なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(2)「すべての人を照らす光」ヨハネ1:6-14

1月15(日)降誕節第4主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。            (ヨハネ3:16)

③ 讃美歌   149(わがたまたたえよ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-149.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編101編1-8節(讃美歌交読文109頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書1章6-13節(新約163頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   280(馬槽のなかに)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-280.htm

⑨ 説  教  「すべての人を照らす光」         北村慈郎牧師

  祈  祷

 

ヨハネ福音書の最初に出てくる「言(ロゴス)讃歌」においては、この世で神と言われるものは「言(ロゴス)」だったのだと思われます。ヨハネ福音書の序に当たる最初の所で、ヨハネ福音書の著者が、人々によく知られていたこの「ロゴス讃歌」を持ってきたのは、人々が神的だとほめたたえている、そのロゴスが歴史化した(受肉した)存在がイエス・キリストなのだということを言いたいためだったと思われます。

 

前回の説教では、1-5節を取り上げました。この部分は、「ロゴス讃歌」そのものです。しかし、今日の箇所の最初の所の6-8節は、「ロゴス讃歌」そのものとは言えません。

 

ヨハネ福音書は、その著者が伝承に基づいて書いたものですが、さらに後の教会による編集が加えられていると言われています。ですからヨハネ福音書の記事には三段階の手が加えられた文言が混ざってできていると考えられます。1-5節は伝承に当たる部分ですが、6-8節は編集の段階で加えられたもので、ヨハネ福音書の著者の編集部分と言えると思います。

 

「言(ロゴス)」は、神で、創造の初めから神と共にあり、すべてのものはその「言(ロゴス)」によってつくられ、その「言(ロゴス)」は人間を照らす「命の光」だった。光や暗闇の中に輝いていて、暗闇は光を理解しなかった(口語訳「勝たなかった」)と言うのです。 

 

その後、6節からバプテスマのヨハネについての記事が突然出てきます。「ロゴス讃歌」としては、5節から9節に続くのではないかと思われます。5節の「そして光は闇の中に現れる。そして闇はそれをとらえなかった」(田川訳)に続いて、9節「真の光があった。すべての人間を照らすものである。それが世に来た」(田川訳)というように、です。

 

ところが、ヨハネ福音書には、5節と9節を切断して、その間にバプテスマのヨハネの記事が入っているのです。しかも共観福音書バプテスマのヨハネとは違った描き方をヨハネ福音書ではしています。共観福音書では、ヨハネは「洗礼者」であり、イエスの「先駆者」として描かれています。けれども、ヨハネ福音書のこの個所でのヨハネはそのどちらでもなく、「証言者」として描かれているのです。

 

6-8節を田川訳で読んでみます。「人がいた。神のもとから派遣されたのである。名前はヨハネという。その者は証言のために来た。光について証言するため、すべての者が彼によって信じるためである。かの者が光であったのではない。光について証言するためだったのだ」。

 

この部分はヨハネ福音書の著者自身の編集だとすると、ヨハネ福音書の著者はなぜバプテスマのヨハネを、全ての人を照らす光である「言(ロゴス)」の「証言者」として描いたのでしょうか。注解者の中には、もともと「ロゴス讃歌」はバプテスマのヨハネを信奉するヨハネ教団の中で、バプテスマのヨハネを「ロゴス」とするものとして保存されていたと言うのです。それをヨハネ福音書の著者と教会は、ヨハネ教団の中にあったロゴス讃歌をイエスに当てはめることによって、バプテスマのヨハネをその証人に仕立て上げたと言うのです。そこで、わざわざ「かの者(ヨハネ)が光であったのではない。光について証言するためだったのだ」(9節、田川訳)とヨハネ福音書の著者は言っているのだと言うのです。

 

もしそうだとすると、ヨハネによる福音書が書かれた時には、バプテスマのヨハネを信じる人たちの教団とイエスを信じる者たちの教会との間で、ヨハネとイエスのどちらが「言(ロゴス)」なのか、メシア(救い主)なのか、という議論があったことを物語っているように思われます。ヨハネ福音書の著者は当然イエスをメシア(救い主)と信じる教会に属する者として、この福音書を書いていますので、バプテスマのヨハネを証言者として描いたのでしょう。バプテスマのヨハネは、「光ではなく、光について証しをするために来た」(9節、新共同訳)と。

