12月18(日)待降節第4日礼拝(10:30開始)
(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま
しょう(各自黙祷)。
② 招きの言葉 「もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ高低のある地は平らになり、険しい所は平地になる。こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。」
(イザヤ書40:4-5)
③ 讃美歌 17(聖なる主の美しさと)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-017.htm
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編89編20-30節(讃美歌交読文93頁)
(当該箇所を黙読する)
⑥ 聖 書 ルカによる福音書1章26-38節a(新約100頁)
(当該箇所を黙読する)
⑦ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 242(主を待ち望むアドヴェント)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-242.htm
⑨ 説 教 「お言葉通りに」 北村慈郎牧師
祈 祷
「昨日私は米原から京都寄りの野洲(やす)というところにある日本基督教団近江平安教会に、神学校時代の同級生同士で結婚して、二人とも牧師の友人の連れ合いの葬儀があり、日帰りで行ってきました。朝6時半に鶴巻を出て、午後5時ごろ鶴巻に帰ってくるという強行スケジュールでした。
帰天した彼女は、1994年に多発性硬化症という病気を発症しました。その頃、彼らも私たちも名古屋にいましたので、私の連れ合いの千賀は彼女の入院した病院に度々行き、彼女の体をマッサージしていたことを思い出します。彼女は段々と体が動かなくなり、寝たきりの状態になり、彼がずっと支えてきました。28年間です。彼も数年前に癌を患い、その治療をしながら、彼女を神の下に送るまではとの思いでいましたが、15日(木)夜に彼女は帰天しました。
彼からは、彼女が帰天した時には私が葬儀の言葉を語るように頼まれていました。15日(木)夜10時ごろ、彼から電話があり、彼女が帰天したので私に葬儀の話をと言われましたが、その前日の14日夜に帰天した関田先生の葬儀もあるのでと言いましたら、私ができない場合にしていただく方がいたのですが、その方も入院していましたので、彼は困った末に仕方がない自分ですると言って電話を切りました。
私は翌日16日の朝、彼女の葬儀の日が何もなければ式には参列するつもりで、彼に電話して、彼女の葬儀の日程を聞きました。すると、東京や横浜では考えられないのですが、帰天した翌日の16日(金)が前夜式で、17(土)が告別式だと言うのです。それなら無理すれば頼まれていた葬儀式の説教はできるよ、といいましたら、彼は彼女の葬儀には、彼女が書き残していた説教を自分がそのまま読むことにするから無理するなと、言うので、私は告別式には参列だけすることにしたのです。
彼が彼女の告別式で語った彼女説教は、「待つこと、祈ること」という題で、聖書箇所はイザヤ書30章18節の「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵みを施される。それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。主は公平の神でいらせられる。すべて主を待ち望む者はさいわいである」でした。
彼が紹介した彼女の説教は、彼女が自分の体が段々動かなくなっていく中で、何故かと問い、段々祈れなくなっていく中で、私たちが神を待ち望み、祈ることができるのは、神がわたしたちを待ち望み、恵みを施されるからだと気づかされ、病で動けなくなっている私にも、神が共にいてくださるのだという信仰を語っていたように、私は受け止めました。彼女の説教のテキストのイザヤ書には、そのすぐ後に「わが主はなたたちに、災いのパンと苦しみの水を与えられた。あなたを導かれる方は、もはや隠れておられることなく、あなたの目は常に、あなたを導かれる方を見る」(30:20)と語られています。
この彼女の説教に、先ほど読んでいただいた、ルカによる福音書の1章26節以下の「マリアの受胎告知」のマリアの信仰と共通したものを感じましたので、お話させてもらいました。
さて、マリアはヨセフと婚約して、まだ結婚していなかった時に、ある時、天使ガブリエルを通して、「おめでとう、恵まれた方、主があなたとともにおられます」と言われました。
その時、マリアは何歳ぐらいだったかといいますと、14歳、15歳(『最初のクリスマス』39頁)位だったと言われています。この神の言葉を聞いて、マリアは「戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」(ルカ1:29)というのです。
天使ガブリエルを通して神の言葉を聞いても、最初マリアは何のことだか分からなかったのです。他の人からの言葉もそうですが、最初は分からなくても、私たちにとって大切な言葉であることが、後から分かることがあるものです。ですから、最初分からなくても、その言葉を大切に聞いて自分の胸にしまっておくことが必要です。胸にしまってその言葉を思い巡らしているうちに、分かってくることがあるからです。
「戸惑い、考え込んだ」マリアに向って、天使ガブリエルは、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵をいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(30-33節)。
するとマリアは天使ガブリエルに言いました。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(34節)と。
天使ガブリエルは答えて、マリアに言いました。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリザベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神にはできないことは何一つない」(35-37節)。
すると、マリアは天使ガブリエルを通して神と対話して納得したのでしょう。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(38節)と言ったというのです。
そこで、神とマリアの間を取り次いだ天使ガブリエルは、マリアのもとを去っていきました。
