章のようにもはや具体的なローマ教会の問題に言及しないのは、「すでに全体の終わりの下準備をしているのである」(ケーゼマン)からです。「強い」「弱い」の内実はどうであれ、世界の到るところに強者と弱者が存在することは事実であります。そしてその事実は教会(エクレシア)の中にも反映しています。まさにそのことによって、エクレシアはこの世とつながっていると言えるでしょう。エクレシアにあっては、それぞれのカリスマ(賜物)を与えられた肢体として「キリストに結ばれて一つの体を形づくって」いる(12:5)のであります>(川島)。

 

強い人と弱い人とは、どちらに多くのに問題があるのでしょうか。普通には弱い人の方が、問題があると思うのです。しかし、聖書は、強い人の方が、問題を感じなければいけないと言うのです。教会は、強い人も弱い人も共に生きていかねばならないところです。そのためには、強い人が重荷を負うべきことは自然なことであります。

 

強い人の弱さは、自分だけを喜ばせることにあります。強い人はそれを誇っていますけれど、それは、強い人の弱点であります。それでは、弱い人が自分に自信がないのと同じことで、強い人の強さをあらわしたことにはなりません。強い人は福音の自由を知っている者であります。そえだけ福音をよく理解している人であるはずであります。それなら、弱い人に対して、だれよりも多くの愛を持つことができるのでなければならないと言うのです。

 

強い人は「できる者」と書いてあり、弱い人は「できない者」とされています。強い者には何ができるのでしょう。それは弱い者の弱さを負うことであります。それができなければ、強くないのです。強い者が弱い者の弱さをになうのは、世間でもあたりまえのこととされています。信仰者の場合はなおさらです、なぜなら、信仰者は愛によって生きるからです。

 

このことについて誤りをおかさないようにする道はひとつです。自分自身を喜ばせないようにすることです。自分のことですから、これはよく分かるはずです。自分の立場が正しいといって、誇らないことです。自分の方が正しいと言って、それを口実にして、自分を喜ばせやすいからであります。そうではなく、<我々のそれぞれが、建設に資する善へといたるよう、隣人を喜ばせるべきである>(2節、田川訳)と、パウロは言うのです。「喜ばせるべきである」というよりは、むしろ、「喜ばせよ」というのであります。命令なのです。

 

「我々それぞれ」(わたしたちはひとりびとり)と書いてあることに注意しなければならないと思います。1節では、我々(わたしたち)は、と自分たち全体について語ったのですが、ここでは、それぞれ(ひとりびとり)と個別的に言おうとするのです。それは、これは強い者の問題ではあるが、その責任は個人にあるということでしょう。ひとりびとりの問題なのです。

 

もうひとつは隣人であります。聖書を知っている者にとっては、この言葉は珍しくはないはずです。しかし、そのために、この言葉の重さや鋭さを見逃してはいないかと思います。

隣人というのは、旧約では同じ民族の者のことを言っていたのです(レビ19:18)。外国人は隣人にはなっていなかったのです。それが、新約になると、外国人どころか敵までも、隣人と同じように愛すべきであるということになりました。よきサマリヤ人の話が示すように(ルカ10:36,37)、サマリヤ人が一番近い隣人になったのであります。それは、逆にいえば、外国人が同族の隣人と同じように親しい関係になったということになるのであります。

 

われわれはひとりびとり、深い責任をもって、こういう意味で自分たちの隣人に接しなければならないのです。傍らにいるから隣人ということにはならないのです。われわれは、大きな都会に住んでいて、隣人がほんとの隣人でない、とよく申します。まして、同族のような隣人ということは、どんなに困難なことかが分かると思います。大事なことは、よきサマリヤ人の話にもあるように、「だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」(ルカ10:36)と書いてあるように、隣り人になることであります。同族の人のような隣人になることであります。

 

このように隣り人と交わって、彼を喜ばせなさい、というのが、与えられた命令であります。強いと思う者は、できると思う者は、これができなくては、真に強い者ということができないのであります。強い者が弱い者を生かすのには、いろいろ理由があります。今そのうちの二、三を考えたのであります。しかし、それらは、聖書が与えている決定的な根拠にはなっていないのです。聖書は、それに明らかな理由を挙げています。それは、キリストさえ、ご自分を喜ばせることはなさらなかった、という事実です。

 

