なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

「預言の成就」(ルカによる福音書4章14-21節)待降節第2主日礼拝説教

12月4(日)待降節第1日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ高低のある地は平らになり、険しい所は平地になる。こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。」

イザヤ書40:4-5)

③ 讃美歌  11(感謝に満ちて)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-011.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文    詩編19編8-11節(讃美歌交読文21頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑥ 聖  書  ルカによる福音書4章14-21節(新約107頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   226(輝く日を仰ぐとき)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-226.htm

⑨ 説  教  「預言の成就」        北村慈郎牧師

  祈  祷

 

12月に入り、今日はローソクの灯が二つになり、主イエスの誕生を祝うクリスマスが近づいています。今日は、先ほど司会者に読んでいただいたルカ福音書4章16節以下の安息日におけるナザレの会堂でのイエスの物語から語りかけを聞きたいと思います。

 

当時ユダヤでは安息日になると、人々は会堂に集まって私たちの礼拝のような集まりをしていました。シェマー・イスラエル(聞け・イスラエル)で始まる祈り(申命記6:4以下参照)の朗誦によって始まり、聖書朗読があり、自由な聖書の解き明かしがありました。その場合の聖書は、旧約聖書です。イエスの生前には、当然まだ教会は誕生していませんでしたので、教会の誕生によって生まれた新約聖書の諸文書は、まだ世に出てはいなかったからです。

 

会堂の集会は会堂司によってリードされたようですが、そこに出席しているユダヤ教の教師ラビによって、その会堂に集まっている人々の日常生活に適用できる聖書の解き明かしがなされていたと思われます。このルカによる福音書のナザレの会堂でのイエスの振舞は、そのようなユダヤ教の教師ラビと同じような振舞と考えてよいでしょう。会堂司がイザヤの巻物をイエスに渡すと、おもむろにその中の一節を朗読し、読み終わって巻物を係りの人にかえして、席に座って、みんなが注目してイエスをご覧になっていたら、イエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とおっしゃったというのです。

 

エスが朗読したと言われるイザヤの言葉は、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」と記されています。「捕らわれている人」「目の見えない人」「圧迫されている人」といわれている「貧しい人」は、その抑圧と圧迫から解放され、自由になる、と言うのです。その預言が、イエスによってナザレの会堂で語られたときに、実現したと言うのです。つまり、「貧しい人」の解放と自由が生起したと。

 

ルカによる福音書によると、ナザレの会堂でイエスによって「主の恵みの年を告げる福音」が語られたにも拘わらず、イエスの故郷であるナザレの人びとは、「この人はヨセフの子ではないか」(4:22)と言って、イエスを信じることが出来ず、「イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落そうとした」(4:29)と言われています。「しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」(4:30)というのです。

 

このルカによる福音書のナザレの会堂でのイエスの語られた預言の成就は、イエスが主(神)の霊を受けて、メシア(救い主)として私たち人間のところに来られて、そこで「貧しい者」の解放と自由を実現し、主の恵みの年を告げる福音を告知しているのだ、ということです。しかし、ナザレの人々は、「この人はヨセフの子ではないか」と言って、イエスにおいて実現している預言の成就を信じることはできませんでした。

 

マルコによる福音書の並行記事でも、イエスの教えを聞いた故郷の人々は、イエスの〈知恵〉と〈力あるわざ〉に驚きますが、その驚きがイエスへの躓きへと展開していきます。 〈この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、シモンの兄弟ではないか。……云々〉と(6:3)。 故郷の人々はイエスの教えを聞いて、何故このような反応を示したのでしょうか。可能性としては、全く違う反応を示すことも考えられます。つまり、〈この人は大工なのに、マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、シモンの兄弟なのに〉、こんなに立派なラビになって故郷に帰ってきた。彼の教えは、どのようなラビよりも力強いし、説得力もある。我々故郷の誇りうる人物だと。このように故郷の人々が反応しても可笑しくはなかったでしょう。イエスの場合には、そのような具合にはいかないで、故郷の人々にとってイエスは躓きでありました。それは、イエスが誰でも羨望するような形で立派な人物ではなかったからです。羨望と嫉妬を引き起こす立派さであれば、人はそれに躓くことはありません。この世的に「偉い人」は故郷で敬われこそすれ、躓きとなることはありません。〈この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。また、その姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか〉(マルコ6:3)。このような彼らの言葉の中には、イエスについて、赤ちゃんの時からよく知っていて、彼らが了解している範囲を越えてイエスのことを考えられないという思いが現れています。〈あの人は大工で、マリヤのむすこで……〉、つまり、「平凡な自分たちと同じただの人間に過ぎないでなかいか」と。

