なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(536)

船越通信、№536 2022年10月16日(日)北村慈郎

 

  • 9日(日)は礼拝後比較的早めに散会しましたので、私も早めに船越教会を出て鶴巻に帰りました。
  • 10日は祝日でしたので、娘と午前中車で平塚のJAの地元の野菜などを販売する朝つゆ広場に行きました。ここには花も安く売っているので、その花を買ってマンションの連れ合いの写真の前に飾るようにしています。今私の好きなコスモスもあります。夏場は連れ合いの好きだった黄色の小さめのひまわりを絶やさないようにしていました。バラは鶴巻には温室で育てている業者も数件ありますので、市営の日帰り温泉の売り場にも安く出ていますので、それも絶やさないようにしています。
  • 今私は、11月6日(日)夜にZoomオンラインで開催する、沖縄から米軍基地撤去求め、教団「合同のとらえなおし」をすすめる連絡会(以下“もとすす”)の全国集会の発言者の一人になっていますので、そのための準備として沖縄教区側の資料を順次読んでいます。個人的に送っていただいている69年「合同」後の、第1回、第2回と開催され、第3回は沖縄側からの問題提起によって開催できなかった「沖縄セミナー」の『第2回沖縄セミナー報告書』や本土復帰後沖縄で開催された「海洋博」関連の文書を読み、『戦さ場と廃墟の中からー戦中・戦後の沖縄を生きた人々―』(2004年、日本キリスト教団沖縄教区発行)を再読しました。今は『旧沖縄キリスト教団第二世代牧師懇談会会議録』(2016年発行)を読んでいます。この懇談会は2012年1月に第1回が開催され、2014年8月の第17回で終わっています。この懇談会に参加した方の中には既に帰天された方もおられます。貴重な記録で沖縄の第二世代の牧師の方々の誠実な自己検証には頭が下がります。この懇談会は、2002年の教団総会で沖縄教区が教団との間に距離を置くようになってから10年後からはじまっています。この会議録の巻頭言に編集委員長の大城実さんがこのように述べています。
  • 【…御存じのように、あの沖縄戦が始まると、人々は国家の指示もあって、起こるであろう戦火を避けて疎開という道を選らばざるを得なかった。その中には当然キリスト教徒もいたし、牧師たちもいた。沖縄に残った牧師は数人で、しかも戦火を生き残った牧師は一人しかいなかった。/生き残ったキリスト教徒たちは、文字通り飼う者のいない羊のように焦土と化した故郷に放り出された。しかも占領軍の支配下に置かれた。その監視下に置かれ収容所で、誰かが思わず讃美歌を口ずさむ、それを耳にした者が静かに近寄り歌声を合わす。/誰かが持っていた聖書を共に読み、祈りの輪が起こった。従軍牧師(チャプレン)が目敏くその群れに気付き、援助の手を出す。このようにして礼拝をする群れに育っていく。/そのような群れを作った祈りの群れは、あの凄まじい戦禍を生き延びたことを心から感謝し、あのような戦争を起こしてしまったことを神に詫びた。彼らにとって、クリスチャンであるかとかないとかはそれ程大事ではなかった。同じように裁きを受け、同じように全てを失い、同じように明日をも知らない者として、彼らはあの状況を懸命に生き、懸命に信じた。米軍の収容所に息づいた群れがやがて教会に育っていく。私は、戦後沖縄の教会は全く新しく神によって立てられたものと信じて疑わない。国に捨てられ、教会にも見捨てられた状況にあって小さな群れを主なる神は教会にしたのである。/今「第二世代」と呼ばれている世代の牧師たちは、そのような辛苦の経験によって牧師になった方々によって見出され、育てられた。神学校に送られ、牧師となり彼らの後を継いだ。育ててくれた牧師たちの筆舌に尽くし難い経験は、「第二世代」の糧となったはずである。しかし、私たちは先輩牧師たちの苦しみを、声を理解しなかった。私たちは世界の何処でも通用する神学を勉強し、沖縄の現実からは浮き離れた牧師に育った。沖縄の牧師として生きること、宣教の現場である沖縄について、その歴史、文化について、そこで福音を語ることの意味を十分理解しなかった。あたかも私たちは沖縄という現実、人々の生きている社会とは関係ない者のように生き、語った。/あの教区総会での何気ない質問が、私たち「第二世代」に胸に突き刺さった。一体私たちはどう生きていたのか、何処に生きていたのか。戦時中・戦後だけでなく小さくされ、片隅に追いやられ、生きる希望さえ奪われた我が同胞に、どんな神の言葉を語ってきたのか…あれ以来そのことを真摯に問い、語り合ってきた。今だ十分とは言えないが、一応の纏めを見て戴きたいと願う。2015年12月1日(火)】
  • この会議録はA4版336頁もの大部のものですが、今全体の3分の2くらいまで読み終えています。戦後の沖縄キリスト教団の第一世代の牧師たちは69年「合同」に消極的だったようですが、第二世代の牧師たちが中心になって69年「合同」を進めていったようです。この懇談会では、その点につても自己切開しながら、これからの方向性を探っているように思われます。ヤマト側の教団の現状では、執行部はすでにこの「合同」問題は切り捨てたものとして全く問う姿勢がありませんので、有志の連絡会である“もとすす”の責任が大きいと思っています。どこまでできるか分かりませんが、最善を尽くしていきたいと思います。11月6日の“もとすす”の全国集会のチラシ呼び掛け文は前回の船越通信に載せましたが、1969年「合同」再考?がテーマです。発言者の一人としてできる限りの準備をしたいと思っています。
  • この2,3週間は、月曜日から水曜日ごろまでは、上記準備のための本読みをしています。木曜日から土曜日までは、晴れていれば木曜日は国会前の辺野古新基地建設反対の座り込みに行く以外は、主に礼拝説教の準備をしています。
  • 13日(木)は曇りで天気予報では東京は午後遅めに雨も降るということでしたが、教団総会以来先週も雨で中止で、木曜日2回座り込みを休んでいますので、この日は出かけました。寒い日でしたので、少し厚着をしていきましたが、国会前はそれでも寒いくらいでした。常連の4人で座り込み、この日は少し早めに終えました。国会が始まっているせいか、この日は私たちの前を通り過ぎる陳情団のような人たちが何時もより多くいました。一人の若い女性の方が、スマホで壁に貼ってあるアッピールの垂れ幕やチラシを写真に撮って、常連の2人にいろいろと質問していました。
  • この日夜には、私の支援会の世話人・事務局会がZoomであり、教団総会以後の対応を話し合いました。