この受胎告知の物語には、マリアがどのようにして神の言葉を聞いたのかということが記るされています。そしてマリアは、神がマリアに与えられたイエスの母となるという道を、引き受けて生きてゆくことになりました。そのことが、マリアが神の言葉を聞いたということなのです。
その後マリアには、いろいろな苦しみがありました。すぐ婚約者のヨセフから離縁されそうになりましたし、マリアのお腹の子は姦淫の子ではないかと疑われて、ユダヤ人からは石打の刑にされそうにもなりました。でもマリアに現れた神はヨセフにも現れて神の言葉を語り、ヨセフはマリアを妻として迎えて、マリアへの危険が除かれました。
その後のマリアの人生にもいろいろなことが起こったでしょう。特に自分の最愛の子イエスが十字架に架けられた時のマリアのことを思うと、その苦しみがどんなに深かったかと思わざるを得ません。私たちの想像を超えていると思われます。けれども、「主があなたとともにおられます」という天使ガブリエルから聞いた神の言葉に支えられ、導かれて、マリアは最後まで人生を全うしたのだと思います。
そのマリアの信仰は、苦しむ者と共にいたもう神への信仰と言えるのではないでしょうか。先ほど最初にお話した彼女の信仰もそうだと思います。
私は若い時に、28年間病を抱えながら生きて、帰天した彼女とは違いますが、筋萎縮症という病気で全身が動かなくなって寝たきりになった母がいました。発症したのは私が中学生の終わりころで、それから一年半から2年後には全く動けなくなりました。私が高校を卒業して2年目の6月に亡くなりましたので、3年から4年の間寝たきりの状態でいました。28年間病を抱えて生きた彼女から友人の夫である彼は逃げ出したいと思ったことは一度もないと思います。彼は彼女を常に愛おしく思っていたからです。しかし、その頃の私は母の病を共に負うという人間ではありませんでした。チャンスがあれば、母をそっちのけにして、友達と遊ぶ方を選んでいたからです。高校3年生の時に友達から教会に誘われて、教会に行くようになってから、そういう自分本位に生きてしまうことが罪と気づかされて、私は洗礼を受けるようになったのです。そうでなければ、他者の苦しみなどそっちのけにして、自分の幸福だけを追いかけて生きていたと思います。そういう自分であれば、自分が勝手に作り出した神ですが、自分が幸せな時にだけ神がいるとしか思えなかったでしょう。苦しむ者と共にいたもう神などという信仰は、その時の私には全く考えられなかったと思います。今でもそういう若い時の私であれば、現在のようにいろいろな苦しみが満ちているこの世界の現実の只中に、神がいるなどということも論外であって、むしろ今の世界は神に見放された世界だと思うでしょう。この世界の現実にイエスの十字架が立っているなどということは信じられなかったと思います。世界が崩壊していこうとしても、自分だけ幸せに生きられれば、それでいいではないかと割り切っていくしかないと思っていたでしょう。苦しむ者と共に苦しみ、苦しみから解放されて喜ぶ者と共に喜ぶ、それがキリスト者の生き方ではないかと思うのですが、洗礼を受ける前の若い時の私には、そのような信仰は全くなかったと思います。
勿論キリスト者である私たちにとっても、苦しんでいるときに神が共にいてくださるということを、そう簡単に信じることはできません。けれども、イエスが十字架上で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と祈られたように、私たちも祈ることはできるではないでしょうか。この苦しいに満ちている世界の現実の中で、「どうしてなのか」と、神に問いかけ、神に祈ることはできるのではないでしょうか。そうすれば、必ず答えが与えられるに違いありません。
イエス言いました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と。
私は、以前紅葉坂教会時代に子どもと大人の合同礼拝の説教で、このマリアの受胎告知の箇所から、神の言葉をご飯のように食べることの大切さを語ったことがあります。このようにです。
「私たちが、日曜日になると教会に来て礼拝をするのは、どうしてでしょうか? それは、私たちが、毎日ごはんを食べてからだの健康を大切にしながら生活しているように、日曜毎に礼拝に来て、神様から言葉をいただいて、心の健康を大切にしながら生活しているからです。ですから、日曜毎に教会の礼拝に来るのは、神様の言葉というごはんをいただくためです。神の言葉のごはんは、日曜日の礼拝でだけしか、いただけないのではありません。自分で聖書を読み、お祈りするときにも、私たちは神さまの言葉のごはんをいただいているのです。ただ自分だけで聖書を読み、お祈りするだけですと、自分の好きな神の言葉のごはんしか食べなくなってしまうので、バランスのよい神の言葉のごはんを食べるためには、神の言葉のご飯を食べるお友達と一緒に教会の礼拝に出ることが大切なのです」。
この苦難に満ちた世界の中で健康な心をもって生きていくためには、「お言葉どおり、この身になりますように」とうマリアのように、神の言葉を食べることが必要なのです。今日は、4本のローソクに灯がともり、いよいよ主の降誕を祝うクリスマスです。この一週間、「お言葉どおり、この身になりますように」とうマリアの言葉を噛みしめながら、歩みたいと思います。
祈ります。
- 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
- アドベントも第4主日を迎えました。いよいよ今週の土曜日には燭火礼拝が行われ、25日の日曜日はクリスマス礼拝です。主イエスの降誕が意味する、「神我らと共に」、インマヌエルの現実を、今この世界と社会の只中で信じる者に、私たちを導いてください。
- 様々な苦しみの中で呻吟している方々の上に、あなたの支えと人からの助けが与えられますように。
- 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
- 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
- この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン。
⑩ 231(久しく待ちにし)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-231.htm
⑪ 献 金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)
⑫ 頌 栄 28(各自歌う)
讃美歌21 28(み栄えあれや)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。