 

故郷の人たちが、イエスを何か特別な人間としてではなく、自分たちの身近な、ただの人として把えたのは、正しい見方であります。イエスはただの人であり、人間そのものであります。故郷の人々の前に(それは私達の前に)、イエスは〈大工〉として〈マリヤの息子〉として、兄弟や姉妹に囲まれた者として立ち給うことを意味しています。そのようなイエスは、まさしく身近な存在です。そのようなただの人としてのナザレのイエスにおいて、神は「貧しい人」のその抑圧と圧迫からの解放を告げる福音を啓示されたのです。人々は、イエスから教えを聞いたとき、マルコによる福音書では、〈この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力ある業が、その手で行われているのはどうしてか〉(6:2)と言っています。つまり、イエスに対する躓きは、神が神としてご自身を現された時に生ずるであろう〈知恵〉や〈力あるわざ〉(奇跡)が、ただの人としてのナザレのイエスにおいて起こるなどということがあるのだろうか、という点であります。

 

ナザレのイエスはただの人間です。そういう意味で人間そのものです。私達は誰一人自分がまとっている人間性と何か異なる特別な人間性をイエスがまとっていると考えてはなりません。全く私達全ての人間と同様に、イエスはこの世に生まれ、この世を生きたのです。ですから全ての人間がこの世に生きていくかぎり負わなければならない負い目をイエスもまた完全に負っておられます。イエスには親族があり、故郷があり、彼は民族の一員としてのユダヤ人であります。又彼は時代の子です。(私達が21世紀前半という固有な歴史を、日本で生きているのと同じように、イエスは紀元前4年頃から紀元後30年頃までの固有な歴史をユダヤで生きたのです)。衣食住をかかえた生活者であります。飢えや病気や死に直面しなければならない人間であり、複雑な社会構造の中でその制約を受けて生きているただの人です。

 

しかし、そのような人間性を負う私達は、この世の中を自分の力でひとりで生きて行かなければならないという点で孤独であります。ところが、イエスの場合は孤独ではありません。聖書によりますと、イエスは神に幼子のように祈りました。「アバ父よ」と。イエスはどんな時にもこの祈りを失うことはありませんでした。イエスは独り子として、神との交わりの中に立っておられるからです。ひとりこの世に投げ出され、葦のような存在ではありません。イエスは人間イエスとして私達と同様にこの世の秩序の中に立っておられますが、しかし、イエスは神の秩序の中にあります。ここにイエスの人格の秘密があります。イエスは孤独な方ではなく、本質的に交わりの中に、神との連帯の中にある方なのです。

 

このようなイエスの存在を、神の行為という方向から見ますと、神がイエスにおいて全ての人間に対する愛を示されているということです。つまり、ナザレのイエスというただの人の生涯と死(十字架)と復活において、神はすべての人間に対する働きかけを遂行されているのです。その意味で、イエスにおいて私達は活ける神に出会うのです。ナザレのイエスはただの人間です。特別な人間ではありません。しかし、同時にイエスは真実な人間です。人間が何によって生き、他者との関わりにおいてどうあるべきかという、人間の本来的な姿を、イエスは具現しておられる方です。イエスはアバ父よ、と祈ることによって、人間が神の子供であること、神の配慮の下ではじめて真実の人間として立ち得ることをしめしておられます。十字架上でイエスがあげた「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という悲痛な叫びには、その背後に深い神信頼があらわれていると言えます。イエスは自分の生を自分だけで考えたり、自分だけの欲望によって満たそうとはされませんでした。徹底的に父なる神への信頼によって、イエスは神と離れた人間の生が真実たり得ないことを明らかにしておられるのです。「主なる神と神の愛の力によってこそ人間は生きる」。これが人間イエスがご自身によって明らかにした真理です。