<キリストもまたみずからを喜ばせようとしなかったのだ、「あなたをそしる者たちのそしりが私にふりかかった」と書いてあるように>(3節、田川訳)。

他の者にはできなくても、キリストだけは、ご自分を喜ばせることはなさらなかったばかりか、弱い者の重荷を負われたのであります。そのために、ひたすらに自分を喜ばせることを避けられました。荒野の誘惑から、ゲッセマネの園における祈り、さらには、十字架の上の悲痛な叫び(マタイ27:46)などは、みな、キリストがご自身を喜ばせなかったことを示すもので、それは、主イエスのご生涯を一貫しているものであります。これが最も強いお方の歩かれた道であります。そのゆえに救われたわれわれは、同じように、この道を歩むのであります。これが、弱い者のために、自分を喜ばせることをしない理由なのであります。

 

これらのことは、すでに詩編において預言されていることであります。「あなたをそしる者のそしりが、わたしに及んだからです」(詩編69:9)がそれであります。こうして、強い者が弱い者を生かすことができたのです。それならば、われわれも、福音を信じているのなら、主のなさった通りにすべきであります。

 

4節、5節に<すべて以前に書かれたことは、我々の教えのために書かれたのである。忍耐と、書かれてあることの呼びかけによって、我々が希望を得るためである。忍耐と呼びかけの神があなた方を、キリスト・イエスに応じて、互いに同じことを思うようにして下さるように>(田川訳)と言われているのは、そのことです。

 

そうすると、強い者が弱い隣り人の弱さをになう生活は、救いにいたらせる望みを得る道であるということになるのです。飲食のことに関して、信仰の強い者と弱い者についての多くのことが語られましたが、これはまた十字架の救いをもたらすひとつの道であって、決して、中心から全く離れたような問題ではないことが分かるのであります。われわれは、隣り人を愛することができないで望みを失い、何度、聖書に助けを求めたことでしょう。その都度、聖書の忍耐と慰めとが、われわれに救いの望みを確信させてくれたのであります。

 

教会の問題について多くを書きつづけてきたパウロは、主イエスの忍耐と慰めにまで話がおよびました。そこまでくると、もう祈り以外には言葉がなくなるのであります。説明は決して平和と一致をもたらすものではありません。信仰の生活は神がととのえて下さるだけであります。すると、人間にできることは、ただ、祈ることだけであることを、パウロはよく知っていたのであります。

 

<そうすれば、あなた方は心をあわせて声をそろえ、我らの主イエス・キリストの父なる神に栄光を帰するようになろう>(6節、田川訳)。

 

<6節は、5節の「同じ思いを抱」くこと、キリストの支配の下にあることによって成る真の統一が礼拝における「心を合わせ声をそろえて」神賛美たるべきこと、それ自体祈りとして言い表す。「その礼拝における讃美がもはやこのような仕方で日常生活の交わりを証言しなくなる時、教会は存続し得ない」(ケーゼマン)。その讃美の対象である神は「わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方」である。この神がイエス・キリストの父なる神であることによってだけ、イエス・キリストの支配の下にある者は、「強い者」であれ、「弱い者」であれ、あるいはどのような状況にあっても、神に祈りと讃美を捧げることを許されているのである」(川島)。

 

キリストをお与えになった神は、忍耐の神であります。「今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見逃しておられたが」(3:25)と言われていますように、神は忍耐に忍耐を重ねられました。そして、忍耐のすえ、恐ろしいさばきが与えられたのではなく、キリストによる救いが与えられたのであります。いわば、神の忍耐のすえに、人間の罪を負うために、御子を遣わされたのであります。これは、忍耐のはてに、また忍耐を加えられたということになるのではないかと思います。

 

このように、神は忍耐の神であります。罪人である人間を救うために、終わりの日まで忍んで下さるのであります。これを人間の方からいえば、人間は罪を犯すたびに、この神の忍耐を知り、計り知れない慰めを繰り返し、受けるのであります。慰めは、旧約以来、神からその民に約束された救いの言葉でありました。こうして、与えて下さる救いは、キリストの忍耐を受けることができるようにしてくれるのであります。

                   (以上はほぼ竹森さんからのものです。)

祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • 今日は、ローマ書を通して、自分を喜ばすのではなく、隣人である他者を喜ばすことが、そのことを十字架の極みまで貫いたイエスの福音によって生きる者のふさわしい生き方であることを、改めて示されました。どうか私たちにその道を歩ませてください。またすべての隣人と共に心を合わせてあなたに祈りを捧げる神讃美において一つになることができますように。
  • 神さま、競争社会と経済成長による地球環境の破壊から、共生社会と脱成長による必要なものの分かち合いによって、あなたの与えてくれたこの地球という自然とも共生していくことができますように、私たちをお導きください。
  • 今さまざまな苦しみの中にある人びとを助けてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     499(平和の道具と)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-499.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                       

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。