 

共観福音書では、イエスヨハネについて、「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼より偉大である」(マタイ11:11)と言われています。命であり、人間を照らす光である「言(ロゴス)」を証言することは、人間として偉大なことですが、「言(ロゴス)」である人間を照らす命の光によって生かされる神の国の住人である信仰者はそれ以上に偉大だと言うのでしょう。

 

ヨハネは、光ではなく、光について証しするために来た。9節では、「真の光があった。すべての人間を照らすものである。それが世に来た」(田川訳)と言われています。この節は光がすべての人々を照らすという4-5節の考えを受け継いでいますが、その光が「この世に来た」ことも明確にしています。このように9節は受肉について新しく触れているのです。つまり、受肉した光であるイエス・キリストが、この闇の世である人類の歴史においてすべての人を照らす命の光だと言っているのです。

 

そして、全ての人を照らす光に対して、世は受け入れるのではなく、認めようとしなかった。「それ(〈言(ロゴス)〉)は世にあった。そして世はそれによって生じた。そして世は彼を認識しなかった」(10節、田川訳)。のです。田川さんは、この10節の最後の部分「『そして世は彼を認識しなかった』(田川訳)は教会的編集者の付加。…次節以降しばらく教会的編集者の文が続くから、すでにこの文から教会的編集者の付加がはじまっている、とみなすのがいい」と言っています。そして11~13節を「教会的編集者による挿入」と言うのです。

 

11-13節「(彼は)自分のところに来た。そして自分の者たちは彼を引き取らなかった。彼を受け取った者たちは、その者たちには、神の子となる権利を与えた。すなわち、彼の名を信じる者たちである。〔彼らは〕血からではなく、肉の意志からでもなく、男の意志からでもなく、神から生まれたのだ」(田川訳)。

 

そしてこの教会的編集者によるこの部分はドグマが描かれていて、ロゴス讃歌とは全く関係がないと言っています。他方注解者によってはこの部分もロゴス讃歌として注解している人もいます。

さて、今日のヨハネ福音書のこの箇所の中で語られている「すべての人を照らす光としてのイエス」を信じて生きる私たちは、この世の闇の深さだけではなく、私たち一人一人の人間の中にある闇の深さも、イエスの光に照らされて自覚しているのではないでしょうか。

 

関田先生は、『目はかすまず 気力は失せず~講演・論考・説教~』と言う最後の著書の中に納めされている、『福音と世界』に書いた「『老い』を生きるための黙想」の中で、このように述べています。「森有正が『人には誰にも言えない闇がある』と言う時、それはすべての人の共感をよぶのではなかろうか。そのことは夫婦の間、親子の間、その他あらゆる関係に生きる人間の内面にある現実ではなかろうか。教会という信仰共同体の中においても、平和と共生を求めて運動する仲間の間においても、必ず現れてくる罪の現実であることを私たちは忘れてはならない。罪と孤独と絶望の渕に立って死の誘惑にさらされる場合もあるのではないか。そのような『独り』の私はどのように生きていけるのであろうか」と。

 

闇を闇として認識することができるのは、光によってではないかと思うのです。ですから、森有正が「人には誰にも言えない闇がある」と言っているとするなら、光に照らされた自らの罪の現実を認めていたということではないでしょうか。

 

しかし、人はこの世の闇も、自分の中にある闇も、闇として認識もできずに闇に支配された人間として生きてしまうことがあり得るのです。私は最近、電車の中で高橋源一郎の『ぼくらの戦争なんだぜ』という本を読んでいて、もうすぐ読み終わるところまできました。その本の中にもかつての日本の侵略戦争に兵士としてアジアの国々に派遣された人の中には、その時は抵抗なく銃で人を殺し、女性を犯し、他人の所有物を奪うことをしていた人のことが書かれています。むしろ、それをしない兵隊の方が異常だったのかもしれません。

 

この本の中に、「世界全体が狂っていて、自分だけが狂っていないとするなら、そんな人間に対して、世界は『お前は狂っている』と宣言するだろう」という言葉があります。

 