 

それと共に、イエスが十字架に至る、その生涯の歩みにおいて、神の下に生きる人間が様々な人間関係の中で、どのような道を進むのかということも、同様に明らかにしているのです。マルコによる福音書 10:45には、「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」とあります。この言葉の中には、イエスが人々の中でどのように歩まれたかが明らかに示されています。〈仕えられるためではなく、仕えるため〉に、イエスは来たのだということによって、イエスは神の愛を人間と人間との関係の中で確立してゆくことを求められたのです。

 

しかし、このようなイエスは、私達にとっては躓き以外の何者でもありません。イエスの真実によって、私達の偽りが明らかとされるからです。私達が何を基盤に生きているか、そこから他者との関わりをどう形成しているか。それらの一切が、イエスにおいて問われてしまうからです。私達はイエスの前に立つときに、みじめな歪んだ人間にすぎないことが示されます。しかし、そこからイエスを通して私達は、イエスが立ち給う所に立つべく招かれているのです。

 

信仰とは、躓きとしてのイエス聖霊の力によって私達の中に受け入れさせていただくことです。その時に私達は、イエスと共に、ただの人間として、しかし孤独な者としてではなく、神との交わりの中に、つまり、神の秩序の中に豊かな神の愛を受けつつ歩むことがゆるされているのです。もし躓きとしてのイエスを拒絶してしまったとしたら、私達はいつまでも孤独な者として歩み続けなければなりません。我を張りながら。そのような者にとっては、救いが閉ざされているのだということが、故郷の人々がイエスにとった行為において、私達に示されているのであります。

 

先週の説教で私は、<船越教会の平和センター宣言で言い表されている、「あらゆる暴力から解放されて、自由、平等、人権、多様性が尊重される平和な世界」とは、聖書に語られているキリストの王国である神の国と言ってよいでしょう。ですから、この平和センター宣言は、今なお、命を脅かすあらゆる暴力が、この地球上に蔓延しているこの世の現実の中で、神の国の実現を希求して、わたしたちは生きて行くのだという宣言であると、言えると思うのです>と言いました。今日のルカ福音書のナザレの会堂での物語のように、<貧しい人>のその抑圧と圧迫からの解放という預言がイエスにおいて成就しているということは、イエスにおいて「「あらゆる暴力から解放されて、自由、平等、人権、多様性が尊重される平和な世界」である神の国は、ただ希求の対象と言うだけでなく、既にイエスにおいて実現成就しているということでもあります。そのイエスが、復活の主として、今も私たちを<貧しい人>のその抑圧と圧迫からの解放を告げる預言の成就としての神の国へと招いていることを覚えて、その招きに応えて生きていきたいと願います。

 

主がそのように私たちを導いてくださいますように!

  

祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • 神さま、現在私たちが生きていますこの世界の現実は、成長神話と競争と争いによって、弱者の命と生活が、至る所で脅かされています。私たちはその厳しさに目を奪われ、失望落胆し、希望をもって生きることをあきらめてしまう誘惑に惑わされ勝ちです。
  • 神さま、あなたがイエスにおいて示された救いと解放の音ずれを見失うことなく、私たちにイエスの後に従って生きる信仰を与えてください。小さくされている人を捨てて上を目指して生きている人々の中で、あなたが大切にされている小さくされている人々と共に私たちが生きてい行くことができますように、お導きください。
  • 苦しむ人々を支え、助けてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩ 讃 美 歌   356(インマヌエルの主イエスこそ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-356.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                        

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。

yogennnojyoujyu