また、この本の中に鶴見俊輔さんのことが書かれているところがあります。「鶴見さんは、戦争前にアメリカのハーヴァード大学に留学した。ハーヴァードで、1940年には、日本人の留学生は鶴見さんひとりだったそうだ。その後、太平洋戦争が始まり、卒業直前の鶴見さんは、FBIに逮捕されたりもした。鶴見さんは、日本が負けると思っていた。アメリカに残る選択肢もあったけれど、負ける祖国の下にいたいと思って帰国した。その後、兵士として暗号解読の仕事についた。そして、・・・いつ自殺してもいいように青酸カリの小瓶を持ち歩いた。なぜそう思ったのか。自分は弱い人間で、『非常時』には、兵士として人を殺したり、関係のない現地の女性を犯したりするだろうから、そうならないために準備したのである」。

 

鶴見さんは、天皇が脳の病気を持っていたということが、子供であった自分でも知っていたくらいに広く知られていた、大正時代の平和であった平時に育って、その平時を基準にして、昭和になってから戦争準備にはいていった非常時と、戦争に突入した戦時を見ることができた人です。この本には、鶴見さん自身がこのように書いていると紹介しています。

 

「時代の空気の中に教育がある。そのために私などの年齢では、平時が基準になっていて、それによって非常時をうとましく感じ、戦時を異常と感じるが、昭和に入ってそだった日本人にとっては非常時と戦時が基準で、平時は、なまけぐせ、あるいは非国民的、告発されるべきもの、不健康な思想をもつものは牢獄に入れてしまえということになる」。

 

私たちは、この世の闇にも、自分自身の闇にも打ち勝った命の光そのものであるイエスという方を、何の幸いか、信じる者とされているのではないでしょうか。その信仰によって、イエスの仲間として、私たち自身はイエスにはなれませんが、平和の主であるイエスに倣って生きることへと招かれていることを覚えたいと思います。残念ながら戦時下の教会は、ごく少数の戦争協力をしなかった人以外は、信徒に戦争協力を求めました。兵士となった信徒には戦勝祈願の祈りをして、戦地に送り出しました。戦地に行ったキリスト者の中には苦しんだ人も多かったと思います。しかし、戦争というこの世の闇に飲み込まれてしまった人が多かったのではないでしょうか。

 

現在、日本政府は防衛費を増額し、「国家安全保障戦略」「国家防衛戦略」「防衛力整備計画」という、いわゆる「安保3文書」を閣議決定し、敵地攻撃も含めて、憲法第9条を骨抜きにして、軍事力の強化に邁進しています。これは明らかに戦争を想定した準備です。既に狂った世に突入していると言っても過言ではありません。あの悲惨な戦争を再び起こしてはなりません。平和の主イエスの命の光に照らされて、この世の闇と自分の中にある闇に打ち勝って、平和をつくり出す者として歩み続けたいと思います。軍事力によっては平和はないことを訴え続けたいと思います。あっては欲しくないと思いますが、たとえ狂ってしまった世界から、「お前が狂っている」と言われるようなことがあっても、イエスの命の光に照らされた光の子として歩み続けたいと、切に願います。

 

主がそのように私たち一人一人を導いて、その命の力を与えてくださいますように!

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝をおこなうことができ、また私たちがこの礼拝に連なることができ、ありがとうございました。
  • 今日は、ヨハネによる福音書から、全ての人を照らす命の光である主イエスに従って、闇の世を生きる信仰者の生きざまについて教えられました。私たちは、この世の闇によって教えられ、形づくられてしまう弱さを持っている者たちです。この世が戦争に突入すれば、戦争に協力する者に仕立て上げられますし、この世が経済を優先し、競争に勝つことを推奨すれば、それに従う人間に形づくられていきます。
  • 神さま、ロシアのウクライナへの軍事侵攻によって、世界は、軍事力による安全保障と言って、力に頼る方向へと動いています。日本の政府もその方向に邁進しようとしています。しかし、力によっては、平和は来ません。平和は、違いを持った者が互いに相手を尊重し、相互の信頼と支え合い、助け合いによって到来するものです。主イエスは、その平和を私たちにもたらしてくださった方です。そのイエスに倣って、私たちも平和をつくり出す者にしてください。
  • この世の闇と自らの中にある闇によって苦しむ人々を助けてください。今命と生活が脅かされている人々を助けてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩   55(人となりたる神のことば)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-055.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                       

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。